第13話 薄暮
どんな顔をして会えばいいのか。そう思ったけれど、僕はもう一度だけ沙絵さんの家を訪ねることにした。このまま旅立ってしまえば、二度と会えないような気がしたから。
沙絵さんは前にも増して顔色が悪く、座っているだけで辛そうだった。
「あの、やっぱり……」
「いいの」
帰ろうとした僕を引き留め、彼女は儚げに微笑んだ。
「大丈夫?」
「ええ。あとは日にち薬。どちらにせよ、もう」
そう言ってお腹に手を当てていたけれど、当時の僕には何のことか分からなかった。
縁側に並んで座り、小さな北山杉を眺める。
数えたところで本数が変わるわけでもないのに、黙ったまま、僕は繰り返し立ち木の数を数えていた。
「この家に引っ越してくる少し前にね……」
沙絵さんが、ポツリと言った。
「あの人は、人助けをしたの」
言葉の内容と口調が、噛み合っていなかった。沙絵さんはとても辛いことを話すように、それを口にした。
「日が暮れてから煙草が切れたのに気付いて、買いに行こうとしたら、あの人が言ったの。もう遅いから君は家にいろって。散歩がてら、ぶらぶら買いに行くから気にしなくてもいいって」
煙草を買いに出た雅尚さんは、橋の上に佇む若い女性を見かけた。沙絵さんと同じぐらいの年齢に見えたという。
もう日が暮れると言うのに、何をしているのだろう? 失くしものなら、一緒に探してあげようか。そう思って近付いた時、彼女はおもむろに、履物を脱ぎ、橋の欄干を越えようとした。
『危ない!』
慌てて駆け寄った雅尚さんは、辛うじて女性の腕を掴んだ。
振り向いた彼女の顔を見て雅尚さんは驚いた。乱れた髪が纏わりついた白い顔。その眼は絶望に光を失い、こけた頬には涙の跡があった。
『お願い。死なせて』
絞り出すような声でそう言う彼女の肩を掴み、雅尚さんは女性を橋の内側に引き戻した。
何があったかは知らないが、死んで良い筈がない。君が死んだら悲しむ人がいる筈だ。生きていればきっと良い事がある。あのとき死ななくて良かったと思える日が、きっと来る。死んではいけない。
思いつく限りの言葉を重ね、雅尚さんは女性を説得した。彼女は懇願し、唇を噛み、やがて諦めたように目を伏せた。
近くの交番に事情を説明し、彼女を預けた。雅尚さんは自分の名前を告げ、出来ることがあったら力を貸すと言った。君と同じ歳ぐらいの妻がいるから、友達になるといい。家に遊びにおいで、と。
「雅尚さんはお巡りさんに褒められたって言ってた。表彰されるかもしれないって。私は、そんな夫が誇らしかった。その女性は本当に遊びに来るかしら、友達になれるかしらって思うと、明日が来るのが楽しみだった」
けれど、その日は訪れなかった。
ある日の新聞に、近所で若い女性の変死体が見つかったという記事が載った。
新聞を睨んだまま動かなくなった雅尚さんを心配して、紙面に目を落とした沙絵さんは、書かれていた内容を読んで、その場に崩れ落ちた。
添えられていた丸い写真は、間違いなく彼が助けた女性のものだった。
彼女の身体には、執拗な暴行の痕があったという。顔にも酷い損傷があり、歯形から漸く被害者が判明したのだと新聞には書かれていた。
彼女は何かから逃げていたのだろう。雅尚さんが助けてしまったことによって、追手に彼女の所在が知れてしまったに違いない。詳細に書かれた記事の内容は、そう思わせるに十分なものだった。
そして彼女は残忍な暴力によって、耐えがたい苦痛の中で命を落としたのだ。
記事の最後には、おまけのように一行の記載があった。彼女のお腹にあった、生まれ出る前の小さい命もまた、無残に失われていたと。
雅尚さんは己の行いを悔いた。あの日彼女を助けなければ、彼女は苦痛なく死ぬことが出来たかもしれないのに。自分が彼女を追手に渡してしまったのだ。お腹の子を守る事すら諦めねばならない程に追い詰められていた彼女を、無造作に狼の群れの前に放り出した。無責任で自分勝手な善意を、彼女はどれほど恨めしく思ったことだろう。
苦悩する夫に掛ける言葉もなく、泣くことも出来ず。沙絵さんはただ黙ってそれを見ているしかなかった。
僕の知らない事件だった。ここではない何処かで起きた事件。
「その日、あの人の心は壊れたの。壊れてしまって、もう戻らない」
沙絵さんは言った。うつろな眼差しで。僕を見ずに。
「時々発作を起こすの。慰めてあげたら落ち着くんだけど、私、具合が悪かったから」
雅尚さんが退職したのは、精神疾患が原因だった。
心無い噂が立ち、沙絵さんたちは逃げるようにここに越してきたのだという。親戚や友人とも連絡を絶ち、新聞も取るのをやめた。紙面が擦れる音とインクの匂いが、雅尚さんにその日のことを思い出させるから。
「あの日、煙草が切れたことに、もっと早く気付いていれば。私が買いに行っていれば。いいえ、せめて新聞を読ませなければ……」
縁側を冷たい風が渡る。雅尚さんは、いつもここに座って、物思いに耽るように煙草をふかしていた。もしかしたら、彼の視線の先には、絶えず死があったのかもしれない。それから逃れる手段、男にとって死の対極にあるもの、それが、あの日僕が見たものだったのだろうか。
「ひどい事を言ってごめんなさいね」
沙絵さんは、庭の木に向かって喋っているようだった。
「これからもずっと、発作に怯え、あの人の叫び声に耳を塞いで生きていくのかと思うと、急に耐えられなくなって」
北山杉は彼女の声を聞いているのだろうか。その葉は、かさりとも音を立てずに微かに風に揺れていた。
「あの日に戻りたかった。もう一度やり直すことが出来たら、そしたら……」
沙絵さんは、顔を伏せたまま暫く黙っていたけれど、やがて、小さな声でもう一度「ごめんね」と呟いた。
翌日、僕は実家を後にし、ひとり列車に乗った。沙絵さんには結局、何も告げないまま発つことになったけれど、それで良いと思った。僕に何が出来るというのだ。何の力もない十五歳の僕に。
窓の外を流れていく景色は唯々厭わしく、忘れてしまいたい記憶でしかなかった。
それから三年間、僕は家には帰らなかった。




