第1話 正露丸
あの日、僕は子供だった。
たかだか十五年の人生経験をもって世の中の全てを分かったつもりになり、守られていることにすら気付かなかった。人間なんて所詮はこんなもの、と斜に構えて粋がっていた。
人の想いや、誰かの痛みや、知っているつもりの多くのものは、教科書に書かれた文字を読むように実感を伴わない知識でしかなかった。
何も知らず人生を諦観していた、あの日の僕は、確かに子供だった。
それは突然にやって来た。
二月十四日、学年末テストの初日を終えて帰宅した僕は、玄関ドアの前で立ち竦んでいた。ドアは上下の鍵が固く施錠されていた。鞄には片方の鍵しか入っていない。そして、インターホンを押しても誰も出ない。隣接する歯科医院には本日休診の札が掛かり、ご丁寧にシャッターが下りていた。木曜日には、父はいつも一日ゴルフで家を空ける。
母は急な用事で出掛けたのだろうか。それにしても、息子が帰宅するのが分かっていて両方の鍵を閉めていくことはないだろう。少々苛立ちを感じながら、とりあえずポーチに鞄を下ろした時、腹に異変を感じた。絞られるような痛みと急激な便意が襲う。
──まずい。
戻って来るまでなんて、とても待てない。何とかしなければ。
額に汗を感じながら、僕は今来た道を引き返した。五丁目の道路脇にある公園まで戻れば、公衆便所があった筈だ。あそこならぎりぎり間に合う。
走りたいが、走れない。ふらつくような覚束ない足取りで僕は進んだ。あと少し、もう少し。そして僕は再び途方に暮れた。
公衆便所の入口には、「工事中につき使用禁止」と書かれた札が立てられ、黄色いテープが張られていた。
──もう駄目だ。
半分意識を失いそうになりながら、気が付くと僕は知らない家の呼び鈴を押していた。
「はい」
カラカラと引き戸が開く音と同時に、女性の声がした。
「すみません。トイレ貸してください」
腹を押さえて俯いたまま顔も見ずに、そう言うのが精いっぱいだった。
見ず知らずの家のトイレに駆け込み、ギリギリセーフで事なきを得た後、自分が何処にいるのか認識するのに少し時間が掛かった。田舎の駅にあるような和式トイレ。トイレットペーパーではなくチリ紙が置いてある。そして水洗の筈なのに、水を流すボタンもレバーもない。
──冷静になれ。最悪の状況は脱したのだから。
自分にそう言い聞かせ、立ち上がる。トイレの隅にある小さな水道で手を洗って、ハンカチを忘れた事に気付き、掛けてあった瓢箪柄の手拭いを使わせてもらった。
トイレから出るに出られない。ふと顔を上げた時、目の前に一本の紐が下がっているのが目に入った。先に楕円体の持ち手のようなものがついている。これだ、と思った。テレビで見た事がある。昔の家の水洗トイレには、こんな紐が付いていた。そして、これを引っ張れば。
ザーッという水の流れる音を聞きながら、安堵の溜息が漏れた。
お年寄りの家なのだろうか。親切なお婆さんにお礼を言わなければと思いながらトイレを出た僕は、障子の間から現れた女性の顔を見て三度立ち竦んだ。
CGで作ったのかと思うぐらいの美貌だった。大学生ぐらいだろうか。長い髪を後ろで一つにまとめて白いエプロンを着けた彼女は、「大丈夫?」と心配そうに声を掛けた後、小さく手招きした。
座敷に通され、丸いちゃぶ台の前に座った僕は、黙ったまま顔を上げられないでいた。こんな美人の前でトイレに駆け込んだのだと思うと、己が晒した醜態に消えてしまいたくなる。お礼を言わないといけないにも関わらず、声を出すことすら出来なかった。
ふと、目の前にグラスに入った水と、ラッパのマークが描かれた薬瓶が置かれた。
「いくつ?」
問われて一瞬何のことかと思い、年齢を尋ねられたのだと思い当たった。やっと出た声で「十五歳です」と答えると、彼女は「じゃあ二粒ね」と微笑んだ。目尻が下がり、左頬にえくぼが立つと、「美人」より「可愛い」が勝る。どちらにせよ、冷や汗が出そうだった。
グラスに手を触れると少し温かい。水ではなく湯冷ましなのだと気づいた。
正露丸は糖衣錠ではなかった。凄まじい臭いを放つ錠剤を呑み下した後で「知らない人の家で出された薬を飲んじゃいけない」と親に言われたのを思い出したが、これは正露丸以外の何物でもないだろう。一時間は口臭に悩まされそうだ。
「少し休んでいく?」
屈託なくそう言う彼女に漸くお礼を言って、僕は家を辞することにした。
玄関の外まで送ろうとしてくれる彼女に「ここで結構です」と頭を下げ、僕は格子戸を開けて外に出た。木戸を出て振り向くと、空には夕焼けが広がっていた。その下に、昔風の造りの平屋。こんな家があったのだろうか。毎日通っているのに気付かなかった。というより、気にも留めていなかったのだろう。
木製の郵便箱の近くに表札があった。元々あった表札の上に蒲鉾板のようなものがもう一枚重ねられ、墨で書いたような綺麗な平仮名が縦に並んでいる。
「きのう」。表札には、そう書かれていた。「昨日」と頭の中で変換してしまい、夕暮れの景色と相まって、自分が何処か不思議な空間に迷い込んだような錯覚に囚われた。




