【短編】その他(ファンタジー・現実恋愛等) ※異世界恋愛以外
❖ 賢者の家 ❖
❖❖❖ Real World ❖❖❖
流れてきたエビを船の上から網ですくう、『えびすき漁』なる伝統漁法があるらしい。
たまに、蟹も流れてくるという。
そんな謳い文句で友人に誘い出され、はるばる向かった静岡の海。
「蟹だ、蟹が流れて来た! あ、じゃあ電話切るね!!」
大はしゃぎで海の幸をすくっていた私はその時、話もそこそこに電話を切ってしまったのだ。
――それが伯父からの、最後の電話だった。
そのうち遊びに行けばいい。
だが高速で五時間弱。
四百キロを超える距離に足が遠のく。
日々の生活に追われ、もう何年も会いに行けていなかった。
手紙を書く時は必ず、年齢に見合う常用漢字を調べながら書いてくれるような、そんな細やかな気遣いをしてくれる伯父だった。
幼稚園の頃は大きく書かれた、ひらがなだけの手紙を。
そのうちカタカナが交じるようになり、小学校にあがると少しだけ漢字が増える。
大きくなるにつれ変化する、流麗な文字。
大人になって初めて分かるその凄さに、思わず溜息がでる。
手紙を出す相手に合わせ、季節の言葉を選び、文字をつづる。
優しさに溢れたその手紙をお守りのようにカバンにしまい、私はひとり、家を出た。
高速を走りながら、伯父の人生に思いを馳せる。
早くに親を亡くし、年の離れた弟達を父親代わりとなって育て上げた。
お見合いで娶った妻は結婚後、すぐに脳腫瘍を患い、若くして病床につく。
子をもうけることなく、妻はそのうち若年性認知症を発症した。
伯父は働きながら、亡くなる一か月前まで……。
限界を迎え、妻を施設に預ける直前まで、誰の手も借りることなく、一人で自宅介護を続けたのである。
――ひたすら。
ただひたすら、人のために尽くした人生だった。
だが育て上げた弟たちは皆、伯父よりも若くして事故や病で先立ち、一番近しい親族は甥や姪。
喪主や施設にいる伯母のこと、その他諸々の面倒ごと。
他の親族達から押し付けられるように、私はすべてを任される。
伯父が亡くなったのは、お風呂場だった。
毎日訪れていた伯母のもとへ、ある日突然来なくなったのを施設長が心配し、通報を受けた警察が自宅のガラス窓を割って中に入ったのだ。
その後、室内がどうなったかは何も知らされていない。
私は恐々と玄関のドアを開け、家の中へと足を踏み入れた。
立ち籠める懐かしい木の香りにホッとする。
几帳面な伯父らしく、リビングは綺麗に整頓されており、スーパーのビニール袋が同じ大きさに四角く畳まれ、箱に入っていた。
倒れた時に打ったのだろう。
風呂場の床には少しだけ血が滲んでおり、私はそっと、扉を閉める。
換気のために開け放った窓から、籠もった空気と一緒に大切なものが流れ出て行ってしまう気がして、私はひとりリビングに佇んだ。
ガスの元栓を切り、水道栓を閉め、電気のブレーカーを落として管理会社に電話をする。
締め切られた伯父の書斎にも足を踏み入れ、カーテンを開けた。
陽が高々と昇る、ある晴れた日。
差し込む光が書斎を照らし、振り向いた私は思わず息を呑んだ。
天井まで続く、壁一面の本棚。
三面に設置されたその本棚にはびっしりと蔵書が収められており、郷土資料や歴史書、草花の専門書に技術書……試しに一冊手に取ると、ズシリとした重さに息を呑む。
一冊、また一冊。
気が向くまま手にとっては、夢中になってページをめくる。
いつのまにか、陽が傾きかけていた。
顔を上げ、そこで初めて自分の頬がびしょ濡れだったことに気が付く。
あの時、もっとちゃんと話を聞いていれば。
あの時、何よりも優先して会いにいっていれば。
自分以外誰もいなくなった大きな家で、伯父は一人ぼんやりと、どんな想いで夜を過ごしたのだろう。
ただただ、かなしかった。
人生の分岐点には必ず誰かが立っている。
そして私はいつも気付かず、通り過ぎてから後悔をするのだ。
楔のように胸に埋まったしこりをそのままに、施設にいる妻……伯母に、会いに行った。
身元引受人と保証人、それぞれ別の人が必要なのですと説明される。
高齢者も多く、施設内で亡くなる方がほとんどなのだと。
伯母を施設に預ける際、誰にお願いしようか真面目な伯父はずっと悩んでいたのだという。
伯母方の親戚には、すべて断られてしまった。
だが自分の親戚に一人だけお願い出来そうな者がいると、貴方のことを嬉しそうに話していました、と施設長から告げられる。
でも自分に何かあった時、まだ若い貴方に、直接の血のつながりのない伯母の身元引受人を頼むのは酷過ぎるのではないか。
あまりに悩むので、特別に伯父がひとりで、身元引受人と保証人を兼任することを許したのだと、そう語ってくれた。
そういえば、電話の隣にあったメモ用紙に、伯母方の親族の名前が羅列されているページがあった。
クシャクシャとペンで塗りつぶされた名前達。
これはなんだろうと不思議に思っていたが、皆に断られたのだと今なら分かる。
勇気を出してお願いしたのに、
断られてしまった時、どれほど悲しい気持ちだったことだろう。
たったひとこと、相談してくれればよかったのに。
なぜ思い至らなかったのだろう。
『何か、困っていることはない?』――、と。
その一言を、私は最期まで、言ってあげることができなかった。
もし時間が巻き戻るなら、何度でも伝えるのに。
なにも思いつかなくたって一緒に考えて、美味しいものを食べに行って、それから――。
伯父の真面目さ、清廉さは美徳だ。
だがそれがきっと彼を追い詰め、そして苦しめてしまったのだろう。
伯父のせいではない。
言えない環境を作ってしまったのは、まわりにいた私達のせいだ。
出してくれていたかもしれないサインを見逃してしまった、――私の、せいだ。
その話を聞かされ、初めて会った施設長の前で、私は子どものように泣きじゃくった。
気付いてあげられなかった後悔がまた楔となり、深く心に埋まるのだ。
認知症が進むと、うちでは預かれなくなります。
暴れると困るから、伯父が亡くなったことは彼女には秘密にして欲しいと、施設長にお願いをされた。
最愛の夫が亡くなったことを知らせてあげることもできない。
何もしてあげられず、ただただ待ち続ける姿を見守ることしかできない。
果たしてそれは本当に、正しいことなのだろうか。
知らないでいることは、幸せなことなのだろうか。
だがそれは本人が選択したものでは決してなく、都合の良い世界を作りたい第三者が選び、与えたものなのだ。
何が正解かも分からないまま書類を受け取り、私は施設を後にする。
こんなとき、突如名乗りをあげる親族というものが存在する。
伯母の後見人を申し出たその男性は、伯母と二十年以上連絡すらとっていない、私とは初対面の遠い親戚だった。
なまじ家持ちなので揉めそうな気配を感じ、後見人の申し出は丁重にお断りをする。
後見を立てるなら、私利私欲を交えず叔母のために動き、財産を管理し、かつ皆の納得が得られる者にしたい。
私は早々に、法律家の後見人を立てる手続きを進めた。
直接の親子であればもっと手続きが楽なのに。
何をするにも血のつながりを証明しなくてはならず、面倒臭いことばかりで、全てを投げ出したい気持ちになってしまう。
挙げ句、祖母の土地が正しく登記されていなかったため、一世代前に遡って手続きをし直す羽目になった。
昔の人にはよくあることらしいが、これまた面倒臭い。
権利者が存命でない場合も多く、連絡を取るのも一苦労である。
伯父の葬儀を終え、手続きに奔走する私にまた、一件の着信が入った。
それは伯母がいる施設長から。
「今朝体調が急変し、病院へ救急搬送しました」
悪いところなどどこもなく、あれほど元気だったのに。
まるで伯父が連れて行ったかのように、彼女はその日のうちに息を引き取った。
成年後見人の申立ても終盤を迎え、権利者全員の同意書を揃え、やっと家裁から承認が下りたところであった。
亡くなったという事実が信じられず、呆然としながら再び親族へ連絡の電話を入れる。
何人もいる『いとこ』達はすべて旧帝大院卒。
落ちこぼれの私とは全然違う、いわばエリート集団である。
残された古い家、なかなかお参りに行けないお墓や今後の法事。
頭の良い彼らならきっと、もっと要領よく一切を進められる気がするのに。
同じ立場なのだから、少しでいいから引き受けてくれたら嬉しい。
そう、お願いした。
距離が遠いから、仕事が忙しいから、子供がいるから……。
伯父の時と同様、すべてを丸投げされる。
私だってそうだよ?
そう主張したとしても、きっと得られるものはないに違いない。
それ以上何も言う気になれず、
言いようもない悲しさに気持ちが滅入り
でも言い返す気力もなくどんどん落ち込んで、もういいや、と諦めることにした。
ここまでくれば、あとはもう大丈夫です。
信頼してお任せした法律家が、そう言ってくれた。
ひとつ自分の手を離れ、やっと少し楽に息ができるようになった。
こんなとき、知識を使って誰かのために動ける専門職の人が羨ましい。
そんなことを話しながら酒を呑んだ十年来の友人は、「友達の離婚訴訟を任されて毎日吐きそうだ」と笑っていた。
それぞれに悩みは尽きないのだなと乾杯をすると、喉を伝う酒が、ほんの少し痛みを押し流してくれる。
久しぶりに星空を見上げ、とりとめもなく想いを巡らす。
そして私は、愚にもつかない話を書いた。
こことは違う世界の話。
物語のように、もし彼らが世界を跨いだのだとしたら。
大人になって馬鹿なことを考えているなと思いつつ、願わずにはいられないのだ。
❖❖❖ Another World ❖❖❖
❖ 『 一人目の賢者』 ❖
「主任、我々が担当する今週の『おむかえ』は五名です」
案内係の黒猫が、報告書を持って私のもとを訪れた。
世界に存在する魂の数には限りがあり、それを効率よく廻らせるのが我ら『世界樹の守り人』に課せられた使命である。
「ええと、一人目の方が早速いらっしゃいました。長年にわたり医療分野で世界を牽引された、高名なお医者さまです」
黒猫がそう告げるなり、カランカランと古びた鈴の音が鳴り響く。
床に描かれた六芒星の上に、ふわりと人型の光が浮かんだ。
「ようこそ『賢者』様。わたしは案内役を務めます黒猫ニャロンです」
「……賢者? ここは一体どこだね?」
「ここは現世にて多くの知識や経験を得た『賢者』様たちが、死後最初に訪れる場所です。善人も悪人も、人でないものもすべからく、平等に招かれます」
「なるほど……やはり病には勝てなかったか。で、これから私はどうなるんだね?」
人型の光が興味深げに移動する。
窓を覗くと、大きな大きな世界樹の周りに、見渡す限りの湖が広がっていた。
「貴方はこれから『世界樹の湖』で眠りにつき、持てる知識や経験をすべて世界樹に託していただきます。そして長い眠りから覚めた後、再び新しい魂として現世に戻るのです」
「何に生まれ変わるのかは選べるのか?」
「いえ、残念ながらそれは選べません。もしお連れ様がいらっしゃるなら、三か月ほど猶予がございますが、どうされますか?」
ニャロンの言葉に、一人目の賢者はしばし黙り込む。
「愛する者はすべて先立ってしまった。猶予は不要だ」
「承知しました。眠っている間はすべての負の感情から解放され、優しい記憶のうちに生命の源へと還ります。――それでは、幸せな眠りを」
ポン、と軽やかな破裂音のあと、人型の光をまるい球体が包みこむ。
六芒星の真上にある天井が開き、空に向かってふわりと舞い上がると、まるで風に浮かぶシャボン玉のように陽の光を反射して、虹色に輝いた。
ふわりふわりと風に乗り、『世界樹の湖』に着地する。
幾重もの輪のように波紋が拡がり、ゆっくりと沈みこむ。
やがて水は球体の天井まで覆い隠し、ちゃぽん、と小さな水音をひとつ立てて消えって行った。
❖ 『 二人目の賢者』 ❖
「本日、二人目です。ああ、この方は地域振興に貢献され、沢山の方を笑顔にしてきたようですね」
黒猫がそう告げるなり、カランカランと古びた鈴の音が鳴り響いた。
床に描かれた六芒星の上に、またしてもふわりと人型の光が浮かぶ。
「ようこそ『賢者』様。わたしは案内役を務めます黒猫ニャロンです」
「……ニャロンさん、はじめまして。ここはどこかな?」
「ここは現世にて多くの知識や経験を得た『賢者』様たちが、死後、最初に訪れる場所です」
「突然目の前が真っ暗になったと思ったら、それきり記憶が無くて……そうか、わたしは死んだのか」
目をつぶってずっと聞いていたいような、穏やかで優しい声。
ニャロンは二人目の賢者に、概要を説明する。
「もしお連れ様がいらっしゃるなら、三ヶ月ほど猶予がございます。どうされますか? お連れ様を待たれますか?」
「うん、そうだねぇ……どうしようかな。すぐにどうこうなる話じゃないが、わたしは気が長いほうでね。待つのは嫌いじゃないんだ」
「承知しました。それでは三ヶ月の間、ここ、『賢者の家』でお過ごしください」
「賢者の家……?」
「まぁ、現世で言うところの老人ホームみたいなものです。老人に限ったものではないのですが、一定の条件を満たした者が入る施設とでもいいましょうか」
ぺらぺらといらぬ事を話すニャロンの頭を、私はペチリと軽く叩いた。
この施設を『賢者の家』と名付けたのは、ほかならぬ私自身だ。
そもそも現世でよく使われるらしい、老人ホームと言う言葉が、正直私は好きではない。
なにか終わりを待つ場所のような、終の棲家となるような……。
主観と言われればそれまでだが、『老い』という表現になにか寂しさを感じてしまうからだ。
だって子供が年を取ることを、老いるとは言わないだろう?
老若男女問わず、学び、成長する……様々な背景を持ち、良きも悪きも学びを得た、彼らすべてが漏れなく『賢者』。
だから私はこの場所を、『賢者の家』と名付けたのだ。
「待ち人来たらずだったとしても、この世界をどうぞ心ゆくまでお楽しみください」
二人目の賢者がペコリと一礼すると、目の前に白い扉が現れた。
ニャロンに促され、二人目の賢者は扉の中に消えていく。
「――それでは、幸せな三ヶ月を」
パタンと扉が閉まり、白い扉は光の中に溶けていった。
❖ 『 三人目の賢者』 ❖
「お次は、三人目。ああ、この方は……胎児ですね。母の胎内で芽吹いた命ですが、故あってこちらに参りました」
黒猫がそう告げるなり、またカランカランと古びた鈴の音が鳴り響く。
床に描かれた六芒星の上に、今度は立体的な菱形……ひときわ明るく光り輝く正八面体が現れた。
「ようこそ『賢者』様。わたしは案内役を務めます黒猫ニャロンです」
「……ぼく、まぶしい」
「ああ、外に出るのは初めてなので、余計に眩しく感じられるかもしれません。少し明かりを落としましょうか」
パチンと音がして照明が落ちると、三人目の賢者は嬉しそうにクルクルと回った。
「けんじゃってなに?」
「沢山の知識を持っていたり、徳があったり…それを上手に活かせる人のことを、我々は『賢者』様と呼んでいます」
「ふぅん」
小さな子供のような高い声。
胎内から直接この世界に来て、上手に話ができているところをみると、とても頭の良い子なのだろう。
「でもぼく、なにもしらないよ? だってずっとおなかのなかにいたんだもん。だから、けんじゃ、じゃないよ」
不満そうな声が可愛く空気を揺らしている。
私は三人目の賢者のもとへ歩み寄り、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「君はお母さんのお腹の中で上手に栄養をもらっていただろう? ぐんぐん育って、そしてその心臓は脈打ち、ひとつの命になったんだ。奇跡のようにすごいことを君はしたんだよ」
「ええ~~? じゃあぼく、けんじゃなの?」
「もちろん、君は立派な賢者だ。それにね、ひとついいこともある」
喜んでいるのだろう、ぽよんぽよんと跳ねているその光にそっと手を触れた。
「幼ければ幼いほど、その命は早く廻りの輪に入る。何に生まれ変わるかは選べないが、命の記憶を辿るのは容易くなるだろう」
「……なにいってるのか、わかんない」
難しいことを言われて、拗ねたように震えている。
なんと伝えればいいかなと、私は一生懸命考えた。
「おやすみをすると、君が会いたい人……君を望む人と会えるかもしれない、という話をしたんだよ」
「じゃあぼく、おやすみ、する」
「そうかい? うん、じゃあそうしよう。次は光の下に出て、もう少しだけ、ゆっくり向こうで過ごしてから戻っておいで」
「おやすみなさい」
「おやすみ。――それでは、幸せな眠りを」
❖ 『四人目の賢者』 ❖
「さて四人目は――ああ、咎人か」
ニャロンの言葉を待たず、私は一歩前に出る。
鈴の音は鳴らず、六芒星が赤に染まった。
水底に溜まるヘドロのような物体が、床にべしゃりと落ちる。
「……ようこそ『咎人』よ。良心を失い、他者の痛みに快楽を覚え、欲望のままに二人の命を奪った人ならざる者。残念ながらお前に選択肢はない」
私の言葉を受けて何かを言っているようだが、ブンブンと耳障りな虫の羽音にしか聞こえず、その内容を理解できる者は誰もいない。
私は身動きすることも儘ならないソレに向かい、大きく十字を切った。
それを合図に六芒星の真上にある天井が開き、目もくらむような光が地に向かって降りて来る。
床上にあったヘドロは燃え上がり、苦しそうな羽音はより一層激しさを増した。
半刻……いや、一刻ほど経っただろうか。
プスプスと燃え尽き、灰になったソレは風に巻き上げられ、離散していく。
「ただでさえ魂が不足気味なのに、これではまた数が減ってしまうな」
私の呟きを拾い、ニャロンは困ったように微笑んだ。
❖ 『五人目の賢者』 ❖
「おや、この五人目は――長い闘病生活を経て幼子に戻り、そして……これは興味深いですね。随分と深いところで魂がつながっているようです」
黒猫がそう告げるなり、いつもより長く鈴の音が鳴り響いた。
床に描かれた六芒星の上に、少しオレンジがかった人型の光が浮かぶ。
「ようこそ『賢者』様。わたしは案内役を務めます黒猫ニャロンです」
「こんにちは。なんだか、たくさん夢を見ていたような気がするの。ぼんやりとした記憶が鮮明になって、頭の霧が晴れたようだわ。……ここはどこなの?」
「ここは現世にて多くの知識や経験を得た『賢者』様たちが、死後、最初に訪れる場所です」
「それなら私は死んでしまったのね。ある日突然夫の姿が見えなくなって、次の日も、また次の日も会えなくて、――どうしようもなく嫌な予感がしたの。そうしたら胸が突然苦しくなって、……気が付いたらここに」
少し甘えがかった声は大人のようだが少女のようにも聞こえ、ゆったりと紡がれる言葉は品があり、育ちの良さが窺える。
「私ったら、散々迷惑をかけた挙げ句、先立ってしまったのね」
人型の光が、悲しげに揺らめく。
私は五人目の賢者に向かい語り掛けた。
「貴方を望み、貴方を待つ者がいます」
「私を望み、待つ者? そんな人がいるかしら?」
「貴女が一番に望む者を思い浮かべてください。一致すれば、幸せな眠りのうちに共に手を携え、生命の源へと還ることができるでしょう」
「一致しなければ?」
「それぞれに眠るだけです。幸せの形は数多ありますが、一方だけが相手を望んでも、ここでは無効。同じものを、同じだけ……等価であることが条件です」
五人目の賢者はほんの少しだけ首を傾げた。
ともに、おなじだけ、望み望まれなければならないとは。
何と難しいことだろう。
「まだ生きている人でもいいの?」
「構いません。思い浮かべるだけなら自由です。もし他にお連れ様がいらっしゃるなら、三ヶ月ほど猶予もございます」
「そう……」
それきり、五人目の賢者は押し黙る。
私はそのまましばらく口をつぐみ、彼女の言葉を待っていた。
「私はね、結婚してすぐ脳を患って闘病生活に入ったの。子供も諦めるしかなくて……子供が大好きなあの人に、ついに我が子を抱かせてあげることが出来なかったわ」
ぽつり、ぽつりと選ぶように言葉をつむぐ。
「お嬢様育ちだから、大したこともできなかった。お料理なんかあの人のほうが上手だったくらい。それでも体調の良い時を見計らっては、旅行に連れて行ってくれて……歩くのが遅い私に、『お前はいつも仕方ないな』と笑って手を差し伸べてくれたの」
温かな記憶を思い出しているのだろう。
弾むように語る声が、まるで少女のように愛らしい。
「でもね、段々日々の出来事を忘れるようになっていったの。そのうち、何を忘れたかも分からず、感情の制御もできなくなっていった。ある日私はなぜだかとても腹が立って、あの人を思い切り叩いてしまったの」
「……旦那様も、そして貴女自身も、とても驚いたのではないですか?」
「そうね、叩くつもりなんてなかったもの。でもそのうち、それすら忘れて……怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。ぽっかりと記憶が空いて、自分が何をしたかも分からない」
咽び泣くように彼女の声が震えた。
ふと我に返ると、記憶にないものが部屋に散乱している。
爪の間に血がにじみ、なぜか膝は刷りむけ、お気に入りの湯飲みが部屋の隅で粉々になっている。
まるでタイムスリップをしたかのように時空を超えて、自身に突き付けられるのだ。
それは、どれ程の恐怖だろう。
「あんなに尽くしてくれたのに、なにひとつ返せなかった。酷いことばかり言って、傷つけて、きっと嫌われてしまったわね」
しゃくりあげ、絞り出すように語る声に、私は胸が苦しくなる。
彼女自身も苦しみ、つらかった。
そして傍らで支える夫もまたつらく、そんな彼女に心を痛めていたのだ。
「でもこんな私でも、ひとつだけ良いことをしたわ。あの人よりも、先に逝けた。これ以上苦しめなくて済むと思うだけで、私の死はきっと価値がある」
なんて悲しいことを嬉しそうに語るのだろう。
望む人を思い浮かべているのだろうか。
それきり彼女が口をつぐむと、次の瞬間目の前に、大きな白い扉が現れた。
「――なにかしら?」
突然現れた扉を警戒し、顔を強張らせる彼女に、私は扉を開けるよう促した。
恐る恐る手を伸ばし、ドアノブを捻ると、ガチャリと小気味よい音がする。
ゆっくりと開いた扉の向こうでキラキラと輝きを放っていた光は、――そう、二人目の賢者。
お互いに分かったのだろう。
輝きを増し、キラキラとした光の粒が辺りを目映く照らし出す。
「……なぜ、ここに?」
「ああ、君はまだ聞いていなかったのか。実は一足先に来てしまったんだ」
「……!!」
「負けず嫌いの君は、いつも離れまいとすぐ後ろを付いてくる。まさかここまで来るとは思わなかったが……君らしいな」
優しい、優しい声がする。
「生まれ変わりいつかまた会えたら。遠慮はいらないから、いつでも僕のところへおいで」
喜びに輝くオレンジの光……寄り添い、輝きを増していく二つの光は丸い球体に包み込まれ、『世界樹の湖』に沈んでいく。
水面に薄っすらと広がる、途切れ途切れの波紋。
何を忘れても、すべてを世界樹に託しても、何度『生』を巡らせたとしても……魂に刻まれた命の記憶は残り続ける。
「随分と深く魂がつながっていたから、また同じ時、同じ場所に生まれ落ちるかもしれないね」
私は黒猫のニャロンを抱き上げ、世界樹を見つめながら呟いた。
――どうか、そうであってほしい。
願うように天を仰いだ。
『それでは、――幸せな眠りを』
❖❖❖ Re: Real World ❖❖❖
そこまで綴り、私はキーボードを打つ手を止めた。
眠りについた彼らへ、ぼんやりと想いを馳せる。
お嬢様育ちの伯母は掴みどころのない少女のような人であった。
遠くの山が青々と映える、ある晴れた日。
人生で一度だけ、彼女の運転する車の助手席に座ったことがある。
「……あら、きれいなお山」
そう呟くと運転していることを忘れ、呆けたように山に目が釘付けになってしまった。
私は叫んだ。
後部座席にいた伯父も叫んだ。
なんなら泣き叫ぶ勢いで二人で叫んだ。
ぶつかるから!
前を見ろ、頼むから戻って来い。
車を路肩に止めてくれ!!
ガクガクと揺さぶり、私たちは事なきを得た。
事故を起こしたことはないのだが、車庫の柱はひしゃげ、車共々ベコベコだった記憶がある。
色んなことがあったはずなのに。
思い出すのはいつも、こんなことばかりなのだ。
***
『財産として価値の低い物であれば、好きな遺品を持って行っていいですよ』
昨日、連絡を受けた私は車を走らせ、真っ先に書斎へと向かった。
何十年も伯父が使った、どしりと重い、古びた木の机。
引き出しの中に木屑が散らばるその机を自宅に運び入れ、パソコンを乗せ、毎日伯父が座っていた椅子に座り、机に向かう。
ふとしたことで思い出し、ぼんやりと物思いに耽ることが増えてしまった。
自嘲めいた笑みを浮かべ、私は窓から重暗い空を見上げる。
――後悔はずっと、自分の中に。
でも少しだけ大切なものを受け取れたような、そんな気持ちになってくる。
ただの自己満足だったとしても。
いつまでも続く悲しさが、楔のように残っていたとしても。
でも、――それでも。
願わずには、いられないのだ。