第九話「ふわとろドリーミー反逆者」
その夜。夕食を終えてからずっと、暇つぶしを兼ねてだらだらと教科書を流し読みしていたシメリは、はたと気がつく。
「お風呂の時間……」
学生寮には共同の浴場があって、定められた時間を過ぎると閉め出されてしまう。屋根裏に転がった埃だらけの時計を見ると、もう残り三十分を切ろうとしているところだった。
「コムギちゃん起きて! 寮のお風呂しまっちゃうよ」
シメリは寝ているコムギの肩(図によると「かまわんよ」のエリア)を揺り動かし、覚醒を促す。
シメリは自分の創った水で身体を拭くことにも慣れているけれど、コムギに同じ思いをさせるわけにはいかない。暖かい季節とはいえ下手したら風邪をひいてしまう。
「んん……むふふー」
だがコムギは起きない。どころか振動をゆりかごか何かと勘違いして逆に気持ちよさそうにしている。
仕方ないのでシメリは早速コニャーン先生に託された巾着袋の中身を使うことにした。
「ほら! アヒルさんだよー」
お風呂に浮くタイプのあひるのおもちゃが、シメリに押されてぷぴぷぴ鳴く。
コムギはうっすらとまぶたを開いて呟いた。
「ジャガー……」
「うん?」
「あひるのジャガー……みんなの人気者……」
よくわからないが、ジャガーというのはアヒルのおもちゃの名前らしい。
ともかく、ダック・ジャガーの奏でる音色のおかげで、シメリはコムギを共同浴場まで誘導することができた。
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締め切りギリギリに来たせいか、浴場はほとんどふたりの貸し切りだった。浴槽の隅っこに『雷』のピキータと、もう一人知らない青紫髪の上級生が並んでいるけれど、トレーニングのつもりだろうか、瞑想したまま動かないので居ないも同然。
シメリとコムギは手早く身体を洗い、ピキータたちと逆側の角で湯船に身を沈めた。
「ふわぁ、気持ちいいねぇ」
「だねぇ、シメりん」
「あれ? わたしの名前……」
「夢の中まで届いてた」
コムギは心地よさそうにシメリの肩へよりかかってくる。シメリはなんとなしにコムギのほうへ視線を向けた。
遠目には白っぽく見えていた髪だが、こうして近くで観察すると、見る角度によって色を変える、虹というか、何色でもないというか、シャボン玉みたいな色をしていた。
お風呂というシチュエーションもあいまって、なんだか心がふわふわしてくる不思議な色彩だ。
――おっと。女の子どうしとはいえ、お風呂でジロジロ見るのはよくないな。
シメリは目をそらす、というより、特に気を遣う意識もなく、自然と正面へ視線を戻した。
一方のコムギは気にした様子もなく、ぼんやりとまぶたを開けて、単に自分の興味が向いたものを眺めている。
「それ、きれい」
コムギはシメリの首元を指した。そこには雫型の小さなガラス玉を紐に通した、素朴なペンダントが浮いている。
「ああ、これ? お風呂で付けてるなんて変かな」
「かわいいと思う」
「ありがと! お気に入りなんだ」
ペンダントは入学前から肌身離さず付けていたものだ。アクセサリーを禁止するような校則もない(でなけりゃ夜光禅のサングラスなんか即アウトだ)が、見せびらかす理由もないので制服の中にしまっていたのだ。
「売ってるやつ?」
「どうだろう。ママからもらったんだけど、拾ったって言ってたから、どこから来たのかわかんないの」
「ふーん」
しばらくそうして他愛もない話に興じていると、あるとき突然ピキータの隣にいた青紫髪の上級生が目を閉じたまま
「残り五分三十秒です。そろそろ上がりましょう」
と言った。
浴場に設置された時計を見ると、確かに残り五分三十秒――発言にかかった時間を差し引いて残り五分二十五秒だった。
脱衣所に続く扉の向こうでは、すりガラス越しのマダムの巨大な影が、片足をトントンしながらまだかまだかと待っている……。
「い、いそごッ」
四人はそそくさと浴場を出て、ささっと身体を拭いたあと、濡れた髪のまま部屋へ戻った。
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部屋で携帯式のドライヤー(粉気を注いでトリガーを引くと『温風』の粉塵爆発を起こしてくれる生活用爆発道具)を使ってどうにかこうにか髪を乾かしたころ、シメリは眠気に襲われた。
コムギも――つい数十分前までたっぷり睡眠をとっていただろうに――ふわぁとあくびをして、シメリと同じベッドにもぐりこんだ。
屋根裏の限られたスペースだとベッドを一つしか置けないので、必然的にこうなるのである。
これ、今はいいけど、上級生になって身長が伸びて、窮屈になってきたらどうするんだろ。ま、いっか。あったかいし……シメリは考えることをやめた。
うつらうつらするシメリに、コムギが話しかけてくる。
「シメりん、ありがと」
「うん……? なにが……?」
「最初の友達になってくれて」
「それも聞いてたんだ……」
シメリはふふっと笑った。今夜はよく眠れそうだ。
「うれし……」
「私も嬉しい。お礼にいいもの見せたげる」
ぐわっ、と隣でコムギが起き上がるのを感じた。気付くとコムギがシメリの上に覆いかぶさり、向かい合う形となっていた。
両手は指と指が絡み合い手のひらがぴったりとくっついていて、決して強い力ではないのに抗いえぬ何かを感じる。ふたりの顔はもう、鼻と鼻がこすれそうなほど近い。シメリの眠気は一気に吹き飛んだ。
えっ、これ、その、なんというか、大丈夫なやつなんだろうか。何らかの校則とか法律のアレコレに反していたりしないだろうか。いや『女の子どうしで密着してはいけない』とか、そんなピンポイントのルールは無かったはずなんだけど。あれ、じゃあいいのか、ええと、あのぉ……とにかく……お手柔らかにぃ……お願いしますぅ……。
シメリの脳内には言葉にできない思考が充満し、ぐわんぐわんと頭が火照る。
「シメりん、どしたの? イヤ? 私、くち、くさい?」
「そそそそんなことないよ! ただね、友達ってわたしも初めてだから、こういうの当たり前だったりするのかなーって、アレコレ考えちゃってね! うん! 全然いいよ! どんと来いだよ! どんと来い超常現象!」
緊張して自分でもよくわからないことを口走っいるシメリに、コムギはふんわりと語りかける。
「だいじょぶ。これ、私とシメりんと、ルナちゃんだけの特別なやつだから」
「ルナちゃん……?」
「おかーさん」
「あ、コニャーン先生の……」
あのひとルナ・コニャーンっていうんだ。名前も綺麗。そんなことを考えているうちに、コムギは動き出した。
「ちょっとモヤモヤするけど我慢してね」
コムギは口から白い吐息を――いや、これは粉気だ! 粉気を器用に口から出している!
粉気や爆力は手から出すのが一般的だが、訓練された粉塵爆発使いは身体のどこからでも放出できるという。この若さで、コムギは一体どんな日々を送ってきたのだろう……。
「一緒に見に行こうよ――『幸せな夢の続き』」
コムギがキスでもするように唇をすぼめると、今度は爆力が飛び出す。
虹色の光が炸裂し、抵抗する間もなく、シメリは意識を手放した。
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――視界が一気に晴れる。
耳をうつ風の音、花まじりの空気のにおい。
さっきまで屋根裏にいたはずのシメリとコムギは、いつの間にか見晴らしの良い丘のうえに立っていた。
ただ、それはシメリが知るどの景色とも違う。だって物理法則が明らかにおかしい。
翼の生えた魚が群れをなして飛ぶ空には、顔のある太陽がほくそ笑み、お布団がスイーッと滑空する。
遥か遠くにそびえる、黄色い山と思っていたものは、なんと巨大化したダック・ジャガーだった。
なにこれ。意味がわからない。わたしは知らないうちに、幻覚が見えるほど追い詰められていたのだろうか。
シメリが戸惑っていると、コムギがいつもよりはっきりとした口調で言う。
「これは『夢』の粉塵爆発。私の創った理想の世界」
コムギはしっかりと二本の足で立ち、寝ている姿とは比べるべくもない、軽やかなステップでくるくる踊る。
「本物の私たちは、あの屋根裏のベッドで寝てる。ふたりの意識だけこっちに来たの」
どうやら自分はコムギの粉塵爆発によって、『夢』の世界に招かれたようだ。状況を理解すれば、異常な空間も楽しげな絵本の世界に見えてくる。
特にあそこの、ガラス玉みたいな実をつけた植物なんて幻想的で――あっ、あれ、わたしのペンダントとお揃いだ。夢の世界は直近でコムギが『良い』と思ったものを反映しているらしかった。
「ステキでしょ? でも今はただのマボロシ。寝てるときしか見られない、楽しくて虚しい空間なの」
シメリが「ほへー」と呆けていると、コムギは次の瞬間、とんでもないことを言い出した。
「私、『魔法使い』になりたいの」