第六話「釘刺しパイルバンカー」
「ふ……ふえぇ……」
シメリはビビった。ビビり散らかしてチビりそうだった。紳士然とした貴族らしきお坊ちゃんが、いきなり壁ドンからの脅迫コンボをキメてきた。もうホラー小説なんてメじゃない爆発的な恐怖だった。
チビらずに済んだのは普段から自分で創った水をたくさん飲むため膀胱が鍛えられていたからだ。水属性だから我慢できた、水属性じゃなかったら我慢できなかった。
「ああ、いや……ゴメン。そこまで怖がらせるつもりは」
生まれたての粉鹿――ピンチになると粉を吹き出して身を守る草食動物――のように震えるシメリを見て、クユルは距離をとってくれた。
「ただ、その、シメリさんの属性に関して、ちょっとお話がね」
「うん……いいけど……一旦おトイレ行ってきていい?」
「ど、どうぞ……」
こうしてクユルが壁ドン脅迫してまで場を整えた大事なお話タイムは、いたいけな少女の尿意によって一時中断された。
数分後、ほひょぉーと間の抜けた声を漏らしながらハンカチで手をふきふき戻ってくるシメリを迎え、クユルは感心と呆れが混ざった声で言う。
「帰ってくるんだ……トイレを口実にそのまま逃げられるかと思ってた」
「あっ」
その発想はなかった。
「逃げてもよかったの……?」
「僕としては困るけど、まあそうされても仕方ないかと……」
「じゃあ今から逃げるね……?」
「だめです……」
ゆっくり横歩きを始めたシメリの手首をやんわりとクユルが掴む。シメリはまたしても「ふえぇ……」と鳴いたが同じ手は通用しなかった。
「せっかくだから聞いていってくれ。決して悪い話ではないから」
クユルの握力は決して強くはなく、壊れものを扱うように繊細だった。それでいて制服の袖越しにしっかり伝わってくる体温が「離さないぞ」の意思を伝えてくる。シメリは三度目の「ふえぇ」を繰り出した。しかし何も起こらない。
「いいかいシメリさん。きみはさっき、とても危ない発言をしていたんだよ」
心当たりのない指摘にあたふたするシメリへ、クユルが講釈を垂れる。
「夜光禅くんに対し、シメリさんは『負けないよ』と言った。自覚はないだろうけど、あの発言は粉神原理主義を基底として成り立つ貴族社会への挑戦といえる」
「ふんじんげんり……きぞく……ちょうせん……?」
シメリには政治がわからぬ。一年生の教科書に載っているような一般常識ならともかく、社会構造やイデオロギーにまで気が回るはずもなかった。
クユルは庶民にもわかるよう、かいつまんで説明する。
「粉神に愛された『火』の使い手をつかまえて、粉神の忌み嫌う『水』の使い手がタンカを切ったんだ。相手が敬虔なエクスプロディアの信徒だったら、それだけで流血沙汰だよ。
彼はコノカミの生まれだからその辺りのこだわりが薄かっただけ。ライタム人やレフタム人にあんなことを言ったら、確実に顰蹙を買うね」
バクハーツの立つ広大なハーツ平野、そして隣接するライタム爆国やレフタム発国などの周辺諸国は、すべてエクスプロディア大陸というコナンハーゼン最大の陸地に属している。
一方、コノカミ塵國は遠い東の島国。海を越えれば文化や信仰も異なるため、夜光禅の反応が必ずしも社会の総意であるとはいえない(ついでに言えば夜光禅は母国でもわりと非常識な部類に入る)。
「僕の実家には『紫煙のタチノヴォー』なんて異名があってさ。先祖代々『毒煙』の粉塵爆発を受け継いで、その殺傷力から一時は爆爵の地位にまで登り詰めた、剛腕の一族なんだ」
そう誇らしげに嘯く彼の顔は、同時に一抹の寂しさも含んでいた。
「……でも僕だけはどう頑張っても『毒』のちからが目覚めなかった。ただの『煙』しか創れない落ちこぼれだ」
クユルは片手で粉気を練り出し、そのまま同じ手で指パッチンと同時に爆力を放った。
現れた『煙』はもとの粉気とほとんど見分けのつかない、ひたすら白く無害に漂うだけの気体だった。
「ただでさえ毒煙には直接的な破壊力が無いんだ、そこから毒を取ってしまえば……わかるだろ?」
カスだ、とクユルは自嘲する。創ったばかりのささやかな粉塵爆発は、彼自身の手によって吹き払われた。
「ただ、カスみたいに弱いおかげで、矢面に立たされずに済んだ。お兄様たちが強力な粉塵爆発使いと必死で渡り合っているなか、僕だけは安全な部屋にこもっていられる。争いに巻き込まれて焼かれずに済む、とっても素敵なポジションさ」
両腕を広げて肩をすくめてみせた彼の言葉が、どこまで本心なのかシメリには分からない。
「……実のところ、ね。世間は『水』の粉塵爆発をやたら迷惑がるけど、本当は『火』だの『風』だのメジャーどころがヤンチャした結果、弱者が巻き添えで迷惑こうむることのほうが圧倒的に多いんだ」
温和に微笑んでいたクユルの表情に影がさす。
「道を踏み外した、あるいは『正しい道を進もうとした』水属性の粉塵爆発使いが、ことごとく悲惨な結末を迎えるところを僕はこの目で見てきた。
だからさ。よいことも悪いこともせず、食うに困らないだけの最低限の仕事をして、慎ましく大人しく生きるのが、一番幸せだと僕は思うよ」
貴族でありながら挫折も経験したクユルは、コナンハーゼンの華やかなところも醜いところも、自分の知らないところをたくさん見てきたのだろう。彼の理屈はきっと正しい――そうと頭では理解していても、シメリには諦めきれなかった。
最低限を『生きる』だけではない、その先。『楽しく』生きることの幸せを。
「その『最低限』の生活で、スクールライフはエンジョイできる……?」
「それは『最低限』に含まれない。入学できただけ幸せなことさ」
「わたしにも人権が……」
「カスに人権はない。あるとしても建前だけ。そういう世界だ」
「そんなのイヤだよ!」
「落ち着いて。僕に言っても何も変わらない」
「わたしは! 誰に何と言われようと、諦めたりしないもん!!」
「そうか……」
説得が失敗に終わったことを悟ったクユルは、紳士的な微笑みを捨て去り、なにもかも抜け落ちたような顔で
「そうかよ」
と、虚空に向かって吐き捨てた。
「じゃ、勝手にするといい。せめて僕を巻き込まないようにやってくれよ」
それきりクユルは背を向けて、一度もシメリを振り返らず、ぞんざいに扉を開け廊下へ消えていった。
がらんとした教室。風がビュビュンと吹く果てない草原にひとりぼっちにされような心地がしたシメリは
「ふえぇ」
と鳴いてへたり込むのだった。