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8月某日


 東の辺鄙な村から始まり、いったん南下し首都を経由し西へ向かうこの旅も、もう終わる。西側地域で最も栄えている街から少し離れた、閑静な土地に建つ立派な屋敷に到着する。私にとっては唯一の帰る場所、だったがどうなるだろうか。

 表門から入り正面玄関でお出迎えを受ける。客人がスノウ家の御子息だから、使用人の半数近くは出迎えに参加している。圧倒され、途中で降りていつも通り裏玄関から入れば良かったと後悔しても遅かった。

 見慣れた執事長が、馬車の扉を開け歓迎の言葉をかける。公子はそれに慣れたように応えて玄関に進む。私には、帰宅のたびにかけてくれる労いの言葉と微笑みを送ってくれた。いつもだが、今日はいつにも増して直視できなかった。御者でもある従者も表玄関から通されるようなので、それに倣って普段使わない玄関を潜った。

 一足先に屋敷に入った公子と挨拶を交わすこの屋敷の主人(あるじ)の声が玄関ホールに響く。


「お初にお目にかかります。シリウス・カーマイン・ワイクグルス=ベス=シェーダニア。西灰鈴協議会の枢機卿を拝命しております。ブセレンティーにお会いできることを光栄に思います」

「スノウ家のアレクサンドロスだ。こちらこそ、卿に会えて嬉しく思う。急な約束にも関わらず、お招きいただいたことに感謝する」

「あんな熱烈な手紙は久しぶりに見ましたよ。すぐにご案内いたします。……アンリ、おかえり。晩餐の時に話そう」

「勤めを果たして参りました。お待ちしております」


 恐れ多いことに、私にはこの屋敷に私室を与えられている。しかも使用人用の建物ではなく、主人が私生活をする居住部分の中にだ。その部屋までの道のり――ワインレッドの絨毯が引かれた廊下を執事長と歩く。旦那様からの言伝で、風呂にゆっくり入るように、時間になったら呼びに伺うと言われ、扉の前で別れた。

 部屋はモスグリーンの壁紙に白い模様が描かれており、木目の美しい家具で揃えられている。大きい本棚にはあまり本は埋まっておらず、大きい窓を縁取る白い窓枠には草花が彫刻されている。2か月前にここを去る時と変わらず、自分には勿体ないほど綺麗な牢獄である。

 浴槽に湯が張ってあることを確認し、黒で統一された旅装束を緩慢な動きで脱いでいく。肌着も全て取り去ると、病弱そうな白い肌に、大小様々な黒い呪印が現れる。

 いつもより丁寧に身体を洗い、湯船に浸かっても、その呪印は水に溶けることなく白肌に鎮座している。薬草が入れられた湯は、身体の強張りを解き眠気を誘う。浴室にもある大きな曇りガラスの窓から、峰に沈む前の丸い夕陽が覗いていた。



****



 一方、応接室では屋敷の主人が客人に対し静かな怒りを湛えていた。それは2か月ぶりに帰ってきた祓魔師を見とめてからだ。自然に話を返しているが、頭の中はどう問い詰めるかということで占められている。世間話、私の著作物への賞賛、今回の旅の有意義さを語り、そろそろお暇する雰囲気に(問い)を投げてみる。緊張の波紋が広がり、客人の綺麗な顔が強張る。

 アンリと話したか、という問いに肯定の意と共に、非難の言葉が静かに浴びせられる。曰く、発言の一部を許可制にするなど自由の侵害だと。

 問い詰める必要はないと、確信した。やはりスノウ家の人間は、いつの時代も善意と正義感の塊で、その刃であの子を刺したのだ。私の答えを待つ翠緑眼から目を離し、聞かせる訳でもない独り言をゆっくり声に乗せる。



 真綿のような優しさでは、あの子の身体と精神(こころ)を守れない。重い鎖で現世に繋ぎ止めておくだけで、今は十分だった。

 あの子を引き取る前の話だ。

 あの子は罰を受けた後、贖罪という名目で、奴らの吐き溜めにされ、身体()を壊すような祓い方を強要され、壊されていった。

 北の監獄で初めて見た時、あの子はかろうじて死んでいない状態だった。濁り陰った瞳はそれでも美しいと思ったが、あんな美しさはもう見たくなかった。

 だから、何故、またあの昏い瞳の美しさを、私は目の当たりにしたんだ。10年かかって、2か月前は光を宿していたのに、またあの子を壊したのか。

 北の監獄にいたのは半年だ。君たちと一緒にいたのはひと月だ。どちらが獣で悪鬼なんだろうな。



 初めて会った客人に失礼な物言いか、いや独り言を耳にしただけで、この屋敷で不敬罪などと訴えられない。後味の悪い終わりになったが、退室の挨拶をして客人を残した応接室を後にした。客人を見送るまでが礼儀だが、あの目を見る限り挨拶も聞こえていたか怪しい。優秀な使用人に任せて、あの子の待つ食堂に向かおう。

 廊下に出るまで夕焼けの如く燃えていた瞳は、今は憂いを帯び、それと呼応するように夜の闇が近づいていた。



 今、最重要かつ必要なのはアンリとの対話だ。努めて平常に、丁重に、敬愛の念を込めて接しよう。これ以上壊れないように。

 楽な服装に着替え食堂で待っていたアンリに、こちらから挨拶をする。彼は律儀に起立し応える。彼は、私に合わせるために少ない夕食をゆっくり食べる。私はそれに甘んじて、旅から帰ったら必ず聞く他愛のない質問と会話を楽しむ。いつもと違うのは、目の合う回数と、何か言いたげに口籠り、食後に大事な話があると切り出されたことだった。



 晩餐が終わり、そのまま2人でアンリの部屋に向かう。2人きりで話したい時はいつもそうしているからだ。向かい合って話すべきだと思い、2脚の椅子を並べ腰を落ち着かせる。話出すのに時間がかかるかと思ったが、椅子に座った途端、転げ落ちるように床に蹲り懇願してきた。

 一つ、私に対する敬愛を一瞬でも忘れてしまったので、罰が欲しいと。

 一つ、罪人であるにも関わらず、“人”に戻ろうとしたので、感情を捨て去りたいと。

 何故そんなことを望むのかは、過去にも何回かあったので分かりきっている。だから、そう結論に至った経緯を聞いてみる。

 要因は、公子との会話、私が贈った小説。自慢ではないが、私の著作物は教育業界で有名で、その息抜きに小説も書いたりしている。そんな偉大な私の作品を、読むに値しない罪人なのに“人”のような行いをしてしまった。剰え、私の説明が足りなかったことを不満に思い、それは私に対する裏切りだと考えた。だから、罰と、今後問題を起こさないように感情を捨てたい、と話してくれた。

 他人が聞けば、罪を償うにしてもなかったとしても、芸術や学問に触れることは万人共通で当たり前に許される行為だと感じるだろう。ただ、この子は今を生きる理由が贖罪しかないと思っている。それ以外のことに生を費やすなど、あってはならないと考えている。この子にその考えを否定すれば、罪を贖う行為が無意味だと極端に捉えてしまう。

 だから、この子に気づかれないように、祓魔師以外のこと――食事や読書――を少しずつ、彼の生に取り込ませていった。いつか気づかれ、この子に不要なものを拒絶すると言われる覚悟はしていた。それほど細い綱渡りだったのだから。しかし、10年は長かった。 


「アンリ、椅子に座って。目を見て話したい」


 この子は素直だから椅子に座って、顔を上げる。黒髪は旅の影響で傷んでいるけど、手入れすれば綺麗になるだろう。夜空を閉じ込めた瞳は、光の加減、涙によってより碧く輝く。私は正反対の、血色の瞳と王族の証である雪色の髪が嫌いだったが、いつか冬の太陽みたいだと言われて、どれだけ慰められたか。


「アンリ、君が本の感想を話してくれるのを、帰って来る度に楽しみにしてたんだ。そんな些細な、でも大事な楽しみを、私から奪うのは、どう思う」


 まず、感情を捨てることについて説得する。事実、人が完全に感情を捨てるなど、高名な魔法使いでもまだ不可能な技だろう。しかし、私は一度この子の記憶を僅かながら消した――実際は思い出し辛いようにしただけ――ことがあるので、感情を消すことも可能だと思っている。もちろん私にも不可能なことだ。


「私の楽しみが奪われ、意気消沈し執筆作業に支障が出たら、多くのファンが悲しむだろう」


 感情を消すことができないと知れば、私の本を読まないようにするだろう。だが、私からの贈り物を無碍にはできないから、独り苦しみ自分を追い詰める。そんなことにはさせたくない、否、未来を変えろ。


「アンリに訊くよ。意気消沈した私と、悲しみに暮れた大多数のファン。どちらに胸を痛めた」

「……貴方に」

「ありがとう。私も顔の見えないファンレターより、アンリが読んだという事実のほうが大事なんだ。もちろん感想もあると、とても舞い上がってしまう」

「……。……はい」

「アンリ。私のために感情を残してくれないかな。そして、感想を私に届けて。私の楽しみを奪わないで」

「っ、しかしっ、私は」

「アンリ。これは譲らない。お願いだ」

「……、……承知、いたしました。貴方のために。貴方が必要だとおっしゃるのなら、私は、咎人でありながら感想を届けます」


 自分のために生きないで、選択も他人に委ねることが、どんなに不自由か、人々は説くだろう。しかし、自分のために生きることができない者に、他者がどれほどしてやれるだろうか。アンリが生きるためなら、私の人生など安いものだ。特別な人の死など、誰も望まない。

 もう一つ、与える罰だが、話を聞いた時点で決めてある。私の次の言葉を待つ、丸い夜空をしっかり見つめ、判決を下す。



 泣け。

 お前への罰は、泣くことだよ。

 張り裂けるほど胸が痛くて、他人から見れば惨めで、その顔は無様でみっともない。

 心から泣けば、今度こそ刻まれるよ。

 だから、私の目の前で、泣き叫べ。その碧い涙を捧げろ。



 罰にならない。泣くだけだ。

 しかし、感情に従って泣くことのなくなった男にとっては、どうか。とてつもなく苦痛で、困難な罰だろう。

 故に、目の前にいるこの子は困惑している。


「ほら、アンリ。泣いて。罰は変えないよ」


 本当は、頬を優しく撫でて、隙間がなくなるまで抱きしめたい。でも、これは罰だから、手を離さなければならない。気づいてしまう、これが罰ではないと。



****



「ほら、アンリ。泣いて。罰は変えないよ」


 揺らめく炎の瞳が見つめている。罰は、たった今、この場で泣くことだ。しかし、心から泣くなど、どうすればいいのか。感情が昂った結果の1つが涙を流すことなら、感情を動かせば実行できるか。私の感情が働くことなど、現段階で1つしか思い至らない。


「今、この場で、シリウス様の17作目『雪に堕ちた血色』の感想を、話してもよろしいでしょうか」


 一瞬、血色の瞳が見開かれ、首肯する。今までの作品も感想を伝えてきたが、教本であれば興味深かった箇所、小説であれば強く残った情景描写や台詞を報告しただけだった。自分自身が何故そう思ったか、読んでどう考えたかは、胸の内に小さいながらもあったが、言わないでいた。それを口に出せば、泣けるだろうか。



 この歴史小説は、この国に生まれた上流階級の男とその伴侶となる女の一生の話を、男の目線で書かれたものです。自伝でありながら、著者の過去と現在と未来の可能性も語っています。この国の法であり教えでもある「教典」に深い関心を寄せ、民の上に立つ者としての責務に追われていきます。

 血統、家柄主義で選ばれた婚約者との結婚に疑問を持ち、男は旅に出ます。シリウス様が気ままな旅をしたいとおっしゃっていたことを、ここの描写で思い出しました。私は国外に出たことはありませんが、私が踏んだ地をシリウス様に直接見せて差し上げたい、と思いました。

 男は旅の中でたくさんの人、学問、芸術、国の姿に出会い、ある女に恋をします。結婚を誓った男は、その結婚を家に認めさせるために、得られた知識と人脈を使い地位を盤石なものにしていきます。今ですら完璧なシリウス様が、恋をなさって奔走するお姿を想像しましたが、何故か執筆中のお背中が目に浮かびました。

 身分差のあった女を邪魔に思った男の家族は、女を幽閉します。結婚の誓いを取り消すよう迫られた女は拒否し、さらに脅されます。飲まず食わずの日が続き、次第に意識が朦朧としてくる女を、危機一髪のところで男が単身救い出します。ここが一等好きなシーンです。意識の失った女は助け出す男の姿を見ることは叶いませんでしたが、私はシリウス様を見ていました。モノクロの世界で見たあの紅い瞳は、まさに太陽でした。夜明けの、美しい朝陽、私だけのっ。



 言葉が詰まる。まだ全て話し終わってないのに。

 頬に何かが流れる。目も熱い。止まらないこれは、涙か。

 涙は止まらなくてもいい。しかし、言葉は、目の前の太陽に伝えなければ。

 口を開けども、言葉にならない声ばかりが漏れ出る。本格的に泣く前に、一言だけ伝えさせてほしい。


「私だけの、太陽。……、いつも、夜明けと共に起きるのは、貴方に焦がれていたから。っ、でも、世界の太陽は、私の太陽じゃないっ。私は、貴方の側にいたいっ」


 いよいよ視界も霞み、嗚咽が止まらなくなる。今、自分が何を考えているかも分からなくなり、椅子に座っているのか、落ちて蹲っているのかさえ認識できない。記憶の最後は、何かに包まれた感触だけで、プツリと途切れてしまった。

前話で主人公が「あの方」と言っていた人が、ワイクグルス卿ことシリウス様です。

主人公が自分の部屋を「牢獄」と言っていますが、居心地が悪いからではなく、罪人が過ごす部屋=牢獄と考えているからです。

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