2
一日の始まりは、夜明けと共に。意識が覚醒し、身体の所々に違和感を覚える。
口内を噛んでしまったのか鉄の味がする。動かそうとした首に鈍痛が走り、両手の爪には乾いた血がこびり付いている。夜着は汗で重くなり、身体は寝起きにしても冷え過ぎている。気怠い身体に鞭打ち、壁に掛かった鏡の元へ足を向ける。鏡に映った細首に赤い手形と引っ掻き傷を認め、悪夢を見たんだなと他人事のように結論づける。息はしづらいが、自意識がない状態で首を絞めて、よく生きていたものだなと小さい腕力に感心した。
人が起き出す前に風呂場を拝借しようと、いくらか動くようになった身体を部屋の外に出す。
早風呂のお陰か、夜が明けたと言っても日中が長い季節で夜中の時分だったからか、誰にも会わずに部屋に戻ってきた。身体に気を遣いながら、いつもより入念にストレッチする。日課である教典の音読をする。それでも朝食の時間にはならず、もう6回も最終ページまで辿り着いた、この国の歴史小説を読み進める。
7回目のクライマックスを越えた所で、ノック音が部屋に響く。危うくどんな行動をすべきか忘れたが、相手を待たせないためにドアへ近づきながら短い返事をする。間髪入れずに、アレクサンドロスだとドアの向こうから言われる。相手の勢いに乗せられるように、しかし静かに扉を開けて挨拶をする。
「おはようございます。お一人のようですが、如何なさいましたか」
「貴方と話をしたくて。……お茶がなくなるまで、部屋に邪魔してもいいか」
「公子からのお誘いを断るはずがございません。どうぞ、お入りください」
お盆を持った公子が通れるように、扉を大きく開け放ち招き入れる。渡されたマグカップには、公子の柔らかい髪と同じ色のミルクティーが入っている。私はベッドの縁に、公子が椅子に座ったことを確認し、程よく冷めた液体に口を付ける。ミルクの優しさと少量の砂糖の甘さに、苦手意識を感じ、でも顔に出さず喉に通す。
「……味はどうだろうか」
「優しい味ですね。また飲みたくなります」
「本当か。私の好きな味が口に合って良かった」
お互い少量ずつを口に含みながら、いっときの沈黙を守る。そして、本題に近づいていく。
「昨日は見なかった痣と傷が首にあるが、祓った呪いの影響なのか」
「これは、私の夢見が悪かった結果ですので、ご心配するようなことはありません」
「……そうか。あとで軟膏を贈ろう。それくらいの心配はいいだろう」
「ご配慮、痛み入ります」
「……昨日のことだが、貴方はいつも、あのように祓っているのか」
「ええ、あの方法で毎回。昨日のように大きいものは、久しぶりでしたので、時間がかかりましたが」
「……祓魔師は道具――依代を使って呪いを祓うと聞いたが、貴方は自分の身体を依代としているのだろうか」
「申し訳ありません。その質問には公子が満足できる回答をすることができません。もし、祓魔師のレポートに必要ならば、西灰鈴協議会に、回答の許可を要請してください」
「っ、それは、話せることを制限するとは、発言の自由に抵触するのではないか」
「……。……公子は、私が罪人であることを、お忘れではないですか。西灰鈴協議会が、罪人の言動に制限を設けることで、罪人を生かし、仕事も与えてくれるのです。先程の質問に無許可で回答した場合、私の身体は爆ぜ、最悪、公子に怪我を負わせてしまいます」
「……しかし、アンリは刑期を終えている。そのような服役中に課す拘束は、外されるべきではないか。貴方は、国民と同じ自由を得る権利がある」
「公子、罪を犯した者は、魂が浄化されるまで、咎人なのです。私は望みませんが、私に自由を与えたい、と考えるならば、私に課された拘束を解くよう、管理者に嘆願すれば、公子のお気持ちも晴れるでしょう」
「分かった。……話は以上だ。長々とすまなかったな」
「いいえ。私も貴族の子息に対する言葉ではありませんでした。冷静ではなかったことに、重ねて陳謝を申し上げます」
「ああ、謝辞を受け取る」
突然の訪問から幾分か経たずに昼食の時間となり、一人食堂に向かう。まだ人数が集まっていなかったが、ポトフだけを受け取り適当に端の席に着く。修道院での食事は、全員が集まり一斉に食べ始めるものなので、冷めるのも厭わず無言で待つ。
公子も従者を伴って食堂に入ってきたところで目が合い、逸らされる。一食分を受け取った後、私の隣に座り、食後打ち合わせをする、と視線を合わせる前に呟く。返事をしようとしたところで、食前の挨拶が始まり、そのまま冷めたポトフを平らげた。
昼餐が終わった食堂をそのまま貸してもらい、打ち合わせとやらを3人で行う。昨日書いた報告書と今後の行程表の確認だけで、最初に聞いた行程通りに明日ここを発つらしい。御者は1人しかいないので、野宿か街に一泊しながら首都に向かい、その途中で公子の目的を果たす。長期滞在する村や街で住民と各施設の視察、祓魔師の仕事をこなすのだが、私の出番はあと3回だけらしい。辻馬車に運賃を取られないだけ、今までとさほど変わりない移動計画だ。
確認作業が終われば、午後はやることがなく時間が有り余っている。一人旅ならば街で消耗品を買い足すのだが、今はその必要がないしここを離れられない。あの歴史小説の8周目を読み進めようかと考えていたところで、伺うような声が耳に届く。
「アンリ、部屋にあった歴史小説について、聞いてもいいか」
公子との会話も、独りの読書も、午後の時間を使うのに変わりないので、その質問に応じる。
「はい、構いませんが」
「あれはどこで手に入れたんだ。あの作品は発行部数が50と少なく、しかも著者は知り合いにしか渡さなかったのだ。私も前作を読んでから、あらゆるツテを使って、ようやく手に入れ、この視察が始まる前に読み終わったところだ。で、スノウ家の私ですら入手困難だった書物をどうやって手に入れた」
「……あの小説、そんな希少な物だったんですか。……著者が、私の直属の上司で、仕事の合間に読むように渡されました。……他の人に配ればいいのに、よく分からない人だな」
いつもより早口で説明する公子に気圧されるように答え、独り言も呟いてしまった。そんな無礼も気にならないのか、どんどん距離を詰めてくる。
「なんと、あの著者が上司なのか。どんな方なんだ。部数が少ないにも関わらず渡すほどなのだ、仲がいいのではないか。最新作について何か言っていたか。あ、一番好きな作品はなんだ」
「えっと、優しい方です。その、仲がいいと言うよりは、あの方が過干渉なんだと思います。たしか、ほぼ自伝小説なので、あまり広めたくないと言っていました。……2作目の『教典の読み方と時代の変化』に一番興味が湧きました」
「……すまない。興奮しすぎた。答えてくれてありがとう」
「いえ、お礼を言われるほどではありません」
「しかし自伝であっても、崇高な考えが書かれていて教科書にも使えると思ったぞ。『教典の読み方と時代の変化』は歴史の授業で使ったな。授業では一部しか取り扱わなかったが、全て読んでとても勉強になった。……私は『碧に濡れて』が今までの作風と違った恋愛小説で、斬新で一番のお気に入りだ」
「ぜひご本人に感想をお伝えください。……、……その恋愛小説は、自棄酒を飲んで一晩で書き上げ、その勢いで大量発行を注文し、大衆まで広がった作品ですね。黒歴史の第9作と呼んでいました」
「待て、そんな制作秘話があったのか。あれは、かつての著者の片想いを元に綴った、と聞いたが。……やっぱり仲がいいのではないか。そんな裏話をするほどなんだから」
「……話しすぎました。世間に流れていない話は内密にお願いいたします」
「分かった。内緒な。馬車で移動中の時など、もっと感想を聞かせてくれ」
「承知いたしました。」
最終的に、大人1人分離れて座っていたはずなのに、互いの手が触れてしまうほどに近づいていた。これでも距離を空けようと長椅子の端まで自分を追い詰めていたのだが、公子は上機嫌な笑顔を見せ、部屋に帰っていった。
私も部屋に戻り、改めて件の歴史小説『雪に堕ちた血色』の表紙を眺める。決して粗雑に扱った訳ではないが、屋外でも読んでいたため所々汚れてしまっている。先程の会話を思い出し、己よりも所有するのに相応しい人が幾万といるのに、と虚しさが募った。
夜明けに呼ばれるように目を覚まし、昨日よりマシになった首の痛みに呻きながら身を起こす。首に負担のかからない運動をして、誰もいない風呂場を借りる。教典をいつもの倍の量を音読し、邪念を消そうとする。
それでも出発の時間には余裕があるので、いつもの癖で書籍に手を伸ばすが、何故か読みたいと思わないことに困惑した。
何故。
昨日の出来事がそんなに衝撃だったか。あの方がこれを手渡す時、その希少性を言わなかったから。
今までも、これも、自分が貴重な物を持つに値しない人間だと、今更気づいた。傲慢な己に、怖気付いた。“人”に真似た、感想を抱く、など“人”になりたがっているようじゃないか。咎人は罪を背負った者として、罰を身体に、脳に、精神に刻んで、命尽きるまで贖い、“人”に戻らないと誓ったじゃないか。
否、あの方は、私が読むために渡したのだ。読めと言った、読むことを求めた、命令した。しかし、感情が、本に対する感想を抱き“人”に近づく。今後、受け取ることを拒否すれば解決する。いや、命令の無視はあり得ない。
“人”に戻らないために、感情を捨て去ればいいのだ。では、感情を捨て去ることを許可していただこう。思考力さえ残れば罪人として生きることができる。
敬愛を忘れたものは人に在らず。
一度でも、あの方に対する敬愛を忘れた。あの小説の説明1つ足りなかっただけで、不満に思った、あの方の行動を疑った。それはもう、あの方に対する裏切りではないか。
同じ過ちはしないと誓ったのは、上辺だけの宣誓だったのか。ああ、どのような罰が下るのだろう。それが痛くて、惨めで、無様で、今度こそ刻まれるものであればいいのに。
それからの旅路は、感情を殺すことに努め、公子ともなるべく私的な会話をしないように心掛けた。独りになると、どうしても思考がまとまらず、それを逃避するために夢の世界に逃げた。何回か隣で寝ていた公子から、呻き声と嗚咽が聞こえたと心配されたので、気付かれないように布を噛んで寝るようになった。
呪いを祓う仕事は、初めの村のものほど大きいことはなく、難なく終わらせた。一人旅より長く感じたひと月の同行任務も終わりが見えてきた。
最終目的地である首都で別れると思っていたが、一緒にあの方の屋敷まで送ってくれると言う。いつの間にか約束を取り付けたのか、私の管理者と直接会うためらしい。思ったが吉日、が座右の銘なのかと思うほど行動が早いお方だ。
主人公は一度眠ると、他人が起こそうとしても朝まで目を覚まさない体質です。その中で夢を見ますが、夢の記憶が全くない状態で覚醒するため、寝ている間の自身の奇行は悪夢のせいだとしています。人を襲う可能性もゼロではないので、一人で寝たいと申し出ましたが、押しの強い公子が隣で寝ることもしばしばありました。