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シェダーヌ教 教典『寒空の道』 第4章 第2節「敬愛を失うこと勿れ」より抜粋
人は、結婚し子を産み、我々の文化と神の教えを伝えることを最大の義務とする。良質な教育には良好な家庭環境が必須であり、愛のある親子関係を必要とする。子孫を愛しむことも、他者に恋することも、師を仰ぐことも、友と切磋琢磨することも、人を「敬愛」しされることで初めて成り立つ。故に、敬愛を失うこと勿れ。敬愛を持たぬものは人に在らず。
「敬愛を失うこと勿れ。敬愛を持たぬものは人に在らず。」
これは贖罪だ。あの日、尊く慈悲深き存在から罰は下された。だが、その罪は赦されない。赦されてはいけないと知っているが、それでも欲深い私に贖罪の機会を、私の存在意義を与えてくれたことに、神に、感謝を忘れない日々を誓おう。
さあ、また素晴らしい一日が始まる。
一日の始まりは、夜明けと共に。起床し軽く運動した後に身を清める。朝日を浴びながら教典を毎日1~3節ずつ音読することも忘れない。生きていることに、否、罪深き存在にも関わらず生かされていることに、感謝しながら食事を摂る。宿屋であれば階下の酒場の楽しそうな雰囲気に、野営であれば夜の森の声に、一日の終わりを感じながら瞳を閉じる。眼球が瞼に覆われると夢の上映が始まる。幸か不幸か、目覚めると感想を抱くことなく上映が終わったことを知る。そして、虚な硝子玉は夢より眩しい朝日を目にする。
7月某日
宿屋の窓に縁取られた、どんよりとした曇り空の中に浮かぶ白い滲みを見つける。白いそれは灰色のキャンバスに滲み広がるように大きくなりながら、しかし輪郭をはっきりさせながら、こちらに近づいてくる。ようやく見慣れたものになった塊――白い隼を、窓を開けて迎え入れる。教会の伝書鳥が運んだ小さな紙には、私の仕事――贖罪の機会が記されている。
次の仕事場所として指定された村は、現在滞在している街から比較的近いため、まだ午前中の今から出発すれば明日の夕刻には着くだろう。早速、荷物の少ない部屋を片付け始め、ものの30分で宿屋を後にした。
この国のどこでも見られるような殺風景な荒地と曇り空に感慨深くなるはずもなく、村への道のりは何事もなく順調だった。いつも通り仕事の手続きのために、小さな村であっても必ず建てられている教会に向かう。常であれば、身分証を確認されたらすぐに現場への出向を急かされるのだが、今回は対応が違った。
上の指示に従って人を待て、と。
なんでもこの件は、派遣されるもう1人と対応に当たってほしい、と各地の教会を取りまとめる中央協議会から指示があったそうだ。残念ながら所属の違う私には意図が分からないと、この教会の司祭に聞いてみたところ、仔細は伝えられていないが神学校の生徒が来ると言う。
神学校の卒業研究に数週間、教会に従事するというものがある。しかし未来の司教や司祭になる者が、低俗だと言われる私の仕事――祓魔師を卒業研究の題材にするとは考えにくい。陰気だ野蛮だなどと嫌われているが、それを生業と認められている高名な一族も存在する。それなのに罪人である私を付けるなど、ますます理解ができない。
指示の伝達にミスがあったのでは、と考えたあたりで周囲が騒がしくなった。教会の入り口付近を見やると、こんな田舎ではお目にかかれないような立派な一頭立ての馬車が停まっている。遠目にも見える馬車に描かれた模様は、中央協議会。つまり私の待ち人か。出迎えるのが礼儀だと、修道士に混じって馬車の前に並ぶ。
馬車の扉が御者によって開かれる。
中から現れたのは、天使と見紛うほど綺麗な学生だった。馬車から降りるだけの動作で目を奪われる――つまり上流階級の所作を完全に物にしていることが分かる。そして、その瞳を見ただけで、我々は頭を垂れることしかできなかった。神や天使だったら慟哭していただろうが、それは“人”であり、赤い夕焼けにも負けず輝く翠緑眼が示すのはこの国の王族に並ぶ地位を持つスノウ家ということだった。
嘘を映さないような潔癖さと青年期の危うさを孕んだ翠緑眼が、司祭たちを見回し、飴細工のような髪が冷たい風に揺れる。形の良い薄い唇が玲瓏たる音で言葉を紡ぐ。曰く、レンチュマインタリン神学校から来た者で、数日間世話になると。そして幾分か柔らかくなった声音で、皆も寒いだろうから中に入ろう、と促し我々は教会に隣接された修道院に戻っていった。既に日は暮れ、夜の寒さが足元から這い上がってきていた。
予想した事態よりもかなり大事だったことが訪問者2人から説明された。スノウ家としての国内視察と神学校の卒業研究を兼ねて、私にはひと月間の同行が決定されていた。
スノウ家とはこの国――シェーダニア法国の“聖剣”を受け継ぐ一族だ。剣の扱いや護身術に自信があれば、大人数の護衛を望まないと推測できる。その結果が、護衛や御者も兼ねているあの者だろう。そして私の役割は、2人に対して襲撃もできないひ弱な瘦せ男、脅迫も何も権力のない民、肉壁となり命を落としたとしても犠牲者ですらない罪人、上の命令に逆らわない飼犬、とこんな感じか。
まさか上流階級の学生が祓魔師に興味を持つとは、変わり者か真面目人か、いや両方だろう。書面に記された名前はアレクサンドロス・ブセレンティー・スノウ=ディア=シェーダニアとなっているが、本人からはアレックスと呼んでくれと頼まれた。しかし愛称など呼ぶわけにもいけないので、頑なに「公子」で通した。名は他人から呼ばれるためにあるのだと、不満そうにしていたが、そばに控えている従者に視線だけで殺されそうなので勘弁してほしいものだ。あと好奇心旺盛なのか、矢鱈と私について質問してくる。
「貴方の名を教えてくれないか。資料には西灰鈴協議会に所属する祓魔師としか書かれてなくてな」
「……、……アンリ、が名です。家名はありません」
名乗ることに躊躇したわけではない。仕事は常に単独で行うので、自己紹介などしない。私の名を呼んでくださるのは1人しかいないので、その方の唇の動きと耳に届く音を思い出していたのだ。
「アンリ。では、これからひと月の間よろしく頼む」
この方は真面目だ。だから、私の名を呼ぶ2人目になるだろう。それは、幸か不幸か、快か不快か、私に影響を及ぼすのか、現時点では見当もつかなかった。
一夜明けた。宿屋がない村に赴いた時は野宿していたので、修道院で寝泊まりするのに罪悪感しか湧かなかった。ただでさえ子供たちへの教育費、建物の維持管理費もかかるのに、炊き出しも定期的にしているのだ。食い扶持も寝床も3人分増えたら、正直迷惑だと思う。
問題はもう1つある。教会の負担に比べれば些細なことだが、永遠に話が平行線なので埒があかない。私の食事事情に公子が指摘するのだ。食べ盛りの男子学生、ましてや健康な成人男性と比べても、私の食事量は決して多くなく、寧ろ少ない。寝起きの体になどもってのほか、一食にスープか果物があれば事足りる身体だ。それは体質なので、とやかく言われても仕方がない。だから、部屋にまで訪ねて来て、朝食にと差し出されたそのパンを受け取ることはできない。過去に健康体を目指して量を増やしてみたが、ほとんどの場合戻してしまった。それを公子に話さないとして、体質以外を理由にどう断ればいい。従者は公子の施しを受けられないのか、と私を射殺さんばかりに睨む。公子は善意からの心配を私に向ける。
「朝食を食べていないだろう。だから受け取ってくれ」
それができれば断りなど入れず、公子からの施しを貰っているだろう。ここで受け取った後、修道士たちに返したと知れば、ますます心配しパンを持ってくるかもしれない。
「朝食は手持ちの物で済ませましたので、そちらはどうぞ村の子供たちに渡してください」
だから、私は浅はかな理由をでっち上げ拒絶するしかないのだ。
今朝の一件があっても、私の仕事には関係ないので予定通り2人を連れ立って現場に向かう。祓魔師とは呪いを祓う専門職のことで、優秀な司祭などであれば呪いを祓えるし浄化もできるため、いなくても困らない。それでもこの職業があるのは、単に命を落とすリスクが高いからだ。この世界で普及してる魔法に代わり、この国では呪術や占術が一般国民に広まっている。呪い殺すなんて大それたことより、雨乞いや運上げ、行事の吉日を見ることに多く使われる。それでも運を下げようとする輩はいるし、雨乞いに失敗して村への呪いに転じることもある。呪いに使われた媒介が捨てられる、恐れられ放置せざるを得ないほど危険な場合に祓魔師が派遣されるのだ。
今回はこの村の若者の1人が“恋のキューピット”に失敗してしまったらしい。恋愛成就のまじないで、若い頃は誰しも試したことのある呪術だ。そもそも片想いだった場合、恋愛成就の見込みはないと無慈悲に失敗して終わる、占いのようなものでもある。この程度の呪いで祓魔師が派遣されるとは、危険な媒介を使用したか想いが強すぎたのか。
そんなことを考えながら、村の外れにある立派な大木に到着する。この現場で呪いの元を探す前に、公子に1つ提案したところ見事に真面目さを披露されてしまった。
「やはり、呪いを祓う時だけ、席を外して頂けないでしょうか」
「それでは見学の意味がないではないか。心配しなくとも祓う方法は他言しないと約束する」
「いえ、そうではなく。私の祓い方は気分のいい物ではないので、ご覧にならないほうが良いかと」
「気分の良し悪しで視察などできないよ。それだけが理由なら、全ての行程を見学させてもらう」
「……承知いたしました。予定通り、私から10歩以上離れてご覧ください」
祓魔師の祓う方法は個人や家ごとに編み出された物で、暗黙のルールの中、もし見たとしても知り得たとしても他言無用となっている。私の場合それ以前の問題として、祓う光景を他人に見せられるものではないということだ。新人の頃、同伴してくれた先輩に見せた時、祓魔師としてベテランのその人でさえ丸一日、飲食物が喉を通らなかったのだ。優しいその先輩は、動揺を隠しきれなかったことを謝っていたが、祓魔師を辞めろとは言わなかった。
大人8人くらいが腕を広げないと囲めないほど太く巨大な木の近く、妙に形のいい石に置かれた呪いの元を見つけた。丁寧に束ねられた瑞々しい長髪は違和感を覚えさせ、禍々しい呪いを放っていた。これほどの禍々しさで呪詛返ししか影響がないとは、単純な呪いではなさそうだ。
「それでは呪いを祓いますので、呪いを受けぬよう自衛をお願いします」
「待て。仕事に口出すのは野暮なことだが、呪いを見てから祓い方を考えるのではないのか」
確かに他の同業者は、呪術の失敗の原因を見つけてから、それに合ったアプローチで呪いを祓う。しかし、私にはそんな細かな芸当はできない。
「私の場合、祓い清めるというよりは、消す、に近い行為ですので、方法を1つしか持ち得ていないのです。なので、危険度を確認したら、すぐに祓います」
「……分かった。口出しして悪かった」
「いえ、私のものは異端ですので、正しい反応だと思います。では、始めます」
祓魔師は呪いの根源の前に無防備に跪く。まるで目の前にいる愛らしい猫を撫でるような気軽さで、それに触れる。
見学者の2人は驚いただろう。自分たちには自衛をお願いしたのに、祓魔師である彼自身は何の対策もせずに近づくのだから。
そして、次に続く彼の行動を、目に焼き付けるのか、目を逸らすのか。結果、2対の瞳はこれからの光景に釘付けとなってしまった。
彼が触れた途端、呪いの髪は瘴気を纏った黒蛇になり大人2人分の背丈ほどに大きく変化する。その大きさが、まじないをかけた青年の想いの強さを示す。体の輪郭すらあやふやな“呪い”の頭部らしきものに視線を合わせ、祓魔師は囁く。
「いただきます」
頭部の反対側に手を添え、かさついた唇に隠された健康そうな白い歯を見せる。
尾らしきものの先端を口腔に閉じ込め、喰む。
いったん口を離し、閉じ込めたものを、呑む。
血で濡れることもなかった綺麗な歯をまた見せ、尾の続きを咥え、喰み、呑む。
人の脚ほどの太さの“呪い”の胴体は、口腔に全て収まるはずもなく、進みは遅い。
“呪い”の黒蛇はのたうち回ることなく、寧ろ酔い痴れているように彼に絡みつく。
時々、口内に入れた量が多かったのか、苦しげでくぐもった声が聴こえるが、それさえも艶かしい。
喉を進むものの圧迫感に、生理的な涙が滲み、雫が溢れる。
人が生きるために必要な食事は少量で十分だと言い張るのに、それを大きく上回る質量を口腔から体内に送る。その行為を幾度も繰り返していくうちに、頭部だけになる。
「いいゆめを」
視線を合わせ、最期に甘く囁く。
とっておきを喰べるが如く、先ほどよりも時間をかけて、全てを呑み込む。
呪いは、消えた。
「私は、敬愛を忘れない」
自分に言い聞かせるように呟く。
周囲に呪いの残穢が残ってないことを確認し、観覧者2人に終わったことを報告する。返答がなかったので、もう一度声をかける。
「……っ、えっ、あぁ。その、ご苦労だった。身体に不調はないのか」
「ご心配には及びません。……先に戻っておりますので、失礼いたします」
「……あぁ、昼までには教会に戻るようにする」
会話の間、祓魔師が向けていた視線が、公子の翠緑眼と交じることはなかった。
彼ひとりだけ、ここに来た時と変わらぬ歩調で帰路についた。それを見送る2人の頭の中は分かるような気もするが、仕事を終えた者は考えないことにした。
教会もとい修道院に1人で戻った祓魔師は、修道士たちに何事かと問い詰められたが、なんてことのないように依頼の完了と昼には戻るという旨だけ伝え、充てがわれた部屋に引っ込んだ。そのまま休むでもなく、報告書を書き上げる。現場の状況と、まじないをかけた呪術者とその対象となった被術者の記憶を忘れないうちにまとめる。ペンを走らせる横顔は、2人の若者の悲しい思い出に表情筋が動くことなく平坦で、頬に残った涙の跡はすっかり乾いていた。
まじないの失敗の要因は、あの髪の持ち主――被術者の死亡。1人遠出していた際の落馬事故による即死で、走馬灯の中は青年との思い出に埋め尽くされていた。死に際の怨念が影響力が強いように、まだ効力の残っていたまじないの力を増幅させた。しかし死をもって呪いへと転じ、失敗の代償――呪詛返しが呪術者である青年を襲う。あれほど禍々しい呪いであったにも関わらず、呪術者を死に至らしめることがなかったのは、青年と死者の世界で会うことを拒んだせいか。呪術者も呪術者だ。被術者の許可を得た媒介――今回は髪――を使った呪術など弱いわけがない。これほどの覚悟と互いの強い想いを持っていたとしても、まじないに縋らなければならないほど望みのない、認められない恋だったのか。
祓魔師を辞める理由の多くは、精神異常を患うことだ。呪いを祓う際、稀に強い想いを感じたりや記憶を見たりするのだが、他人の感情ほど相容れぬものはない。初めはマーブルのように分かれていた自身と他者も、徐々に境界がなくなり色が混ざる。その受け入れが積み重なれば生活に支障をきたし、他人からは人が変わったと胡乱げな目を向けられる。辞めない者は、感受性が低いのか、他者に冷淡なのか、はたまた自身に鈍感なのか。
私はその後部屋から出ることはなく、誰か訪ねてくることもなく1日を終えようとしていた。呪いを呑み込んだ日は、なんだか腹の中に残っている気がして水しか飲まないようにしている。丁寧な文字を心がけて書いた報告書も、蝋燭を出す前に完成した。あとやることと言えば出立日時の調整だけなのだが、それは明日のほうがいいだろう。
蝋燭を燃やしてまで教典を開かなくとも中身は暗記しているし、これと言った趣味を持ち合わせていないので、早めに床につくしかない。教会の静かな雰囲気を、いつもなら1人であっても微かな音に囲まれながら眠りにつくのだな、と動物の気配を感じ取ることができないことを、残念に思いながら視界を闇に覆う。
この物語の舞台であるシェーダニア法国は、シェダーヌ教を国教と定めている宗教国家です。この世界の主要12国を治めるそれぞれの王族の中で、最も尊い存在がシェーダニア法国の王族だと考えている宗教、という本文中には記載されていない設定があります。
主人公のように教会以外でも教典を毎日音読しているのは厳格なほうです。