彼女さんがお迎えに来たみたいだね
幼馴染は架空の生物
ピピピッ、ピピピッ
自室に響く電子音。そのうるさい音色が、僕を眠りの底から引っ張りあげようとする。
「ぅんん」
しかし、僕はそれに必死に抗う。まだ眠い。起きたくない。お願いだ、もう五分だけ寝かせてくれ。
そんな僕の願いなど目覚まし時計に通じるわけもなく、変わらずうるさい音を響かせる。その音から逃れようと掛け布団を頭まで被るけれど、まるで電子音は掛け布団を貫通してくるかのように変わらず脳内に響いて聞こえていた。
「ええい、うるさい」
耐え切れなくなった僕は勢い良く体を起こし、隣の台に置かれた目覚まし時計の頭を一度引っ叩いた。時計は音を立てて倒れ、部屋はそれまでが嘘だったかのようにしんと静まり返る。
我が自室に、平穏が取り戻されたのだ。
見れば、時間はまだ六時を回ったところ。カーテン越しに微かな光が漏れているのが見えた。もう日が出ているが、いろいろ準備し始めるにはまだ余裕がある。あと少しだけ眠ろう。
一転安らかな心持ちになった僕は、再びベッドに横になり、掛け布団の下に埋もれる。
明け方の、まどろみの中にいる感覚。この時間が一番好きかもしれない。そんな人の幸せな一時を邪魔する目覚まし時計は、何たる不届き者か。というか、そもそも目覚ましなんてセットしたっけ?
まあ、そんなことはどうでもいいか。今はただ、この安らかな一時を楽しもうじゃないか。
そして、再び暗く深い眠りにつきかけたときだった。
「おっはよぉ~!」
「ごはぁ!?」
急にドアが音を立てて開かれたかと思うと、大声と共に激しい衝撃が全身を襲った。腹の上に重いものが圧し掛かっている。一体僕の身に何が起こったのか。目を白黒させながら首をもたげれば、仰向けになった僕の上に、妹の悠月が馬乗りになっていた。
目が合うなり、ゆずはにかっと笑った。
「おはよっ、お兄!」
「お、おはよう……じゃない!」
あぁ、なんて最悪な目覚めだ! まさか妹に物理的に叩き起こされるとは! 折角の僕の幸せタイムが台無しだ!
「くっ、重い! さっさと退け!」
右手をしっしっと振ると、ゆずは頬を膨らませながら渋々僕の上から退いた。圧し掛かっていた重みから解放され、僕はふぅっと深呼吸をする。
そんな僕に、ゆずは不機嫌そうな空気を隠しもせずに、
「もぉ、酷いなぁお兄は。折角かわいい妹が起こしてあげたってのに」
などと言ってきた。
何が折角だ。余計なお世話とはまさにこのこと。頼んでもいないのに毎日起こしに来やがって。
妹をきつく睨んでやる。
「何が『起こしてあげた』だ。危うく、起きるどころか永眠するところだったぞ。お前の体重のせいでな」
「なッ!? ゆずはそんな重くないし! 平均ちょい下だし!」
「平均体重なんか知るか! ちょっとはこっちの身にもなってみろ! 毎朝毎朝乱暴してきやがって!」
「乱暴じゃないもん! そうしないとお兄起きないじゃん! さっきだって、目覚ましが鳴ってたのに止めて二度寝しちゃったし」
「目覚まし? まさかこれをセットしたのはお前か! 余計なことしやがって!」
と、こんな具合に朝っぱらから妹と口喧嘩。これは最早うちの恒例だった。毎朝妹のゆずに乱暴に叩き起こされ、一階にまで響く声での言い合いが始まる。そんなことがあるもんだから、僕の頭から眠気はさっぱり消えてしまう。
別に兄妹仲が悪いわけじゃない。むしろ良好だと僕は思っている。だからこそ、毎朝ゆずは僕を起こしに来るし、僕も大人しくゆずに起こされるのだ。
「もう、お兄ったら。ぐだぐだ言ってないで早く着替えて。ご飯の用意だってもう出来てるんだから」
やがて、言い合いはもうお終いというかのように、ゆずは声のトーンを落ち着かせる。それを合図に、僕も大きく息をついて気持ちを落ち着かせる。
「はぁ、了解りょうかい。すぐに行くから」
「うん、分かった」
そう言って頷いたゆずは、しかし僕の前に仁王立ちになったままその場を動こうとしない。どうしたのかとゆずの顔を見上げれば、ゆずもまた僕の顔を見下ろしていた。
「……どした? 出てってくれないと着替えられないんだけど」
そう進言すると、ゆずは堂々と憚ることなくこう言った。
「大丈夫、ゆずたち兄妹だもん。妹に着替えを見られたって何も問題ないでしょ? それに、目を放したら、またお兄寝ちゃうかもしれないから」
そんなわけがないだろう! さっさと出て行け! と、喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。ゆずは僕の妹だが、力関係ではゆずの方が遥かに上。ここで選択を間違えれば、さっきと同じく無慈悲な暴力が繰り出されることだろう。勿論、僕に反撃は許されない。
それに、確かに僕たちは兄妹だ。妹に着替えを見られようが何を見られようが、何も問題はない。まあ、もし立場が逆だったら大問題間違いなしだが。
ということで、僕は腹を括ることにした。
「はあ、分かったよ」
僕はベッドの縁から腰を上げ、畳んで置いてある着替え一式を掴む。さて着替えようかと寝巻きを脱ごうと手を掛けた時、背後から強い視線を感じた。振り向けば、ゆずが僕をガン見していた。
なんだろう、この新感覚な羞恥心は。どうにもこうにもむず痒い感じがする。
「なあ妹よ。えと、その、なんだ……少し恥ずかしいから、できるだけこっちは見るなよ?」
と言ってみると、ゆずは、
「ふふ、お兄、女の子みたいなこと言うんだね」
とからかうようなにやけ顔を僕に向けた。この時の恥ずかしさたるや、空気に溶けてなくなってしまいたいと思ったほどだった。
この日ゆずから受けた辱めを、僕は一生忘れないだろう。
着替えを済ませ、ゆずに続いて渋々一階へと降りる。すると、トーストとベーコンの焼けた芳ばしい匂いが漂ってきた。居間のドアを開けば、カウンター後ろの台所にいた父さんが顔を上げた。
「お父さん、お兄起こしてきたよ」
「あぁ、悠月、ありがとう」
父さんにそう報告すると、ゆずは居間のソファに横になり、テレビのニュースを眺め始めた。どうやらゆずは既に朝食を済ませているようだ。
僕はあくびをかみ殺しつつ、隣のダイニングルームへと歩いていく。その途中、台所にいる父さんとすれ違う。
「おはよう、父さん……」
「おはよう、朝陽」
何気ない日常の挨拶を交わす。すると、僕の様子を見た父さんがくすくすと笑い出した。どうしたのかと振り返れば、父さんは縁の太い眼鏡を押し上げる。
「今日の悠月の目覚ましは一際強烈だったようだね」
その言葉に、僕は大きくため息をついた。
強烈なんてもんじゃない。勝手に目覚ましを仕掛けられ、腹にどぎつい一撃を食らわされ、果ては目の前で生着替えをさせられた。昔は枕元で優しく声を掛けてくれる程度だったのに、いつの間にかあいつの目覚ましはエスカレートし、今ではこの有様だ。この調子なら、半年後くらいに死人が出るんじゃないか? 勿論、死ぬのは僕だが。
ただ、確かに言えることは一つ。僕は少し前まで痛んでいた腹をさする。
「間違いなく、これまでで一番強烈だったよ」
「はは、そうかそうか」
僕の身の深刻さに対して、父さんは変わらずに笑っていた。くぅ、他人事だと思って。
「はぁ、ゆずのやつ、いくら止めろって言っても聞きやしない。父さんからも言ってよ。このままじゃ、僕の命がいくらあっても足りなくなる」
と、言ってはみるものの、父さんの軽い態度は相変わらず。手に持ったフライ返しで皿にベーコンエッグを取り分けながら、
「まあ、そう言うな。悠月がお前に対してちょっと荒っぽいのは、愛情の現われさ。考えてもみな。悠月がお前を起こしに来ない日は無かっただろう? 愛情でもないと、毎日は続かないものさ」
などと適当な言葉を並べる。愛情の現われ? いやいや、ストレス発散の間違いだろう。
まあでも、起こしてもらっていること自体は感謝している。もしもゆずがいなかったら、僕は遅刻の常習犯になること間違いなしだから。
「だからあまり、悠月を悪く思わないでやってくれ」
最後に、父さんはそう締めくくる。居間にいるゆずには聞こえない声で。父さんのその言葉に、僕はなんだか決まりが悪いような思いがした。別に悪く言うつもりは無かったんだけどな。
食卓の椅子につき、ゆずに聞こえないように声を落とす。
「別に、ゆずのことはそんな風には思ってないよ。なんだかんだ言って、一人の妹だから」
すると、父さんがいつもの調子で笑った。
「ははは、そうかそうか。それなら良かった」
そして父さんは台所からこちらへ身を翻すと、両手に皿を乗せて僕の前まで運んできてくれた。
「朝ごはんができたぞ。そら、たんと食べな」
「ありがとう、父さん。いただきます」
父さんの言葉に続き、僕は両手を合わせた。
朝食を済ませた僕は、広いソファのゆずの隣に腰掛け、ゆったりとくつろいでいた。テレビでは丁度芸能ニュースを放送していて、僕はそれを何となく眺めていた。
「この女優さん、若いのに最近よく見るね」
「ん~、そうかもなぁ」
などと他愛無い会話を流しつつ、テレビ画面の右上に表示された時刻を見ると、もうすぐ七時半といった頃合だった。そろそろあいつが来る時間だ。
のっそりと重い腰を上げ、僕は自室へ荷物を取りに向かう。二階から帰ってくれば、ゆずは「もうそんな時間かぁ」とため息を漏らしていた。
「学校行く前に、お母さんに『いってきます』しなきゃダメだよ?」
「はいはい、分かってますよ~」
釘を刺してくる妹の言葉を適当に受け流しながら、僕はリビングの隣の和室へ。奥の壁沿いには小さな仏壇と、その前には一枚の写真立て。そこに入っているのは、母さんの写真だ。
僕は母さんの前に正座し、目を閉じてそっと手を合わせる。
「母さん、いってきます」
小さく呟く。再び目を開けば、母さんはにっこりと笑っていた。その表情を見る度、ゆずの笑顔は母さん譲りなんだなと思う。
よし、行くか。僕は立ち上がり、玄関へ向かう。そのとき、丁度呼び鈴が鳴った。タイミングぴったしだ。
「彼女さんがお迎えに来たみたいだね」
などと、ゆずがにやにやしながら茶化してきた。僕は眉をひそめ、ゆずを睨む。
「そんなんじゃねぇよ。全く、毎日毎日適当言いやがって……」
ゆずのおふざけにも困ったものだ。その適当で人をからかう所は治すべきなんじゃないだろうか。
「ゆずも、そろそろと準備して学校行けよ。んじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃ~い」
「行ってらっしゃい」
ゆずと父さんの言葉に送り出され、僕は玄関の扉と押し開く。その瞬間、眩しい日の光が僕の目を刺した。
ぐっと目を細め、しかしすぐにその明るさには慣れた。そして前へ視線を向ければ、いつものようにそいつは僕のことを待っていてくれた。
「おっは~、あさひ!」
そこには、胸の前で小さく手を振る詩織の姿があった。朝の日の光に負けず劣らずの眩しい笑顔を向ける彼女に、僕も思わず顔がほころんだ。
***
「ん~っ! 昨日に続いて今日も晴れ! 天気が良いと気持ちがいいね!」
「確かに。梅雨なんかなくなって、こんな日がずっと続いたらいいのにな」
詩織と歩く、朝の住宅街。近くの林からは小鳥のさえずりが、遠くからは車の走る音が聞こえてくる。
空を見上げれば、青く澄んだ空にまばらに漂う白い雲。注ぐ日の光は暖かく、緩い風がそよいでいる。昨日と同様、気持ちのいい日になりそうだ。
僕と詩織は毎日のように一緒に登校する。昔からそうだった。僕たちは幼稚園の頃からの幼馴染だから。家が結構近くなので小学校の頃も同じ通学団で一緒に登校していたし、高校生になった今でも詩織は僕を迎えに来てくれて、こうして一緒に登校している。
全く、ありがたい話だ。こうして詩織が毎朝迎えに来てくれるからこそ、ゆずも僕を乱暴にでも起こしてくる。僕が遅刻魔にならずに済んでいるのは二人のお陰なのだ。
「そいえばさ」
ふと、詩織が僕を振り向いた。
「ん?」
「最近学校早く帰ってるみたいだけど、どうしたの? お家のお手伝い?」
「あぁ……」
そう言えば、まだ詩織にはまだ話していなかった。海辺の広場で、怪我をして動けないでいた小犬のことを。傷のせいでエサを自力で取れず、さらに小型犬だから同じ野良犬たちにどんな扱いを受けるか分からない。それが心配になり、放課後になると友達との交流もほどほどに学校を後にし、毎日広場へと向かっていた。
それを、詩織は家の手伝いが忙しいと思ったのだろう。僕の家は小物を中心とした雑貨屋を営んでいる。そして、僕もたまに小物作りを手伝うこともあるから。
「いや、別に家の手伝いとかじゃないよ。南西の海沿いにちょっとした広場があるだろ?」
詩織は空を見上げて少し唸る。
「南西の? あぁ、うん、あるね。小さくて何にもないけど」
「実はそこに、怪我をした野良犬がいるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、詩織の視線がこちらへ向いた。明らかに興味を持っている。
「野良犬、しかも怪我してるんだ。可哀そうに」
「あぁ、でも安心してくれ。もう怪我は治ってるから。でも、それまでは動くこともできなくて、自分でエサも取れない状態だったんだ。だから放課後はその子の世話を見てたんだよ」
詩織は安心した表情で、小さく笑った。
「そうだったんだ。ふふ、怪我をした犬を助けたんだね。もしかしたら、鶴の恩返しみたいにいつかその子が恩を返しに来るかもよ」
「それはどうかな。でも、結構人懐っこい子らしくてさ、世話をした数日で随分懐かれちゃったよ。怪我が治ったのに、まだあの広場に住み着いてるみたいなんだ」
「そんなに懐くんなら、いっそのこと飼っちゃえば?」
「はは、出来ればそうしたいんだけど……」
詩織の提案に少し言い淀むと、詩織は思い出したように顔をはっと上げた。
「あっ、そうか。あさひのお父さん、犬アレルギーだもんね。昔、ゆずちゃんが子犬を拾ってきて大惨事になったんだっけ」
「あはは、知ってたか」
昔、一度ゆずが子犬を拾ってきたことがあったが、その日の父さんはもう大変だった。涙も鼻水も止まらず、父さんは一日中ハンカチとティッシュを手放せなかった。そんな状態だったから勿論店は開けられず、ゆずは相当しょげていた。それでも父さんは優しいから犬を戻して来なさいとは言わなかったけれど、かといってずっと子犬を家に置いておくわけにもいかず、結局ゆずの友達の家に引き取られることになった。
そんな過去があるから、僕の家であの子は飼えないのだ。まあ元から野良だし、一匹でも生きていける。それに、会いたくなったらいつでも会える気がするから。
「ねぇねぇあさひ、今日その子見に行ってもいい?」
これは想定済みの言葉だった。何を隠そう、詩織もゆずと同様、無類の犬好きなのである。
顔のにやにやが隠せないでいる詩織に、僕は満面の笑みを以って答える。
「勿論。詩織も一緒なら、きっと子犬も喜んでくれる」
「やったぁ! ありがと、あさひ!」
「お、おいこら! くっつくな!」
喜びの声を上げるなり、詩織は僕の腕にしがみ付いてくる。詩織の顔を押し返して何とか引き剥がすも、詩織は変わらずにこにこしていた。その表情を見ていると、不思議と心がほっとする。そこにあるのは、いつもと変わらない日常だったから。
白峰彩葉。僕の日常を壊そうとした彼女は、今ここにはいない。この時、僕は確かに彼女の存在の一切を思い出すことはなかった。
そうこうしている内に、気付けば学園の白い校舎が見えてくる。ほんの二十分ほどの短い通学路だ。
校門を一度くぐれば、桜の並木に挟まれた一本の長い道と、そこをまばらに歩く生徒達。木々の合間から漏れる朝の光が時折目に眩しい。僕は目をしばたかせながら、彼らに続き昇降口へと向かう。
靴から上履きへ履き替え、校舎の中へと足を踏み入れる。すると、聞こえてくるのは他クラスの人たちの喧騒。男子たちの太い笑い声と、女子たちのきゃぴきゃぴした声が入り混じって聞こえてくる。みんな朝から元気だなと感心しつつ、僕もなんだか気分が高まるようだった。
僕らは校内の喧騒を掻き分けて進み、やがて自分の教室へ辿り着いた。僕のクラスも既に多くが登校しているようで、教室内から元気な声が漏れていた。
少し重めの引き戸を滑らせ、僕らは教室へ入る。すると、真っ先に目が合ったのは堂島隆志だった。何をどうしても、ヤツのデカい図体には集団の中でも一際目を引かれてしまう。
「おぉ、朝陽、おはよう!」
自分の席に荷物を下ろして一息つく僕の元に、隆志は元気に手を挙げながらやってきた。僕も手を挙げて応える。ふと見れば、詩織は早速友達のほうへと駆け寄っていった。
僕の目の前に来た堂島は、その熊のような手で僕の肩を叩いてきた。そのあまりの衝撃に、一瞬危うくこけそうになる。
「いてっ! 急に何すんだよ」
「おうおう、親友。朝から見せ付けてくれるじゃねぇか。彼女さんと仲良く登校だなんてよ」
あぁ、またこれか。
堂島はどうも、何かにつけて僕と詩織の関係をイジるのが好きなようだ。実際にはただの幼馴染だし、堂島もそれは分かっているはず。それなのに、コイツは毎度同じネタを振ってくるのだ。売れない一発屋だってもっとネタのレパートリーはあるだろう。
僕は大袈裟にため息をつき、堂島を見上げる。
「はぁ。そのネタ一体何回目だと思ってる? もういい加減飽きたよ」
「うぅん、そうか。でもな、お前と柳瀬のセットを見るとついつい言いたくなっちゃうんだよな。あっはっは」
「なんだそりゃ。新手の発作か」
笑う堂島を見て、こいつは変わらないなぁと、僕も心の中でくすりと笑った。




