あんたには感謝してるの
犬はどこだ
夏の日の夕暮れ、蒸し暑い潮風が汗の滲んだ首筋を掠めていく。気持ち悪い感触。今すぐ家に帰って扇風機に当たりたいけど、それは出来ない。
暑さに息が切れそうになるのを落ち着けて、しかと前を見据える。この暑さの中でも相変わらず涼しそうな顔をする女が立っている。白峰彩葉だ。
「それで? こんな所に呼び出してどうしたの? 何か用かしら、悠月ちゃん?」
「ぐむむ……」
いつ見てもムカつく顔と態度。わたしの身長が低いからっていつもそう見下してくるんだから。あぁ、一度でいいからあの顔を引っ叩いてやりたい。けど、我慢、我慢。今日はこいつをボコボコにするために呼び出したんじゃないんだから。
「もしかして、またお茶のお誘いかしら? にしては、随分遅い時間だけど」
白峰はふと顔を背けると、西日に目を細めている。
勿論だけど、お茶のお誘いなんてことはない。
「違うに決まってるでしょ。今日は、あんたに話があるの」
白峰は再び視線をこちらへ戻す。少しだけ真剣になった眼差し。細波の音を遠くに聞く中、彼女は静かに先を促す。
「話って」
「……こんなこと、ほんとは言いたくないけど」
一呼吸。そして、白峰の顔を真っ直ぐに見据える。
「あんたには感謝してるの」
すると、それまで浮かべていたすまし顔は一変、ぱっと目を開いて驚いた顔を見せた。
「もしかして、前にお茶したときに奢ったこと? それなら気にしなくていいのに」
「ち、違うよ」
本当は分かってるくせに。いつだってそう。わたしも、詩織ちゃんも、お兄も、何を隠してもこいつはいとも容易く見透かしてしまう。
でも、これはちゃんと言葉で伝えなきゃだめなんだ。
「お兄ちゃんの、魔法のこと」
「……魔法?」
「うん、取り戻してくれて、感謝してる」
あいつの顔を見て話すのが恥ずかしくて俯いてしまう。そのまま呟くように続ける。
「わたし、お兄ちゃんの魔法が大好きだった。小さい頃、あんまり友達もいなくて、いつもお兄ちゃんが遊び相手になってくれた。いろんな魔法を見せてくれて、その全てが眩しくて……魔法がほとんど使えないわたしにとって、お兄ちゃんの魔法は宝物だった。だから、宝物を取り戻してくれたあんたには感謝してる」
ちらりと白峰の様子を窺うと、困惑したように眉尻を下げて微笑んでいる。
「意外ね。てっきり悠月ちゃんからは嫌われてるものだと思ってた」
「き、キライだよ!」
気付けば口が勝手に言い放っていた。ええい、このまま勢いに任せて全部言ってしまえ。
「勘違いしないで。感謝はしても、それはお兄ちゃんの魔法を取り戻してくれたことに対してだけ。あんたのことは変わらず嫌いなの。急にお兄ちゃんに近づいて変なことしてばっかり。あんたがどう思ってるか知らないけど、お兄ちゃんには詩織ちゃんっていう相手がもういるの。ずっと昔から。二人の間にあんたが入る隙間なんてない。だから、もう二人の邪魔しないで」
言い切ったわたしは、暑さのせいか激しく息をつく。
二人の間を潮風が抜けていく。白峰の茜に染まる長い髪が靡いている。けれど、白峰の表情は微動だにしない。わたしに向ける目に色は無く、ただただじっとこちらを見つめるだけ。
やがて、潮風が止むと同時に白峰は口を開く。
「それは、あなたの決めることじゃない」
「……」
予想はできていたけれど、面と向かって言われると返す言葉が見つからない。これは、単なるわたしの我がままでしかないのだから。
やっぱりわたしも、こいつの前では無力すぎる。
「話はそれだけ? なら、わたしは帰らせてもらうわよ」
「あっ」
身を翻すと、白峰は歩き去っていく。遠ざかるスニーカーの足音だけが、小さく小さく、耳の奥でこだまする。
わたしは何をしているんだろう。何を目の敵にしているのだろう。あいつが決して悪いやつじゃないって分かってるはずなのに。
日は水平線へ沈み、鮮やかだった空も単調な黒へ染まっていく。夜が近い。
「うぅ……」
ぶるぶると身震いをする。
少し体を冷やしたみたい。潮風に当たりすぎたかな。わたしも家に帰ろう。
自分の体を抱きながら、そっと足を踏み出した。
***
***
八月も気づけば半ば過ぎ。長い長いと思っていた夏休みも、残されたのは指折り数える毎日だ。あんなことがあった、こんなことがあったと思い出を振り返りつつ、今日も変わらずリビングでぐったり。エネルギッシュに駆け回る思い出の中の自分とはまるで対極だ。
ちらりと見れば、ゆずも変わらず扇風機の前を陣取っている。こんな暑い中、よくエアコンなしで乗り切ったものだ。地獄のような日々だったがそれもあと数日。時代遅れの我が家にもエアコンが導入される手筈となっているのだ。
あと少しの辛抱だ。そう自分とゆずに言い聞かせ、うだるような暑さの中、扇風機に当たれない僕は自分で風を起こして涼んでいる。
「お兄さ」
扇風機の風に揺れる声。ゆずがこっちをちらりとも見ずに声を掛けてくる。
そんなゆずの後ろ姿を一瞥し、再び天井を仰ぐ。
「……なんだ?」
「最近、よく白峰と出かけるね」
その言葉に、思わずため息をつく。
またその話か。ゆずはどうも白峰さんと馬が合わないらしい。だから、彼女と僕が一緒にいるのをよく思わないんだろう。
「お泊りの旅行に行って、それからお昼を一緒に食べることが多くなって。昨日なんて、隣町のデパートまで行ってたんでしょ?」
「あ、あぁ。でも、それくらい友達なら普通じゃないか? ゆずだって、友達と遊びに行くことが多いじゃないか」
「お兄の場合は別だよ。だって、一緒にいるのが白峰だよ? ストーカーなんだよ?」
まだその話を引っ張るのか。
ゆずの心配は嬉しいけど、流石に白峰さんがかわいそうに思えてくる。
「ゆず、そう心配するな。白峰さんはいい人だって、ほんとは分かってるだろ?」
きっとこいつは素直になれないだけだ。兄である僕としては、二人は是非とも仲良くしてほしい。
しかしそれには、まだ時間がかかりそうだ。
足に力を入れ、ソファから重い体を引き起こす。そろそろ家を出る時間だ。
「じゃあ、僕は学校に行くから。お前も、部活に遅れないようにしろよ」
「はぁい」
気のないながらも返事が返ってくる。こういう素直な反応を白峰さん相手にも出来たらいいのに。まあ、それは難しいだろうな。
それにしても、僕が最近白峰さんと行動を共にすることが多いことを、ゆずはやっぱり勘違いしているらしい。まさか、僕と彼女がそんな関係になるはずがないのに。
じゃあ、白峰さんと何をしているのか。それは簡単だ。いつもの、白峰さんの我がままと気まぐれに付き合わされているだけだ。
***
『学園祭でマジックショーをしましょう!』
数日前のこと、いつものように僕と詩織が集まる中で、白峰さんは高らかにそう提案してきた。彼女の言うマジックショーとは、決して手品の類のものではないことは明白。彼女が言っているのは、魔法を使ったイリュージョンを披露しようというのだ。
もし、ほんの少し前の僕がこの提案を聞いたら、間違いなく首を横に振るだろう。けれど、今の僕は不覚にも面白そうだと思ってしまった。白峰さんと行った海への小旅行の感覚が蘇ってくるようだった。
『どうかな?』
手を後ろで組み返答を待つ彼女。僕は気付けば微笑みかけていた。
『いいね、面白そうだ』
『ほんと!?』
飛び跳ねそうな勢いで声を上げる。そして、そのまま彼女の視線は隣の詩織へ。
『柳瀬さんは、どう思う? 協力してくれる?』
『ふふ、いいよ。あさひがやるんなら、あたしも協力してあげる』
詩織は意外にもあっさり答えた。あまり乗り気でないように言ってはいるが、顔は笑っている。その笑顔を見て、僕もなんだか胸の内がほっこりするようだった。
『じゃあ決まりね! わたしたち魔法屋は、学園祭にてマジックショーを開演します!』
今度は確かな宣言だった。白峰さんの意気込む姿に、僕も自然と気分が高まる。
が、ちょっとここで疑問が湧いた。
『ちょっと待ってくれ。マジックショーをするっていうのは、ステージでやるってことか?』
僕らの学園祭では、教室ごとの出し物の他、体育館のステージで有志を募ったパフォーマンスが披露される。そこで僕らもショーを開くのかと思ったのだが。
『そんなそんな、体育館じゃ狭すぎるわよ』
どうやら違うようだ。じゃあどこでやるのか。そんなのは決まっているだろう。
その言葉に全てを察し、僕は思わず頭を抱えそうになった。
『マジックショーはもちろんグラウンドでやるわ。いわゆる、ゲリラライブならぬ、ゲリラマジックショーね』
『えぇ~!?』
ため息をつく傍らで、詩織の声だけが響いていた。
***
マジックショーを開くとなれば、これまでのような単純に魔法を披露するのでは不十分だ。しっかり段取りを決め、台本を作り、そして練習が必要だ。その中で一番時間が掛かるのは、やはり台本作りだろうか。
『物語をショーの中に織り込もうよ』
単純に魔法を披露するだけならそこいらの手品となんら変わらない。もっと面白く、みんなの気を惹くものは何かと考えた結果、白峰さんはそう提案した。
『物語? ストーリー仕立てってこと?』
『そう。例えば、よくありがちだけど、悪い魔法使いが現れて、学園を乗っ取ろうとするの。慌てて逃げ惑う先生や生徒。平和な学園祭は一気にパニック状態に。そこに正義の魔法使いが現れて、悪い魔法使いを退治するの』
確かにありがちだが、案外テンプレートなほうが大衆には受け易いだろう。まあこの場合、悪い魔法使い役は僕に決定だろうけど。
そうしてストーリーの案を出しつつ台本を書く傍らで、魔法の練習も欠かさない。絵本やメディアで描かれるステレオタイプな魔法使いは箒で空を飛び、魔法の杖を振って数々の奇跡を起こすのだとか。
奇跡を起こすのはまあいいとして、問題は空を飛ぶことだ。かつて存在した魔法使いたちは立派に空を飛ぶことができたそうだが、魔法の素質が落ちた現代人たる僕らにとってそれは簡単なことではない。魔法はただでさえ体力の消耗が激しいのに、あまつさえ空を飛ぼうというのだから無理も無いことだ。厳しい練習の末、ようやく僕らは地面から足を浮かせられるようになったが、それは練習を始めてから実に十日目のことだった。
白峰さんの思いつき故に時間がない。僕らは毎日集まっては、日が暮れるまで練習に励んだ。魔法を使えない詩織も、詩織なりに力を尽くしてくれた。息が絶え絶えになる僕らにジュースを買ってきてくれたり、ショーの演出について意見をくれたり。夏の暑さもあって酷く疲れる日々だったが、それでも楽しかったことは確かだった。曖昧な、形を持たないショーの原案が次第に固まっていくのが、誰かと同じ目標に向かって努力することが、そして何より、自分の魔法の腕が上がっていくことがたまらなく楽しかった。昔の、お母さんの背中を追いかけていた頃の気持ちが蘇ってきたようだった。
そうして順調に準備が進む中、しかし心配事も一つ。白峰さんの体調の件だ。
『けほっ、こほっ』
度々咳き込んでは苦しそうに俯く。その度に駆け寄って声を掛ければ『大丈夫』の一点張り。思えば夏休み前に一度体調を崩してからずっとこの調子だった。魔法は体力を激しく消耗する。あまり無理をしないほうがいい。そう語りかけるも、少し声の調子を上げて彼女は笑う。
『わたしが言いだしっぺなんだもん。わたしだけ休んでいられないよ。大丈夫。学園祭も、もうすぐだから』
気付けば既に八月の暮れ。夏休みの残り日数を数えるのに片手でゆうに事足りる。学園祭の準備を進める学生たちの間でも、最近は浮かれた雰囲気が漂うのを感じる。みんな、学園祭を楽しみにしているんだ。
『桐江君、最高の学園祭にしようね』
そんなに優しい笑みで言われれば、彼女を止めることは出来ない。僕に出来ることといえば、息を切らす彼女の後姿をただ見守ることだけだった。
『心配しないで。絶対に成功するから。きっと、一生の思い出になる』
僕の心の住み着く不安も、彼女のその言葉を聞けば不思議と消え失せた。白峰さんがそう言うなら大丈夫だと思えた。これまで、白峰さんの言葉に嘘はなかったから。
だから、僕は僕のすべきことだけを考えよう。
『わたしのことは心配しないで。それより桐江君、アレ、お願いね?』
僕にはもう一つ任された仕事があった。これを初めに頼まれたときは、なんて時代錯誤なことかと思ったが、ショーの中ではこれもまた面白いかと思えた。
毎日の練習の後、家に帰った僕は作業場へ直行する。家が雑貨店でよかった。家の作業場には道具が所狭しとぶら下がっているから。
***
「……出来た!」
作業場にて一人で声を上げる。夜、家の中は静寂で満ちている。それすら心配することなく、出来上がったそれを持ち上げて明かりに照らしてみせる。我ながらいい出来だ。お父さん譲りの器用さに感謝。
ふぅ、と息をつき、ふと机に視線を戻せば、目に入るのは置時計。カチッ、カチッと秒針が鳴る。時刻は十時過ぎ。その下の日付は三十一日を示している。
夏休みが終わる。長いようで短い、短いようで長い夏休みが。
明日からは、また日常に戻るんだ。
犬は野生に還りました




