こっちへ手を伸ばして
ストーカーの町
夏も深まる七月の中旬。良く晴れた空には太陽が我が物顔で居座り、そこかしこに植わっている街路樹からはセミたちの声がうるさく響く。
元から夏は好きじゃない。だって、こんなに蒸し暑い日々、まるで地獄じゃないか。遥か昔に魔女狩りというものが流行ったらしいが、僕は火あぶりの刑だけは勘弁願いたいね。
そんな軽口を思いつくくらいにはまだ余裕が残っているんだろう。まあ、それもすぐに尽き果てることになるだろうが。何故なら、今僕の目の前にはこの太陽よりも熱い視線を向け、セミたちより元気な声を上げる子供たちが集まっているのだから。
「頑張ってね、桐江君」
「あさひ、ファイト!」
白峰さんと詩織が激励の言葉を送ってくれるが、それで力が出るほど僕の体は単純じゃない。程ほどに疲れた腕を広げ、目の前のちびっ子諸君に声を張り上げる。
「さあさあ皆さんお立会い! タネもシカケもないマジックショーだよ! 最後まで楽しんでいってね!」
***
「あぁ、しんどい」
ベンチの上で息をつきながら、ミネラルウォーターのペットボトルをあおる。あぁ、一芝居打った後の水が体に染み渡る。こんな暑い中なのだから尚更だ。
やがて空になったそれを脇に置き、背もたれに体重を預けて空を見上げる。目を細めるその先で、憎々しい太陽が僕を笑っているようだった。
こんなにしんどい思いをして頑張っているというのに、お前は更に熱を浴びせるのか。この悪魔、鬼め。
恨み言を浮かべて、虚しくなってため息をつく。すると、頬に温い風がそよいだ。首を捻れば、詩織が団扇で僕を扇いでくれていた。
「お疲れさま~、さっきのも中々だったよ」
「そっか、そりゃよかった」
「あさひの手品の腕もメキメキ上がってきたね」
「はは……」
全く有り難くない話だ。
僕だってこうなりたかったわけじゃない。ただ、そうならざるを得なかったんだ。
初めはほんの三人だった。その小学生たちは白峰さんの魔法をせがみ、僕が魔法の代わりに芸を披露して嬉しそうに戯れるだけ。そんなのは可愛いものだった。それがどうだ。昨日は三人だったのが今日は四人、次の週は六人と増えてゆき、いつの間にやら二十人に到達する勢いだ。
『タダでマジックショーが見られるんだって』
噂とは恐ろしいもので、ネタに困った僕が試しに見せた手品が思いのほか受けたらしく、今ではそれ目的で遊びにくる子供も多い。そうなると、もう生半可な腕では通用しなくなってくる。だってそうだろう? 僕がみんなの注意を惹きつけないと、いつ白峰さんが僕の目を盗んで魔法を使うか分からないのだから。そうならないために手品を練習し、すると今度は子供が喜んで更に友達を呼んでくる。すると手品を披露する回数も増え、僕はこうしてくたくたになるというわけだ。
全く、有り難いんだか迷惑なんだか。
広場のほうへ目を向ける。さっきまで歓声に満ちていたのに、今ではわりと静か。僕の体調のため、一回ショーを見たら速やかに帰るか友達と遊びに行くようにと約束してあるのだ。
今は、隅で白峰さんが数人の子供に絵本の読み聞かせをしている声が微かに聞こえるだけ。どうやら絵本の内容はステレオタイプな魔女のお話らしい。魔法を使っているわけじゃないなら咎める必要もないだろう。子供たちも話に食い入るように夢中なことだし。
さて、子供たちも散ったことだし、僕は少しの間暇を頂くことにしよう。今日は日曜日。折角の週末なのだから、自分の日頃の疲れも癒さなければ。
「んじゃ、僕は一旦家に帰るよ。昼も近くなってきたことだし」
よろりとベンチから腰を上げる。一瞬目が眩んだが、それはすぐに治った。一度深呼吸する僕の隣で詩織は座ったまま。
「あたしは白峰さんのが終わるのを待つよ。あさひは疲れてるでしょ? 先に帰ってて。白峰さんにはあたしから言っとくから」
そうか。それは有り難い。
「んじゃ、後は頼むよ。また午後に」
「はぁい」
背中を向けたまま手を振り、僕は公園の出口へ向かう。一歩一歩の足取りが重い。陽炎が足首に絡み付いているようだ。普段あまり運動をしない習慣が祟ったのだろう。これを機に運動不足も解消したほうがいいのかもしれない。
そんなことを思いつつ、ふと足を止めた。目の前に一人の女の子が立っていた。背丈は僕の胸元くらい。肩まで伸びる髪を後ろで一つに纏めている。目鼻立ちのはっきりとした、中学生くらいの子だった。
もしや、僕の手品か白峰さんの魔法でも見に来たのだろうか。それにしては、中学生というのは初めてだが。
疲れた身体であれこれ思案する僕を、その子はじっと見上げている。どうやら、僕らに用があるのは間違いないようだった。
「えと、君、どうしたのかな? もしかして、君も手品を見に来たのかい?」
中腰になってそう聞けば、少女はふるふると首を振った。後ろのポニーテールがふさふさと揺れる。
少女は視線を僕に戻す。その瞳は、どこか怯えているようだった。
「あの、お兄さんたちが『魔法屋』ですか?」
魔法屋。最近ではめっきり聞かなくなった、なんとも懐かしい呼び名だ。今では手品のお兄さんだとかピエロだとか呼ばれている僕は、女の子の言葉に少し面食らってしまった。
「あ、あぁ、そうだよ。まあ、『魔法』は使えないけどね」
なんて少しおどけてみせるが、女の子には興味がないようだった。少し顔を伏せて、女の子は続ける。
「い、妹から聞いたんです。『魔法屋』っていう、何でも悩みを解決してくれる人たちがいるって。妹も、以前失くしたペンダントを見つけてもらったって言ってました」
あぁ、ということは、あの時の子のお姉さんか。
ほんの数週間前の出来事なのに、やけに遠い記憶に感じる。少し色褪せた思い出を脳裏に浮かべながら、少女へ訊ねる。
「それで、僕たちを訪れたってことは、何か悩みか困っていることがあるんだね。聞かせてくれるかな」
正直、この時の僕はラッキーだと思っていた。今の白峰さんは子供たちに読み聞かせをしている。彼女の邪魔が入る前に目の前の依頼を片付けられる、と。けれど、話を聞いてみれば、とても僕一人だけで処理できるものではなかった。
少女は懇願するように、涙を溜めた瞳でこう訴えてきた。
「お願いします、助けてください! ストーカーに付きまとわれてるんです!」
***
学校の部活帰り。夏とはいえ日も大分落ち、夕日の明るさではあまり遠くを見通せない。そんな時、少女は背後に視線を感じるのだそうだ。人をはっきり見たわけではないが、誰かに見られているという感覚が確かにあるのだという。その根拠として、部活がなく早めに帰るときには、いつもの視線を感じないそうだ。
親に相談しても学校の規定で送迎は不可能で特にしてやれることもなく、警察に相談しても、相手をはっきり見たわけでもない以上動けないと言われ、終いには気のせいだと言われる始末。けれど、確かに誰かに付きまとわれていると思うと、朝学校に行く足が竦む。そんな状態が一月近く続いているそうだ。
少女、みかちゃんの話を要約すればこんなかんじ。みかちゃんは詩織にやさしく抱かれながら体を震えさせていた。
この子の話を、一体どれ程の人が信じるだろう。姿の見えないストーカー、それをどれ程の人が被害妄想だと笑うだろう。少なくとも警察は信じなかった。いや、信じても動けないのは確かなのだから、彼らを責めることはできない。
しかし、白峰さんは違った。
「なるほど、確かにこれは危険ね」
一通り話を聞いた後の彼女の言葉は、確信に満ちていた。その言葉に、みかちゃんは初めて頬を緩ませた。
「信じてくれるんですか……?」
「当たり前じゃない。わたしはね、人が嘘を言ってるかどうかが分かるの」
その言葉も、白峰さんが言えば信憑性は増す。人の無意識から記憶をサルベージできるほどの魔法の才能を持っているのなら、人の嘘なら簡単に聞き分けられそうだ。
それにしても、またストーカーか。思えば僕も、白峰さんからストーキングされてたし、聞けば最近ゆずと詩織が白峰さんを一日中付け回していたそうじゃないか。こいつらといい謎の男といい、この街はどうなってしまったんだ。ストーカー多すぎだろう。因みに、僕にそんな趣味はない。
とはいえ、この件は笑い事では済まなさそうだ。それは彼女の様子を見れば分かる。この一ヶ月間、どれほど孤独で恐ろしい思いをしてきたか想像は難くない。そこまでするなんて、最早犯罪だ。
「安心して、ストーカーは必ずわたしたちが捕まえてあげるから」
みかちゃんの肩に手を置いて白峰さんは声を掛ける。僕も後に続く。
「あぁ、僕らに任せてくれ。後は何も心配いらないよ」
「みなさん……」
彼女は詩織の腕の中で静かに涙を流していた。
さて、任せてくれ、とは言ったものの、具体的にどうしようか。この件は風船や探し物の件に比べて単純じゃない。相手は人間なのだから。その場の機転ですべて解決できるわけではないだろう。
ともなれば、初めにやることは一つか。
「さあ、皆、作戦会議を開くわよ」
僕の考えを代弁するかのごとく、白峰さんがそう宣言した。
***
翌日の放課後、大体七時過ぎだろうか。暗がり始めた空をカラスが飛んでいる。あれもきっと帰り道なのだろう。
一方の僕は、ある小さな公園のベンチに座っていた。首を右へ回せば、見えるのはとある中学校の校門。昨日相談に来た少女の通う中学だ。
ぐるりと周囲を注意深く見回す。不審な人影は見えない。手元のスマホの画面を立ち上げ、白峰さんと詩織にメッセージを送る。『現在異常なし』と。
昨日の会議で立てた作戦の内容は単純明快。わざとみかちゃんをストーキングさせ、まんまと釣られた男を待ち伏せてとっ捕まえるというもの。ストーカーは必ず部活後の下校時に現れる。こうして校門前で待っていれば、ストーカーのほうから姿を現すはずだ。
役割分担はこうなっている。僕がメインとなる校門の見張り。詩織が裏の校門の見張り。白峰さんは校門から少し離れた所に待機している。みかちゃんが部活を終えて校門から出たところからが本番だ。白峰さんは彼女と合流し、一緒に下校。そうすることで、みかちゃんの不安を和らげると共にストーカーからの接触を避けられる。そして、僕と詩織は二人の後をつけるストーカーの捜索。ヤツが現れればみかちゃんが気付くはずなので、白峰さんからメッセージを受け取り、犯人の居場所を炙り出してとっ捕まえるのだ。
結構雑な作戦だが、大丈夫だろうか。何せ、相手がどんな人間か分からないのだから。いや、マイナスに考えるのはよそう。きっとうまくいくさ。なに、相手は猛獣ではない、所詮はただの人間だ。それに、味方には気の強い女子二人がいるし、捕縛用のロープとかいろんなグッズを携帯してる。何なら僕の出番なんて無いんじゃないだろうか。
そんな楽観的に構えている内に時間が来たようだ。見張っていた校門からみかちゃんが現れたのだ。校門前で彼女は友達と別れ、一人になる。白峰さんからメッセージが届いた。『作戦開始』と。
あくまで僕らの存在を勘付かれないために、僕と詩織はわざと白峰さんたちの後を追わず、わき道を歩く。不用意に近寄らず、かつ遠くも無い。連絡が入ればすぐに犯人の捕獲に向かえるように。
「大丈夫かな……」
合流した詩織が不安げに言葉を零す。詩織にしてはいつになく弱気だ。
「何とかなるさ。何たって、白峰さんがついてるんだから」
そう発言してから、はっと口を噤んだ。その物言いでは、まるで僕が彼女の魔法をあてにしているみたいじゃないか。僕は彼女に魔法を使わせないと誓ったはずではないのか。
自分の胸に問いかける。虫の知らせだろうか、かつての決意が風に揺らぐ。滅多に見ない詩織の弱気な姿を見て感化されたか。
いや、気をしっかり持て。相手は一人、対してこちらは三人。どうあがいてもこちらの勝ちだ。
気持ちを新たに深く呼吸をすると、手に持ったスマホが震えた。白峰さんからのメッセージが届いたのだ。
『ストーカーの視線を感じた。すぐにこっちに向かって』
僕と詩織は顔を見合わせ、頷く。
夕暮れの時間帯は暗くなるのが早い。つい先ほどまで橙がかっていた空も、気付けば深い紺が差している。あまり遠くを見通せない中、彼女らのもとへ向かいつつメッセージを送る。
『男の居場所は?』
『わたしたちの斜め後ろ。三本目の電柱の陰よ』
その言葉に従い、わき道から回り込む。閑散とした住宅街。明かりの灯っていない家々の間に、白峰さんの言った通り一つの人影が見えた。影はじっと動かない。こちらに背を向け、電柱の陰から顔を覗かせている。
息を飲み、僕が先頭に立って男に近づく。
「あ、あのぉ」
「はぅッ!?」
声を掛けると、男はビクッと跳ねてこちらを振り向いた。
年齢は二十代くらいだろうか。普通体型で身長は僕とあまり変わらない。短髪で眼鏡を掛けており、少し出た腹が特徴的だった。
「失礼ですが、あなた、ここで何をなさってるんですか?」
流石に赤の他人を突然拘束するわけにも行かない。最小限の礼儀として質問すれば、男はもごもごと口元を動かしている。なんと怪しいことか。これは黒確定だな。
右脚を半歩後ろに引く。詩織も続いて身構えた。
予想を確信にするため、もう一つの質問を投げ掛ける。
「もしかして、あなたですか。みかちゃんのストーカーってのは」
「ッ!? みかちゃん!?」
薄い目がすっかり開かれる。その目の中には怯え、恐怖が窺えた。が、それはやがて消えていく。眉間のシワが深くなり、目は鋭く僕を睨みつけている。その目には、確かな怒りと殺意が満ちていた。
「お前たち、どうしてみかちゃんのことを知っている」
男は拳を握り締める。僕は詩織に下がるように合図し、同じく拳を固める。
「どうしてって、頼まれたんだ。ストーカーが怖いからどうにかしてくれって。あんたでしょ。みかちゃんのストーカーって」
「違うッ!!」
一瞬、空気が震えた。男は息を荒くし、胸元に手を当てる。
「俺はただ、みかちゃんが心配なだけなんだ。みかちゃんって可愛くて繊細で、壊れ易いから、こうして暗い夜道では見守ってあげてるんだ。俺はストーカーじゃない。逆に、みかちゃんを守ってるんだ」
その言葉で白黒はっきりついた。こいつはただの犯罪者だ。
息を吐き、男に一歩近づく。
「どう思おうが知ったことじゃないが、世間じゃそれを立派なストーカーっていうのさ。さあ、大人しくお縄につきな」
「来るなァ!!」
男は叫び、僕は足を止める。僕の喉元に冷たい気配が突きつけられる。包丁だった。夏の夜。暑さのせいではない汗が背筋を伝う。
周囲へ目を向ける。静かなこの住宅街で、騒ぎを聞きつけてやって来る人はいるだろうか。
「あさひっ! お前、何す――」
「お前も動くな! 動いたら、こいつがどうなるか分かるな」
流石の詩織も、そう言われては従うしかない。
包丁を握り締める手を震わせながら、男は続ける。
「そうか、お前たち、みかちゃんを狙ってるんだな? だから僕を排除しに来たんだ」
だめだ。この男、完全に自分の妄想に取り憑かれてる。何を言っても聞く耳を持たないどころか、自分が正義であると勘違いしているんだ。
そんな人間が次にどんな行動をとるか、僕は少し予想がついていた。
「でも大丈夫だよ安心して。みかちゃんは俺が守るから。俺が守るからァ!!」
男は腕を振り上げ、包丁を勢い良く振り下ろす。後ろへ退いてそれをかわせば、男はよろめいて前のめりになる。チャンスとばかりに詩織が攻撃に出ようとするも、男はすぐさま包丁を振り回し近寄らせない。
「犯罪者! 変質者! ロリコン! お前ら全員死ね! みかちゃんに触れるな!」
罵詈雑言を撒き散らし、男は僕に向かって突進してくる。振り回される包丁の切っ先が何度も鼻先を掠める。間一髪の連続で避けるも、この狭い路地ですべてをかわしきることは出来なかった。無我夢中で男の攻撃を避け続けていた僕は、背後の電柱の存在に気付けなかった。
「あぐっ!?」
背中と後頭部に痛みが走る。電柱に思い切りぶつけてしまった。眩む視界の中、街灯の光を受けて輝く切っ先が見えた。それは直線軌道を描き、頭上から振り下ろされる。僕は身を庇おうと、反射的に左腕をかざす。
「ああッ!!?」
瞬間、手首に激痛が走った。見れば、手首の切り傷からドクドクと鮮血が流れ出ている。咄嗟に右手で傷口を塞ぐ。
「これが、みかちゃんに危害を加えようとした者の末路だ」
男が顔をにやつかせている。その背後で詩織が叫ぶ。
「あさひ、あさひ!」
「僕に構うな! 詩織、警察を呼べ!」
「ッ!?」
その言葉に、男は詩織を振り返る。携帯を鞄から取り出そうとした詩織は、その視線に射竦められてしまった。
「させるか!」
男は詩織に襲い掛かる。突進する男の攻撃をなんとかかわしたところで、路地裏の隅に人影が飛び出した。白峰さんだ。
だが、タイミングが悪かった。男は突進の反動で前につんのめる。その先に、運悪く白峰さんが現れてしまったのだ。
「お前、みかちゃんと一緒にいた女ッ!」
「みんなだいじょ――きゃぁ!?」
「お前ら全員動くんじゃねぇ!」
男は瞬時に白峰さんの背後に回り、腕を首に回して包丁を首元へあてがった。驚いた白峰さんの視線が詩織へ、僕へ、そして僕の手首へと移る。
困惑に満ちた彼女の表情が、次第に怒りに満ちていく。
「あなた、こんなことして、タダで済むと思ってるの!?」
「うるさい! お前もあの男のようになりたいか?」
白峰さんは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
男は白峰さんの頬を包丁でぺちぺち叩きながら口を開く。
「お前達、これ以上痛い目を見たくなかったら大人しく帰るんだな。もし今度みかちゃんに接触しようものなら、今度こそ全員殺してやる。さあ、さっさと消えろ!」
この状態でまだ自分が正義だと勘違いしてるのか、この男は。
だが、そんな心理状態の相手ではまともな言葉は効かない。それに、元より僕らに退くことは許されないのだ。
どうすればいい? この状態で、二人ともを傷つけることなく男を無力化する方法は?
下手に動くことはできない。少しでも怪しい動きを見せれば、あいつは躊躇なく白峰さんの首を切るだろう。警察や周囲の人に助けを呼ぶことも、武力行使に移ることもできない。ならどうすればいい。この状況を乗り切る策は?
考えるけれど、次第に意識が虚ろになってきた。血を流しすぎたのかもしれない。そんな中、ふと白峰さんと目が合った。この状況でもなお意思を持った目。彼女は何も言わず、一度瞬きをした。
彼女の目が僕に語りかける。その内容を知る由はない。けれど、僕の心に一つの言葉が浮かぶ。
『魔法』
僕は魔法が嫌いだ。だから、自分自身がそれを使うことも、人がそれを使うことも認めてはこなかった。半端な力を振るえば、いつかきっと誰かが傷つくことになる。その意識を確かに貫いてきた。
だが、僕は見て来たはずじゃないか。白峰さんの魔法によって取り戻された笑顔の数々を。
確かに、魔法を使い続ければいつか人を傷つけるかもしれない。けれど、それと今の状況は関係があるのか。僕は未来の不確定さのために、現在の大切な人が傷つくこちを許すのか。
これまで思いもしなかった。そもそも選択肢に無かったのだから。けれど、天秤で量ってみれば答えは簡単だった。
顔を上げる。視線の先の白峰さんがニヤリと笑っている。そのいやな笑顔が今日は妙に心地良かった。
「今度みかちゃんに接触しようとしたら、何だって?」
視線を横へ移し、男を見上げる。
「あぁ? 全員ぶっ殺してやるって言ってんだよ! さっさと失せろ!」
「はは、そうかそうか。物騒なことを言うね」
男は怪訝そうな表情で「何がおかしい」と呟いている。
おかしい? そんな要素は一つもないさ。こっちは一歩間違えば死人が出るかもしれないんだ。だから、霞む意識の中、僕は一点に意識を集中させる。
右手を傷口から離せばまだ血は止まっていない。けれど、それに構う余裕はない。
「じゃあ、こっちからも言わせてもらうよ」
「な、なんだよ……」
「今度はないよ、お兄さん。今日であんたのストーカー生活は終わるんだから」
「はぁ?」
手近な小石を拾い上げ、男の右手首めがけてそれを弾いた。魔法を施されたそれは直線軌道を描き、目にも留まらぬ速さで男の手首にめり込んだ。
「いってぇ!」
男は叫び包丁を落とす。その瞬間、僕は駆け出した。男は咄嗟に白峰さんを盾にしようとするも、彼女に足先を踏まれてバランスを崩し、彼女を離して倒れこむ。が、男はすぐさま立ち上がって拳を振るう。勢いあまった僕は、それをすれすれで避ける。
血を流しすぎたせいか意識が遠い。少しでも集中が途切れれば一巻の終わりだ。けれど、僕は負けられない。後ろにいるやつらを傷つけさせるわけにはいかないから。
繰り出される拳をかわし、防ぎ、受け流していく。その中で、一際大振りの拳が頬を掠めた。男はよろめき、決定的な隙を晒している。
僕は左腕から流れる血を魔法で集め、男の目へ散らす。
「ぎゃあぁ!?」
男は両目を押さえて悶えている。隙だらけのどてっ腹に蹴りをお見舞いすれば、男は盛大に尻餅をついた。
「見えない、見えないぞ! どこだ! 逃げるなこの野郎!」
男は暗闇の中で両腕を無闇に振り回してる。僕はその前に立ち、隙をついて男の耳元へ右手を差し出す。
「全く、手間をとらせやがって。面倒だから、少しの間眠っててくれ」
囁き、一度指を鳴らす。すると、男はぴたりと抵抗を止め、がっくりと項垂れる。
「あ、あさひ! あさひ! 大丈夫!?」
詩織の声が聞こえてくる。振り返ろうとすると、足元がもつれてバランスを崩してしまう。倒れようとする僕を、詩織が支えてくれた。
「あぁ、詩織。大丈夫だよ。アレは気絶してるだけだから。しばらくすれば起きる」
「違う! そういうことじゃない! こんなヒドイ怪我して。早く手当てしなきゃ!」
「はは、お前は相変わらず心配症だなぁ。この程度、なんてことない」
意識が遠のく。眠い。糸の切れた人形のように力が入らない。
こんな状態で体力を使いすぎたかな。やっぱ、魔法なんて使うものじゃない。はは。
「あさひ! し……りして! あ……ひ!」
詩織の声が遠くなる。うるさい中じゃ眠れないから、有り難いものだ。詩織には悪いけど、少しの間だけ眠らせてくれ。
そっと目を閉じる。
今はもう、何も聞こえない。
***
僕は魔法が嫌いだ。中途半端な力。科学に取って代わられた時代の敗北者。そんなものに縋ることに意味なんてない。だってそうだろう。万能でない力を振るえば、いつか誰かが傷つくことになる。嘗ての僕が友人にそうしたように。だから、僕は魔法が嫌いだ。人を傷つける魔法が、嫌いなんだ。
嫌い、なはずなのに、最近は心が揺れる。彼女の光を胸に抱く度に、自分を騙しきれなくなる。
……もう意地を張るのはよそう。僕は魔法が嫌いなんかじゃない。本当は、今でも好きなんだ。目を閉じれば思い出す。お母さんの魔法の暖かさを、白峰さんの魔法の優しさを。
なら、どうして魔法を使うことを止めたのか。
これは『罰』だ。
嘗ての僕にとって、魔法を使うことは日常の一つだった。故に知っていたはずだった。自分に出来ることと出来ないことの境界を。だが、あの頃の僕はその境界を曖昧にし、愚かにも自分に出来ないことなどないと錯覚していた。だから、僕は友人を傷つけた。
こんな僕に魔法を使う資格はない。だから、僕は自分自身に罰を課したのだ。二度と過ちを繰り返さないように。二度と、人を傷つけないように。
その決意が、いつしか形を変えて魔法への忌避へと変貌していた。自身への罰を感情で塗り固め、心の奥底へ封じ込めた。きっと、そうすることでしか自分を保てなかったんだ。あの頃の僕には、母さんが残した魔法しか無かったから。
……。
暗い暗い水の底へと沈んでいく感覚。ゆっくり、ゆっくり、眠りに落ちるように。
こんな僕に、今更魔法を使う資格があるだろうか。魔法を蔑み、貶めることで自分を保ってきた僕が、今更魔法の温もりを語るのは許されるのだろうか。
詩織は、許してくれるだろうか。ゆずは? 母さんは? そして、僕自身は?
落ちる、落ちる。手を伸ばしても何も掴めない。
あぁ、きっと許されない。許してはくれない。僕の魔法は、人を傷つけることしかできなかったのだから。
――わたしが許すわ
パッと、目の前が光に満ちる。目を細めるその先に、一つの影が映っている。その声はどこか懐かしい。
――わたしが許す。だって、君の魔法の優しさを、温もりを、わたし、知ってるから
知ってる? 僕を? 君は一体……?
――さあ、そんなとこにいないで、こっちへ手を伸ばして
言われるままに腕を伸ばす。伸ばした指先に、彼女の指先が届く。そして……、
***
「おはよう。よく眠れた?」
目の前に白峰さんの顔がある。周囲は暗く、街灯の明かりがやけに眩しい。視界の奥には雲のない星空が見えた。
状況がよく飲み込めないまま体を起こそうとすると、視界が霞み、妙な嫌悪感を抱いた。
白峰さんの腕が僕の肩を優しく押さえる。
「ちょっと、急に起きたらだめだって。傷は治っても、失った血までは治せないんだから」
再び横になる。後頭部に少し柔らかい感触を覚える。なんだこれは。
「わたしの膝枕、感想はどう?」
「えッ!? 膝枕!?」
「ちょ、こら、暴れないの!」
跳ね起きようとする僕は、しかし再び白峰さんに押さえつけられてしまう。病み上がりの身であっては、例え男でも彼女には敵わないのか。悟った僕は大人しく抵抗をやめる。
「よろしい。聞き分けのいい子は好きよ。で、感想は?」
「ん……まずまず、かな」
「なによそれ。もっと良い評価を期待してたのに」
その声は、とても残念がっているようには見えない。彼女の言葉を他所に、詩織の姿が見えないことに気付いた。
「なぁ、詩織はどこに行ったんだ?」
一瞬、彼女の表情が曇った気がした。
「柳瀬さんなら、みかちゃんを家に送り届けているところ。あの男は警察に突き出したし、わたしたちは後は特にやることはないわ。だから、ゆっくりしていきましょう。桐江君も、急に動いたら辛いでしょう」
確かにそうなのだが、白峰さんに膝枕をされるという状況も中々危険な気がする。早まる心臓の鼓動が彼女に伝わらないか不安だ。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は僕に微笑みかける。
「それにしても、また君に助けられちゃったね」
また。梅雨明けの引ったくり事件のことか。
「ほんと、桐江君には助けてもらってばかり。君がいてくれなかったら、今頃のわたしはどうなってたか」
まるで僕が彼女の人生を変えたかのような物言いに、思わず笑みを零す。
「そんな大袈裟な。例え僕がいなくたって、結果は同じだったよ」
「そんなことないわ」
彼女へ目を向ける。
「桐江君がいてくれたから、今のわたしがいる。だからね、君には感謝してるの」
ふと、周囲にふわり、ふわりと光が舞った。彼女の魔法だろう。暖かみのある橙が僕らを照らし出す。
その一つがすぅっと僕の胸元へ漂ってくる。それを右の手の平で受け止めれば、温度の無い暖かさが胸に染み入るようだった。
「止めないの? わたしの魔法」
彼女は呟く。僕は光を空へ返し、ため息を一つ。
「……止めても、止める気はないんだろ? なら、無理にそうする必要もないかな」
「もう、素直じゃないんだから」
彼女は笑う。僕もつられて笑った。
やっぱり白峰さんには敵わないな。きっと、僕の胸の内も彼女にはお見通しだろうから。
そっと胸の前で手の平を広げる。そこには一つの光の球。朱色に光る僕の魔法だ。それをゆっくり空へ放てば、それは周りの橙に混じって周囲を漂う。
「あら、桐江君が自分から魔法を使うなんて。急にどういう風の吹き回し?」
彼女は口許に笑みを浮かべて僕の顔を覗き込む。
言わなくてもわかっているくせに。
その言葉の変わりに、僕はそっと笑ってみせた。
***
「ていうかあの時、白峰さんだったら余裕で男を捕まえられたんじゃないか? どうしてわざわざ僕にあんなマネを……」
「あら、人質に取られた女の子に対してひどい。わたしはか弱い乙女なのに」
「ははは、全く、どの口がそれを言うか。いてっ!? 何で急に叩くんだよ」




