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魔法のいろは  作者: ほろほろほろろ
第二幕
10/27

全部知ってるよ、この変態女のことは!

 過保護な妹 素直じゃない妹

 家に着き、ほっとしたのも束の間のこと。

 ベッドに横たわってスマホを弄っていると、ピロンという着信音と共に一通のメッセージが届いた。誰かと思えば、なんと詩織から。珍しいなと思いつつメッセージを開く。するとそこには『押し切られて全部話しちゃった。ごめんね。でも、最大限フォローは入れたつもりだよ』と書かれていた。

 全部話した。何を、誰に。そんなの決まってるじゃないか。

 背筋に冷や汗が浮く。部屋の外からトタトタと廊下を走る音が聞こえる。そして次の瞬間、部屋のドアが勢い良く開かれた。


「お兄!」


「のわっ!? ゆ、ゆず!?」


 驚き体を起こす。歩み寄るゆずに僕は声を震わせる。


「どうしたんだよ急に。もしかして、もう夕飯の時間か?」


「お兄、詩織ちゃんから訊いたよ。ストーカーに言い包められて変な活動に参加させられることになったって」


 僕の言葉は見事にかわされた。どうやら予想は的中したらしい。ゆずに見下ろされ、僕は生唾を飲み込む。


「なな、何のことだ? 僕には全く心当たりがないんだが」


「詩織ちゃんも最初はそうやって誤魔化そうとしてた。でもゆずには分かるもん。二人が嘘ついてるって」


 何てことだ。僕の嘘が瞬く間に見破られるとは。これが女の勘というものか。

 そして今の言葉。詩織も誤魔化そうとしてたということは、あいつはちゃんと約束を守ろうとしてくれたんだ。しかし、運の悪いことに相手はゆず。僕も詩織も、ゆずの圧力には勝てない。

 心の中で白旗を揚げる。負けを認めた僕は、いつものように飛んでくるであろう暴力に備え、心を決める。


「お兄、体は大丈夫? 怪我とかしてない? 洗脳とかされてない?」


 しかし、ゆずの口調は意外にも落ち着いており、拳の一つも飛んでこない。いつもなら『よくも嘘ついたな、このバカお兄!』と叫びながら突っ込んでくるのに。とんだ肩透かしを喰らった感じだった。

 なんだろう、暴力を振るわれないのは嬉しいが、逆に気味が悪いぞ。


「ぼ、僕なら大丈夫だ。ほらこの通り、怪我もしてないし、洗脳だなんて、はは、ありえないだろう?」


「……」


「……えっと」


 腕を動かして元気アピールをするも、ゆずは何も言わない。目を細め、冷ややかな視線を注ぐその姿に、これまでにない恐怖を覚えた。

 少しして、ゆずがそっと口を開く。


「どうして? どうしてそんな嘘をつくの?」


「いやそんな、嘘なんて――」


「さっきもそうだった!」


 僕の言葉はゆずによって遮られた。僕は口を噤んで肩をすくめる。


「さっきも、あのストーカーのこと誤魔化そうとしてた。詩織ちゃんから訊いたよ? あのストーカー、魔法使いらしいね。お兄、これまで魔法に一切関わろうとしてこなかったのに。きっとストーカーに弱みを握られたり、脅されたりしたんだよね?」


 だめだ。ゆずの中では白峰さんは完全に危険なストーカー扱いになっている。いや、半分くらいは合っているような気もするが。それでもこのまま勘違いを野放しにしておくわけにはいかない。ここは兄としてビシっと言って正さなければ。


「ま、まあゆずよ、取り合えず落ち着いてお兄ちゃんの話を聞け。お前は盛大な勘違いをしている」


 取り合えず妹の気を鎮めようと言葉を掛ける。乱暴な妹だが、聞き分けのいい子だ。いつもならベッドの縁に腰掛けて話を聞いてくれるはずだ。

 はずだったのだが。


「大丈夫、安心して。ゆずが一肌脱いであげる。お兄に付きまとうしつこい粘着質なストーカーなんて、ゆずが一捻りしてやるんだから」


 そう言い残すと、ゆずは軽快な足取りでさっさと部屋から出て行ってしまった。部屋に残されたのは僕一人と、


「おぉい、ゆずぅ、お兄ちゃんの話を聞いてくれぇ」


 哀れな兄の情けない嘆きだけだった。


 ***


 翌日、学園へ登校すれば、そこには手を合わせて謝罪する詩織の姿があった。


「あさひ、ごめん! 昨日は約束守れなくて。あれからゆずちゃんから電話がかかって来て、誤魔化そうとしたんだけど、ウソだってばれちゃって。誤魔化しきれなかったの」


 大丈夫。詩織が約束を守ろうとしてくれたことはちゃんと分かってるから。そう伝えれば、詩織はほっと安心したように眉尻を下げたのだった。

 詩織よ、同情するよ。僕も同じだったから。ゆずにウソがばれたときはまさに生きた心地がしなかった。

 ともあれ、既にゆずにも知られてしまったこと。


『大丈夫、安心して。ここはゆずが一肌脱いであげる』


 昨日のゆずの言葉を思い出す。一体あいつは何をしようというのか。これから何が起こるか分からない。きちんと気を引き締めていかなければ。僕は心の中で、自分自身に喝を入れる。

 そして時間は過ぎ、迎えた放課後。今日は詩織は部活へ行くようで、一足先に教室を後にしていた。堂島の姿も既にない。

 何気なしにポケットからスマホを取り出す。画面を開けば、そこには一通のメッセージが届いていた。差出人は白峰さん。内容は、『先にわたしの家で待ってるから』と書かれており、白峰さんの家の周辺地図が添付されていた。

 魔法屋、か。本当にあんなポスターだけで人が集まるのだろうか。正直な話、僕は全く信用していない。だって、明らかに怪しすぎる。もし本当に人が集まらなかったら、僕は何をしに白峰さんの家を訪れるのだろう。どちらかと言うと、魔法を使おうとする白峰さんを止めることよりも、白峰さんの家で手持ち無沙汰になることへの不安のほうが大きかった。

 ため息と共に学校を後にする。既に宣言してしまった以上彼女の家に行かない訳にはいかない。僕は添付された地図を見ながら住宅街を抜けていく。

 梅雨明けの空気がじめじめと肌に張り付いてくる。少し額が汗ばんでくるほど歩けば、やがてそれは見えてきた。全体的に焦げ茶色の木造。慎ましい玄関口の前の立て看板には、あの胡散臭さ満点のポスターが貼られている。そして、店先には人影が二つ。一つは、もう一つに比べて頭二つ分ほど背が小さい。

 ついさっきまで、白峰さんの家で間が持てなくなるのを恐れていた。実質白峰さんと二人きり、一体何をどうしようというのか。しかし、その不安は既に必要はなく、また別の問題が降りかかろうとしていた。

 僕の存在に気が付き、背の高い陰がこちらへ顔を向ける。白峰さんだった。


「あぁ、桐江君。丁度良いところに」


 白峰さんは向かい合う人影を一瞥し、こう続けた。


「一つ質問なのだけど、柳瀬さんってこんなに小さかったかしら」


 その言葉に促されるように視線を横へずらす。その小さい人影の正体は、白峰さんを一心に睨みつける妹のゆずだった。


 ***


 困惑し眉を寄せる白峰さんと、彼女に今にも噛み付きそうなゆず。流石に店先でケンカを始められたら迷惑になると思い二人の間に割って入ると、同じタイミングで店の戸が開かれた。中から現れたのはもちろん白峰さんのお母さん。「あら、今日もお友達を連れてきたの。賑やかでいいことねぇ」と優しい笑みを浮かべ、僕らは昨日と同じく白峰さんの自室に通された。

 昨日と同様、部屋の中央のテーブルを囲うように座布団の上に腰を落とす。目の前には、白峰母が持ってきてくれたジュースと山盛りのお菓子。しかし、それに手を付けられる状況ではなかった。視線を右に逸らせば、ゆずがまだ白峰さんにガンを飛ばしていた。

 一触即発の緊張感が走る。このままの空気ではまずい。何か言わなければ。強い使命感を感じた僕は、二人の顔を交互に一瞥し、少しテーブルに身を乗り出す。


「あ~、そういえばまだ紹介してなかったな。白峰さん、こいつは妹の悠月だ。僕は『ゆず』って呼んでる。ほら、ゆず、挨拶しなさい」


「ふんっ!」


 優しく声を掛けるも、いとも容易く跳ね除けられてしまった。このピリピリした空気を打開しようというのに、こいつはなんと空気の読めないやつだろうか。一方で、白峰さんも白峰さんだ。左へ目を遣れば、彼女は、


「妹さん。ということは、小姑ポジションね。厄介だわ」


 などと小言をブツブツ呟いている。

 何だこの状況は。僕が一体何をしたって言うんだ。緊張感のあまり胃がキリキリ痛むも、ここで言葉を止めてはいけないと思い、白峰さんの紹介に移る。


「あぁ、えぇと、ゆず、こちらが僕の同級生の白峰さんだ。白峰さんとは――」


「全部知ってるよ、この変態女のことは!」


 しかし、僕の言葉はゆずによって遮られた。ゆずはすくっと立ち上がり、白峰さんの鼻先に人差し指を突きつける。


「全部詩織ちゃんから聞いたもん。あんた、お兄ちゃんをストーカーして弱みを握って、それでこうやって家に連れ込んでるんだ!」


「待て待てゆず! それは曲解しすぎだ!」


 ストーカーの部分については否定は出来ないが、弱みを握られたとか、詩織がそんなおかしな話を吹き込むはずがない。詩織の言葉をゆずはどう脳内変換してしまったのか。


「取り合えず落ち着こう、な? まあ座れ」


「そうよ、ゆずちゃん。落ち着いて? ほら、甘いお菓子を食べて」


 ゆずの謎の怒りを鎮めようと言葉を掛けると、白峰さんも同調してくれる。けれど、彼女の言葉がゆずの癪に触れたようだ。


「あんたに『ゆず』って呼ばれたくない! いただきます!」


 ゆずは声を荒げつつトスンと座布団に腰を落とし、そのまま盛られた菓子の山に手を伸ばす。それを勢い良く頬張れば、それまで険しかった顔が一瞬にして晴れた。全く、怒ってるんだか素直なんだか分からんやつだ。

 それでも一頻り菓子を食べると、ゆずの顔は再び険しさを取り戻した。


「ふんッ! こんなお菓子で懐柔しようったってムリなんだから! どうせお兄ちゃんにも卑怯な手を使ったんでしょ!」


「ゆず、だから誤解なんだって。詩織から何て聞いたか知らんが、取り合えず話を――」


「お兄ちゃんは黙ってて!」


 ゆずはヘビの如き眼光で僕を睨み、言葉を遮る。その言葉の中に苛立ちを隠そうともしない。

 僕は言い返せず、二人の間で縮こまる。


「これまでお兄ちゃんは自分から魔法に関わろうとしてこなかった。それが急に何よ。魔法使いのストーカーの家に通うだなんて! どんな手を使ったかは知らないけど、あんた、お兄ちゃんに一体何をするつもりなの!?」


「悠月ちゃん、と、取り合えず落ち着いて、話を聞いて? わたしはただ、あなたのお兄さんに協力してもらいたいだけよ」


 白峰さんの言葉に、ゆずは怪訝そうに眉をひそめる。


「協力? 何に? お兄ちゃんにヘンなことさせるつもりじゃないでしょうね」


 いぶかしむゆずに対し、白峰さんはゆったりとした口調で語りかける。


「安心して、とっても健全なことよ。実はわたし、昨日から『魔法屋』を開いたの。それで、わたし一人だと心細いから、朝陽君に協力をお願いしたのよ」


「ま、魔法屋? 何よそれ。何かのお店?」


 ゆずの質問に対し、白峰さんが答える代わりに部屋の外から声が聞こえる。声の主は白峰さんのお母さん。彼女は大きな声で白峰さんに呼びかける。「彩葉、お客さんよぉ! 表のポスターの!」と。

 その言葉を聞いた白峰さんは、目を細め口元に笑みを浮かべる。


「ふふ、早速一人目のお客さんが来たみたいね」


 ***


 魔法屋に客だと!? あの怪しさ満点のポスターを見て来たのか!? 一体どんな感性をしていればあれに釣られるというのか。というかそもそも早過ぎるだろう。だって、ポスターを貼ったのは昨日だぞ。

 本当に客が来たのか怪しみつつ、僕ら三人は一階へ降りて店先へ向かう。例の客第一号は店の前で待っているそうだ。


「さあ、『魔法屋』初仕事よ。気合入れていきましょう」


 僕らにそう呼びかける白峰さんに続き、僕らは店の外へ。少し重いドアがベルを鳴らしながら開かれ、夕日の赤が目に染みる。目をしばたかせ、やがてはっきりとする視界の先には二人の少女が立っていた。小学校の低学年くらいだろうか。ランドセルは背負っていない。一人は青い風船を片手に困り顔を浮かべ、一人は声を必死に抑えて涙を拭っている。

 確かに、何かトラブルを抱えている二人だった。白峰さんは二人のもとへ歩み寄り、姿勢をかがめて目線を合わせる。


「どうしたの? お嬢さん。何があったの?」


 白峰さんの優しい声。僕も加わろうかと迷ったが、二人を怖がらせてもいけないと思い、一先ずは彼女に任せることにした。

 白峰さんの問いかけに涙を流している子は答えない。言葉より先に涙が出るようだ。代わりに、友達らしいもう一人の子が答えた。


「あのね、ふうせんをはなしちゃったの。あそこ」


 その子が指差す先を見れば、数メートル先の街路樹の枝先に赤い風船が引っかかっているのが見えた。どうやら二人で遊んでいる最中に手を離してしまったんだろう。

 それが分かればやることは一つ。しかし木登りか。これまでまともに木登りなんてしたことないけど、取れるかな。


「分かったわ。お姉ちゃんが取ってあげるね。少し待ってて」


 泣く子の頭を優しく撫でると、白峰さんは立ち上がる。さて、ここは一つ頑張ってみるかと木のものへ歩き出す僕だったが、ふと横へ目を向ければ、風船へ手をかざす白峰さんの姿があった。僕は慌てて身を翻す。


「ちょちょ、待って白峰さん!」


 すると、彼女は頭上に疑問符を浮かべながら僕へ視線を移す。


「どうしたの? 今からあれを取ってあげようとしてるんだから、邪魔しないで」


「まあそうだろうけど、白峰さん、魔法を使う気だろ」


「当たり前じゃない」


 声を落として訊けば、彼女は笑い飛ばすように言った。


「『魔法屋』と名乗ってるのに魔法を使わないなんて、名前詐欺になるわ」


 そ、そうだろうか。いやいや、そんなことはどうだっていい。僕は決めたんだ。白峰さんに魔法を使わせないって。それが例えどんなに小さな魔法だったとしても。


「名前詐欺だろうがなんだろうが関係ない。白峰さんに魔法は使わせない。あの風船は僕が取るよ」


 彼女は少し不満そうな顔を向けたが、それでも腕を下げてくれた。僕に任せてくれるらしい。


「お兄ちゃん、大丈夫? わたしも手伝おうか?」


 ゆずが優しい言葉を掛けてくれる。流石は我が妹だ。だが心配はいらない。僕は必ず取ってみせるよ。白峰さんに魔法を使わせないために。妹の前で不恰好な姿を晒さないためにも。


「心配ないよ、ゆず。お兄ちゃんに任せな」


 皆に背を向け、街路樹の下へ。近寄ってみれば意外に背が高く、風船は地上から五メートルほどのところに引っかかっている。幹は太く、しがみ付いて登るのはキツそうだ。しかし、幸運なことに低い位置にも太い枝が伸びており、ジャンプすれば届きそうだ。


「頑張って、お兄ちゃん」


「早くしてね」


 優しい言葉とそっけない言葉。それらに背中を押されるように、僕は勢い良く跳んだ。


「よっと!」


 右腕を精一杯伸ばし、何とか枝に掴まることができた。そのまま左腕も伸ばして掴まり、体を引き上げる。この時点で地面から二メートル程。あまり高くないはずなのに、上から見るととんでもなく高く思える。不安定な狭い足場の上で、僕は無意識に体を震わせる。不安が募るが、弱気になるわけにはいかない。下へ目を向ければ、心配そうに見上げるゆず、口元をニヤつかせている白峰さん、二人の小学生も僕を見上げている。みんなが待ってる。僕の凱旋を待っているんだ。

 自分を奮い立たせ、下ではなく上を見上げる。幾多の枝葉が視界を塞ぐ中、夕日より赤い風船が隙間に見える。それに近づこうと僕はさらに上の枝へ腕を伸ばし、体を引き上げようと力を込めると、

 ……パキッ


「のわぁ!?」


 何と掴んでいた枝が折れてしまった。


「お兄!?」


 腕からの支えを失った僕は、ゆずの悲鳴を聞きながら後ろへ倒れる。回る視界。反転する世界。黒いアスファルトの地面が目前まで迫る錯覚を覚える。

 ここで終わりなのか? 僕の人生は、風船一つ取れずに終わってしまうのか。

 明日の地方ニュースに載ることだろう。『市内の高校生、風船を取ろうとして落下死』。

 ごめんよ少女たち、風船、取ってやれなくて。ゆず、情けないお兄ちゃんでごめんな。詩織、最後にお別れも言えなくてごめん。堂島、短い付き合いだったけど、楽しかったよ。

 世界が急に減速する。人は危機に瀕すると、スローモーションの世界を見るらしい。これがそうか。このまま頭を打って死ぬのなら、最後にこの光景を楽しむのもいいだろう。ゆったりと落ちるままに任せて、僕は目線を巡らせていく。

 その時、僕は見てしまった。皆と同じように僕を見上げる白峰さん。その顔は驚きでも何でもない、まるでコメディ映画のワンシーンを見ているかのように、彼女は笑っていた。僕がまさに死のうとしているときに!

 よりにもよって白峰さんに笑われて死ぬなんて、そんな最期、認められるか!


「ふんぬッ!」


 僕は全神経を足に集中させ、両足で枝にしがみ付いて精一杯の力を込める。すると、視界は上下が反転したまま、しかしそれ以上下へ落ちることはなかった。僕は枝の下で宙吊り状態になっていた。

 ともかく、僕は一命を取り留めた。僕とゆずが同時に安堵の息を漏らす。しかし一方で、白峰さんは「あっ」と声を漏らして空を見上げる。彼女の視線の先を追えば、赤い風船が木の枝葉から離れ、ぐんぐん空へ昇っていくところだった。さっきの衝撃で木が揺れて、風船が離れてしまったらしい。

 しまった。そう思ったときには既に遅し。宙吊りの僕にできることはない。しかし、白峰さんの行動は早かった。飛んでいく風船へ手をかざせば、昇っていくそれは急に速度を失い、それどころかまるで引き寄せられるようにこちらへ近づいてくる。どうやら、辺りの気流を操っているようだ。

 やがて風船は白峰さんの手元へ。風船から垂れた紐を掴み、姿勢をかがめて少女へそれを差し出す。


「はい、どうぞ。もう手を離しちゃだめよ?」


「うん! ありがと、おねえちゃん!」


「おねえちゃんすごい! さっきのどうやったの!?」


 涙の晴れた少女たちの澄んだ声が夕暮れの空に響く。白峰さんは目を細め、柔和な笑みを浮かべた。


「これは『魔法』。みんなを笑顔にする、とってもステキなものよ」


 ***


夕日が水平線の下へ沈んでいく。夜の帳が下り始めた住宅街は、昼間の静けさとは違った寂しさを感じさせる。ついさっきまで命懸けで木登りをしていたとは思えない。

 少女二人を見送った後、僕らはまだ白峰さんの家には戻らずその場に残っていた。ほの暗い裏道を街灯が薄く照らす。優しく吹く風は、運動後の肌には涼しい。


「……わたしは、認めないんだから」


 暗い沈黙を破ったのはゆずだった。その言葉に、それまで背を向けていた白峰さんは振り返る。


「いくら慈善活動をしたって、わたしはあんたを信じない。どれだけ人を助けたとしても、お兄ちゃん自身が救われなきゃ意味ないんだから」


「ゆず……」


 白峰さんを睨みつけるその目に先ほどまでの鋭さはない。声もどこか落ち着いている。

 彼女に対する敵意は少し減ったのだろう。まあ、口数は減らないようだが。


「いつかきっと、あんたはお兄ちゃんを傷つける。だから、あんたがお兄ちゃんを巻き込もうって言うなら、わたしはそれを許さない」


 それは今現在の本心か、それとも過去の言葉を曲げられない強情さからか。何となくだけど、僕にはどうも後者に思えた。

 それは白峰さんも分かっているのか、わざとらしく困惑した表情を浮かべて体を捻る。


「それは困ったわ。小姑に苛められるなんて」


「誰が小姑よ!」


「はぁ、全く……」


 ムキになるゆずもゆずだが、おちょくる白峰さんも白峰さんだ。詩織だけでもどうなるやらとハラハラしたのに、そこにゆずも加わるとなると。先のことを思うと胃が痛む思いだった。

 未来を想像し、ため息をつく。その時だった。深まる暗闇の奥、茂みの中から一つの白い何かが飛び出してきたのだ。


「な、何!?」


 音のした方へ僕とゆずは同時に身構える。その白い何かは僕らの前で立ち止まり、一度「ワンッ」と鳴いた。その声は、紛れも無くダイキチのものだった。


「ワンちゃんだぁ!」


 その正体が白い小犬であることに気付いたゆずは、さっきまでの剣幕は何処へやら、黄色い声を上げてダイキチに近寄る。


「ほぉらワンちゃん、おいで、おいで」


 ダイキチの前でしゃがみ、手をちょいちょいとさせる。ダイキチも興味を持ったのか、ゆずの手に鼻先を近づけて匂いをかいでいる。それが相当嬉しかったらしい。ゆずはにこにこになりながらダイキチの頬に手を伸ばしていく。

 しかし、その手がダイキチに触れる直前、


「待ちなさい」


 白峰さんの言葉によって場は制された。彼女が「ダイキチ、おいで」と呼べば、ダイキチはしっぽを振りながら彼女の足元に駆け寄った。その様を、ゆずは唖然とした表情のまま目で追っていく。

 少しして、ゆずははっとしたように立ち上がり、白峰さんと向かい合う。


「ちょっとあんた! 何邪魔するのよ! もう少しだったのに!」


「邪魔もなにも、人の犬に手を出そうだなんて、ねぇ?」


 白峰さんが意味ありげな言葉を零せば、ゆずは一歩後ずさった。


「ま、まさか、そのワンちゃん……」


「そうよ、この子の名前はダイキチ。我ら『魔法屋』のマスコットキャラクターよ」


「えぇ……」


 おかしいな。ダイキチは野良犬のはずだが。ほら、今もダイキチは首輪をしていない。


「おい白峰さん、嘘は止めてくれ。ダイキチを飼うなんて話、僕は聞いていないぞ」


 と言おうとしたが、実際には「おい白峰さ――」と言いかけたところで僕は口を噤んだ。白峰さんが余計なことは言うなという目で睨みつけてきたのだ。

 何だか二人の間に入ると火傷しかねないので、僕は傍観を決め込むことにしよう。


「マスコットだから何よ! 触らせてくれたっていいでしょ!」


 負けじと食い下がるゆず。それに対し、白峰さんは余裕綽々とした様子でダイキチを抱き上げる。


「人の犬を許可なしに触ろうだなんて、なんて図々しいのかしら。ねぇ? 朝陽君」


「ぐぬぬぅ」


 やめろ。僕を話に絡めようとするんじゃない。


「でも、悠月さん。あなたがわたしのことを認めてくれるというなら、この子と触れあわさせてあげる」


 そう言うと、白峰さんは抱きかかえたダイキチをゆずの前に差し出してくる。

 ダイキチはまん丸の目でゆずを見上げる。その輝きは、暗がり始めた中でもキラキラと光っている。


「はぁ、はぁ」


 ゆずは手をわきわきさせながらダイキチの頭へ腕を伸ばす。が、手はいまだ宙に浮いたまま。


「どうしたの? 犬、好きなんでしょう? 触ってもいいのよ?」


「あ、あぁ、わたしは……」


「ほぉら、ふわふわで触り心地バツグンよ」


 白峰さんはさらにダイキチをゆずに近づける。ゆずの目はダイキチとバッチリ合ってしまっている。今、ゆずの中では壮絶な戦いが繰り広げられていることだろう。その心中を推し量り、僕は胸が痛んだ。

 いいんだ、ゆずよ。もういいんだ。無理をすることはない。ダイキチに触っていいんだよ? お前、ずっと犬と触れ合うことに憧れてたもんな。だから我慢するな。自分に正直になっていいんだ。

 そんな僕の思いに反し、ゆずの心は強かった。


「うおおぉぉ!!」


 唐突に雄たけびを上げると、ゆずは白峰さんから距離を取り、威嚇体勢に入った。その目には、先ほどまでの鋭い光が宿っている。


「わたしはそんな誘惑には屈しない! あんたの思い通りになんて、ならないんだからぁ!」


 最後にそう言い残すと、ゆずは全てを振り切るように一目散に駆け出していく。その後姿を、僕らはしばらく眺めていた。

 やがて、ゆずの姿は暗闇の中へ溶けて見えなくなった。残された僕と白峰さんは、一度顔を見合わせた。


「まあ、あんな妹だが、根はいいやつなんだ。悪く思わないでくれ」


 兄として一応のフォローを入れれば、白峰さんは、


「まあ、そうね。ちょっといじめ過ぎちゃったかしら」


 と、少し申し訳なさそうに眉を寄せていた。

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