あなた、魔法は好き?
「ねぇ、桐江君。君、魔法使いでしょ」
やわらかく穏かな、まるで浜辺に細波が立つように、彼女、白峰彩葉は静かに僕に問いかけた。
そこは、梅雨も最中の海辺の広場。大粒の雨が降りしきる中、僕は傘を差したまま動けないでいた。一部の人以外には知らない僕の事実を、さも当然のように言い当てられたから。
目の前の彼女は木製のベンチに腰掛け、その膝の上には一匹の子犬が静かに眠っている。長い睫毛の陰の中、澄んだ瞳が小犬を見下ろしている。彼女の長く伸びた黒髪の艶やかさが、この雨の景色によく似合っていた。
この雨の中、彼女は傘を差していなかった。それなのに、彼女たちは全く雨に濡れていない。彼女の頭上を見れば、透明な傘を差しているかのように雨粒が彼女を避けるようにして落ちている。
魔法。僕の脳内に、一つの単語が反復する。
「ねぇ、聞いてる?」
この雨で聞こえていないと思ったのか、彼女は再び問いかける。その声は、うるさく響く雨音の中でもすっと僕の耳に届いた。
僕の目を見つめてくる。無機質な声とは対極的に熱を持った眼差し。僕に何かを期待している目だ。
「……」
けれど、僕は答えない。右脚を半歩後ろに下げる。彼女は眠った子犬を優しく撫でながら、こくっと首を傾げた。僕は大きく息を吸い込む。
「どうして、君がここに?」
すると、彼女の無表情だった顔はぱっと笑顔に崩れた。
「うふふ、どうしてって、わたしがここに来ちゃいけないの? 君の家じゃあるまいし、誰がここに来たっていいでしょう?」
そう言うと、彼女は子犬を胸に抱いたまま、すっと立ち上がる。紺色のブレザーにねずみ色のチェックのスカート。僕の通う学園の制服姿。彼女は丈の短いスカートの裾を揺らしながら、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
やがて手前1メートルまで来ると、彼女は足を止め、悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開く。
「それとも、ここに来たらまずいことでもあったかな?」
挑発するかのような口調に奥歯を噛み締める。
彼女は知ってるんだ。僕が魔法使いであることを。
ずっと隠しと通してきた秘密を見透かされ、不安と焦燥に胸を締め付けられる。
雨に濡れない彼女、先ほどの彼女の『魔法使い』という言葉。そして、今彼女が胸に抱いている小型犬。あれは野良犬で、足に怪我を負ってこの広場から動けないでいた。それなのに、今ではその怪我が見る影もなく消えている。自然治癒では有り得ないことだ。
彼女が、白峰さんが治したのか?
「……その犬、足に怪我を負ってたはず。なのにどうして、今はそれが消えている?」
声を落として訊けば、彼女は嬉しそうに目尻を下げた。
「もぉ、桐江君ったら、そんな怖い顔しないでよ。この子の怪我ならわたしが治したよ。魔法でね。だっ
て、全然治してあげないんだもん、君」
軽い返答に胸が痛んだ。
彼女は一歩ずつ、圧力を掛けるように僕に歩み寄る。
「ねえ、どうして君が治してあげなかったの? 放課後、毎日ここに通ってお世話してたんでしょ? どうして『魔法』で治してあげなかったの?」
魔法、魔法、魔法。何度も何度も、彼女は忌々しい単語を口にする。
僕はいつしか唇を噛み、視線を下へ逸らした。彼女はニヤリと笑い、息をついて言葉を続ける。
「まあ、いっか。本当はね、そんなことが訊きたかったんじゃないの」
その一瞬、ぱっと雨が止んだ。僕たちの周りから大粒の雨は消え失せ、耳の奥にうるさくこだましていた雨音はしんと静まり返った。そんな中だから、今度の彼女の質問は、一言一句聞き逃すことなくはっきりと聞こえた。
「ねぇ、桐江君。あなた、魔法は好き?」
三幕構成を学んだ私は無敵です。