武闘派悪役令嬢 026a
――目が覚めた私は、すぐに左腕の痛みに気づいた。
意識が明瞭になるにつれて、伝わってくる痛みも強まってくる。それは明らかに、精神的ではなく物理的な現象による疼痛だった。
上半身を起こして腕を見ると、左の前腕に腫れができている。あの夢の中で、デーモンの一撃を防いだ部分だった。非現実の世界で受けた傷が、現世にも伝わる――それはじつに荒唐無稽な出来事である。
しかし世の中には、理解できぬ不可思議なことがあるのだ。
そう……前世の記憶を引き継いでいる私の人格とて、例外ではないだろう。
「……治療が必要ね」
明らかに骨折をしている痛みだった。
だとするならば――医者に診てもらわなければなるまい。
そう、授業以外では久しぶりに――
ラーチェ・アルキゲネスと顔合わせをしよう。
私はそう思い、痛む左腕に苦心しながら着替えを済ませて、自室をあとにするのだった。
◇
医務室に入った時、私が目にしたのは椅子に座って手紙らしきものを眺めているアルキゲネスの姿だった。
彼はこちらをちらりと見ると、すぐに腕の腫れに気づいたのだろう。便箋を机の上に放り、代わりに短い杖を手に取った。
「何があった?」
「お恥ずかしながら、転んでぶつけてしまいまして」
「…………」
アルキゲネスは不審げな目つきをしていたが、詮索よりは治療のほうが先だと判断したようだ。対面の椅子を示し、「座れ」と短く私に言った。
彼と向かい合うように席に着いた私は、怪我をしている左腕を差し出した。手袋はつけずに来たので、診察には不自由もないだろう。
アルキゲネスはざっと見ただけで、骨折を判断した様子だった。
立ち上がった彼は、近くにあった小卓を私の前に移動させる。その上に腕を乗せるよう指示され、私は素直に従った。
「しばらく治癒の魔法をかけるから、腕を動かさないように。……いいな?」
「ええ、わかりました」
そう頷くと、アルキゲネスは杖の先端を患部に向けた。すぐに魔力の流れが発生し――私の腕に彼の力が侵入してくる。……相変わらず、奇妙な感覚だった。
私はふと、彼の顔のほうをうかがってみる。
最初に会った時には印象的だった無精ひげは――綺麗に剃られていた。
あの時の発言が影響したのか、それとも別の要因があったのかは知らないが、アルキゲネスは身嗜みをそれなりに気をつけるようにはなっていた。もともと顔立ちが良かったこともあり、最近は女子学生からの人気はかなり高いらしい。まあ本人は、女性に興味を示すそぶりがまったくないのだけれど。
無言なのも退屈なので、私はふいに口を開いてみた。
「ちなみに、どれくらい時間がかかりますの?」
「……骨折の規模にもよるが、十分程度は治癒しつづける必要がある」
「あら、意外と大変なのですね」
「切り傷なら治りは早いが、骨折のような激しい内部の損傷には、治療に相応の時間がかかる。……まあ、俺の能力が弱いという理由もあるが」
どこか自嘲の感じられるような口調で、アルキゲネスはそう言った。
彼の能力が弱い――それは事実であることを、私は最初から知っている。もっとも、あくまでも“相対的に”という話だったが。
おそらくアニスが治癒の魔法の才能を開花させれば、アルキゲネスの数倍は強い回復能力を発揮できるだろう。
聖なる魔力を持っている、という点では彼は天性の才能を授かっていたが、過去の同種の魔力保有者たちと比べればアルキゲネスは天才とは言いがたかった。
とはいえ――それは必ずしも悪いことではない。
才が高ければ高いほど、力が強ければ強いほど、周りの人間に注視されてしまうものだから。
「――先生は、王族の方の診察をすることもあると耳にしましたが」
「……誰から、それを聞いた」
「クラスメイトの女子が、そんなウワサ話をしていたのを聞きまして」
嘘だけど。ただ“知識”があるだけである。
「本当なら、とても立派で栄誉あることですわ」
「……断るに断れないだけだ。王宮に足を運ぶのも面倒なくらいでな」
私のあからさまな褒め言葉に対して、アルキゲネスはつまらなそうに言った。
――傷病を治す力。
それを欲するのは誰しもなものだが、とくに権力者は人一倍の関心を寄せるものだろう。
たとえば大土地を所有する諸侯、あるいは――王族といった者たち。
もしアルキゲネスが強い治癒力を持っていたら、あるいはこの学園の教師に落ち着くことなど許されず、無理やりにでも宮廷医師として召し抱えられていたかもしれない。
権力や財貨といったものに興味がない彼にとっては――ある意味で、才能が低いことは幸運なことだった。
「それより――」
アルキゲネスは話題を変えるように、言葉を発した。
「……ヴィオレ・オルゲリック。尋ねたいことがある」
「あら、なんでしょう?」
「――魔法は使えるようになったか?」
授業も担当している彼は、当然ながら学生の成績についても把握をしていた。
だから聞いたのだろう。そう――私のことを心配して。
見た目は少し強面で、ぶっきらぼうなところもある男だが、その本質はお人好しだった。
「……いえ、まったく。努力はしているのですが、残念ながら」
私は堂々とでたらめを口にする。
するとアルキゲネスは、真剣な表情で言葉を返した。
「……俺も昔は、まったく魔法が使えなくてな。ただ、ある時――ちょっとした切り傷に魔力を集中させると、明らかに治りが早いことに気づいた」
「それで、ご自身の才能に気づかれたのです?」
「ああ……自覚してからは、すぐに治癒能力が身についた。もっとも、その力もすぐに頭打ちしたがな」
彼は肩をすくめ、そして――私の顔をまっすぐ見据えた。
「……お前は試したことがあるか?」
「何がでしょう?」
「その……自分が聖なる魔力の持ち主だと、考えたことは?」
疑うような口調に、私は微笑を浮かべた。
彼自身も特殊な力を持った人間なだけに、同類の存在が気がかりなのだろう。
ただ私はアニスと違って、ただ魔力をすべて身体強化に特化させているに過ぎないのだが。
「……試しましょうか?」
「なに?」
「いま――骨が折れている部位に、自分の魔力を集中してみますわ」
私はそう言って、己の左腕に目を向けた。
さっきより腫れが少し引いてきた患部に“気”を流し込む。骨が折れているせいで普段と感覚は違うものの、肉体に魔力は浸透していった。
それと同時に――何か気持ちの悪い感覚が増す。
これは……たぶん、腕を治そうとしているアルキゲネスの魔力だろう。
体内で二つの魔力が競合し、そして阻害しあっていた。
だが、次の瞬間には――
私の“気”が彼の魔力を喰らい尽くし、跳ね除け、肉体を支配する。
もはやアルキゲネスが杖を向けていても、その魔力は弾かれるばかりだった。
――うん、結論。
気術と治癒魔法の相性は最悪。
どっちも肉体に干渉するので、お互いを同時に行使すると正常に働かないのだろう。そりゃそうだ。
アルキゲネスは異常に気づいたのか、杖をいちど下げて確認をしてくる。
「……何か変化は?」
「いいえ、残念ながら。先生の魔法が途切れた瞬間、また痛みが出てきましたわ。わたくしの魔力は治癒には向かないのでしょう」
「……そうか」
彼は何かを思案するような顔で、ふたたび私の怪我を治療しはじめた。
そして、しばらく無言の時間が流れる。
退屈なので話題を出したほうがいいだろうか――そう考えていた時、口を開いたのはアルキゲネスのほうだった。
「――大陸の東側では、俺たちと違う魔力の運用がされていると知っているか?」
ほう……。
と、彼の黒い瞳を見つめる。
ラボニと同様、アルキゲネスもさすがに教師なだけあって博識だった。通常の魔法が使えず、そして聖なる魔力の持ち主でもない。そうすると消去法で、東方の気術が思い当たったのだろう。
「あら、そうなのですか?」
「…………」
すっとぼけた私に対して、彼はわずかに眉根を寄せた。
だが、すぐに表情を戻して語りはじめる。
「俺たち貴族は、自分の魔力を外に向けて現象を引き起こす魔法を扱う。それに対して、東の地の魔術師たちは魔力を自身の肉体に巡らせて、身体能力を高める術を使っているようだ」
「わたくしたちと、ずいぶん違うのですねぇ」
「なぜ東西でまったく異なる技術が広まったのだと思う?」
それは考えたことがなかった。
すぐに答えが出ない私へ、アルキゲネスは教師らしく回答する。
「所説あるが、要因の一つとしては土地柄があるようだ。東方は山がちな地形が多く、こちらは知ってのとおり平原が多い。そして戦争が起きた場合を考えれば、どういう場所でどういう力が優位に働くかわかりやすいだろう」
なるほど。
入り組んだ地形や狭い場所では、“気”を扱える武芸者は圧倒的な力を発揮できるに違いない。
その一方で、見渡しのいい平地では遠距離から広範囲への火力が戦局に貢献するだろう。
そして山の少ない地域では、飲料に適した水もあまり取れない。そういう点でも、虚空から物質を創り出せる魔法の価値は高かった。
「単純な戦闘力では、おそらく東方の魔術師――“気”の使い手と呼ばれる者たちのほうが勝るだろう。以前に読んだ書物では、気術の使い手ひとりに対して、西の魔術師は最低三人いなければ対等に戦えないと評されていた」
え? そうなの?
たぶん私がやれば、百人くらいは相手にできそうな気がするけど……。
ま、まあ、ここは突っ込まずに話を聞こう。
「だが、戦争というものは個人同士の戦いで決するものではない。お互いに多数の兵士を従えてやるものだ。その点でいえば、魔術師の能力は非常に有用だろう。炎を撒き散らせば効率的に敵を殺傷できるし、夜間の照明としても使える。清潔な水を生み出せれば負傷した兵士の治療をしやすいし、普段の飲料水としても使える。風を吹かせれば矢や弾丸を逸らせるし、帆船では風上に向かって進める。土くれをほかの物質――鉄や銅、あるいは硝石に変成させられれば、武器や防具、そして火薬も作成も容易になるだろう」
多方面で秀でた能力を持つがゆえに、この西方世界では魔法が主流になった。
そして――この国では魔術師たちが支配者層となり、やがて封建的な統治制度を確立して、今日まで脈々と魔法の力を引き継いできたというわけである。
つまりは……われわれ貴族にとって、魔法とは権力の象徴だった。
だとするならば、魔法を棄て、異郷の術を選ぶということは――
「オルゲリック……。異能を身につけ、周りと違う存在となり、独自の道を歩むということは……いつも困難が伴うものだ」
「でしょうね」
他人と異なった魔力資質を持ち、平凡な人生を許されずに過ごしてきたアルキゲネスの言葉だ。それはけっして軽いものではなかった。
私の力を、異端視する人間は少なからずいよう。
それは同じ学生だけにとどまらず、教師や親族、あるいは王族など数多の貴族が含まれる。
そうした否定的な者たちの圧力が、この身に振ってかかるかもしれない。
――そう忠告しているのだ、アルキゲネスは。
「先生」
私はかすかに笑みを浮かべ、語り掛ける。
「他者の意に背き、己の意を貫き通すということ。……それが大変なのは、昔から知っておりますわ。この学園に来る前の故郷では、わたくしは母の意に逆らって侍女を雇うことを拒みました。高価な装飾品も、華やかなドレスも、わたくしの趣味に合わないと拒絶しました。母はいつも厳しく、強情な方でしたが――わたくしは本当に嫌いなこと、あるいはやりたいことについては、けっして意志を曲げずに過ごしてきました」
「…………」
「ですから――わたくしは、この学園でも振る舞いを変えることはないでしょう」
そう言うと、アルキゲネスは少し不思議な顔つきをした。
呆れたような、それでいてどこか羨むような、そんな表情である。
彼はゆっくりと口を開き、そして私に尋ねてきた。
「もし――」
――その意志を曲げぬことで、困難に降りかかったとしても。
お前は平気なのか? とアルキゲネスは言う。
その問いに、悩む必要すらなかった。
自分のやりたいことを、望みを、欲を、顧みることなく満たす。
それは“ヴィオレ・オルゲリック”として生を授かった時から、きっと定められていたのだろう。
ヴィオレという少女は――どうしようもなく傲慢で、わがままで、自分勝手なのだ。
だから――私は力強く、はっきりと、物怖じすることなく。
「――わたくしは一向にかまいませんわ」
アルキゲネスに対して、そう断言するのだった。




