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武闘派悪役令嬢 022b


 ――私はしかめっ面をしながら、その盤面を眺めていた。


 黒の駒と白の駒、それぞれが相手の駒を取ろうと戦いつづけた結果、いま劣勢となっているのは白側だった。

 そして――私が白の駒を動かしているプレイヤーだった。


「……チェッカーって難しいのね」

「だははっ! 初めてやったにしては上出来だぜ、姉ちゃん! ……何か、ほかにボードゲームをやってたのかい?」

「チェスは少しだけ」

「ほぉー。チェスって、ありゃ金持ちがよくやるヤツだろ? もしや……姉ちゃん、いいご身分のお嬢さんかい?」

「あら、そう見えるかしら?」

「いや、見えん」


 はあ!? なんで即答するのよ? 私に高貴さがないってこと?


「その拳のたこを見りゃ、貴族じゃないことくらいわかるぜ。それに……」

「それに?」

「顔つきが箱入り娘のそれとは大違いだぜ」

「へえ? どんなふうに見えるの?」

「うん、あれだな。何人もひとを殺してそうな、とんでもねぇ雰囲気だぜ。姉ちゃんみたいなおっかねぇ女子(おなご)は初めてだ。惚れちまいそうだよ」

「…………」


 それ褒めているのか(けな)しているのか、どっちなの?


「まっ、それはともかくよ。姉ちゃんのターンだぜ。早く次の手を――」

「あ」


 男が私を急かす言葉を投げかけた時だった。ちょうど少し離れた通りのほうから、拍手喝采の音が響いてきた。おそらく向こうの路上ステージでやっていた演劇が、エンディングを迎えたのだろう。

 つまり――タイムアップだった。


「悪いわね。ここで終わりよ」

「はぁ!? おいおい、今さら逃げ出そうって魂胆かよ!?」

「――楽しかったわよ」


 チェッカーゲームに付き合ってくれた男に、私は笑みを浮かべた。そしてポケットから銀貨を取り出し、テーブルの上に置く。6セオル銀貨だった。


「おっ……おい、いいのか? こんなのもらって?」

「それで好きな酒でも買いなさい。……ああ、それと。あなた、読み違いがあったわよ」

「なにぃ? おいおい、ゲームはずっとオレが優勢だったじゃねぇかよ」


 そうじゃなくて――


「――“それなり”に、いいご身分のお嬢様なのよ? 私はね」


 そう言い残して、私はチェッカーボードを広げたテーブルから離れ去る。

 今まで酒場のテラスの席でゲームに興じていたのは、ただの暇潰しに過ぎなかった。劇が終わって、ルフたちがふたたび動きだすのを私は待っていたのだ。


 以前に私とデートをした時と同じようなプランで、どうやらルフは動いているようだった。そんなわけだから、足取りを追うのもじつに簡単である。たぶん次は、この前の酒場で昼食を取るつもりなのだろう。

 容疑者を尾行する刑事か、あるいは浮気調査をする探偵か。そんな気分でちょっと楽しみながら、私は気取られない位置からルフたちを追っていた。


 趣味が悪い? いいのよ、私が面白ければ。

 自分がやりたいことを押し通す、身勝手に自己中心的に行動する。それがヴィオレ・オルゲリックなのだから。


「……人通りが多いから、しっかり腕に掴まって」

「ぁ……は、はい……」


 道を歩きはじめた時、ルフはそんなことを自然に口にした。アイリはためらいがちながらも、ルフに身を寄せて腕を組む。若い二人のカップルには、初々しさと華やかさがあった。

 ああー、いいわねー! 青春って感じよねー! こういうのでいいのよ、こういうので。

 私も愛しい相手と触れ(なぐり)合いたいわぁ……などと思いつつ、ルフとアイリのあとを追従する。


「……食事、ね」


 そのまま尾行を続け、例の酒場に入った二人を確認した私は――彼らのいる建物に背を向けて歩きだす。

 当たり前だが、店の中にまで付いていくつもりはなかった。そこまで見守るのは過保護というものだ。それにこの前、賭け事をしていた男にルフの用心棒を約束していたこともあるので、何かトラブルに見舞われる心配もあまりなかった。


 そんなわけで、私はどこか別の場所で空腹を満たすとしよう。

 そういえばこの辺で、氷菓子(ジェラート)を出す喫茶店があったはず。甘いものでも食べながら、優雅にお茶を飲むのも一興だろう。よーし、決まり。


 昼食場所を決めた私は、すぐに動きはじめた。場所はそう遠くないので、目当ての店までは大した時間もかからない。早足で歩けばたどり着くのもすぐだった。

 そして喫茶店に入った瞬間――

 数人の客たちが、同時に私のほうへ目を向けた。


「…………」


 なぜかって? そりゃ自分でもわかっていた。

 服装である。フードとローブで身を包んでいる格好はやはり怪しく目立つのだ。しかも流れの旅人が利用するような安い酒場ならともかく、高級感をウリにしている気取った喫茶店の中では、私の存在はなかなか目立つのだろう。


 だが私はそんな怪訝な視線にも構わず、空いているテーブル席に腰掛けた。するとすぐに、給仕(ウェイター)の青年が近寄ってくる。彼はなんとなく不安そうな顔色で、私に注文を尋ねてきた。


「いらっしゃいませ。……何をお求めでしょうか?」

「ここは氷菓子も扱っているのよね?」

「はい。当店を代表する人気の商品ですので。ご注文なさいますか?」

「お願いするわ。とりあえず十個ほど頼めるかしら?」

「じゅっ……!?」


 青年は変な声を上げて、愕然としたように私の顔を見つめた。


「その、失礼ながら……。ジェラートは一つ、10セオルで販売させていただいておりますのが……」


 10セオル――すなわち単純な肉体労働を仕事をしている市民では、一日の稼ぎでやっと届くかどうかという金額である。砂糖や乳など原材料が高いものを使用した嗜好品、かつ手作業で労力をかけて作る食品なので、こうした氷菓子はどうしても高価になりがちだった。

 市民がたまに奮発して口にする高級品。それを大量に注文するのは本来にありえないことなので、ウェイターが難色を示すような言葉を発したのも当然だった。


 ――もっとも、そんなことは私も承知済みだ。

 なので、ちゃんと本気で言っていることを教えるとしよう。


「これで紅茶も付けてちょうだい」


 ローブの内ポケットから出したのは、外出する時に数枚だけ持ち歩いている金貨の一つだった。半リブリー金貨――120セオル相当の価値がある貨幣である。金貨は日常ではめったに使われず、家畜やドレスの売買ような高額取引で主に使われるものだが、私はこれを“念のため”にいつも持ち歩いていた。


 ――金銭というものは強い。それはもう、腕力と匹敵するくらいに。

 銀を見れば人は大いに喜び、金を目にすれば人は(こうべ)を垂れる。それが人間というものだった。


「――す、すぐに手配いたしますっ」


 慄いたような表情で、青年は一礼して金貨を受け取って店の奥へ去っていく。その動揺した様子を、私はかすかに笑いながら見送った。


 ――こんな無茶な注文でも、金の力を使えば実現させられる。

 貨幣の経済が成立している都市の中では、通貨というものがあらゆる面で幅を利かせていた。金さえ払えば美酒と美食を楽しめ、あるいは他人を自分の意に従わせることすらできる。屈強な男を子分として伴わせることも、美麗な女を下女として侍らせることも可能だった。多くの者が金の力を信じ、それが何物よりも勝ると思う輩さえいる。


 だが実際のところ――そんな俗物的な物事だけで世界が成り立っているわけではなかった。

 大多数の人間が金に魅力を感じ、それに心と体を(いざな)われるのは確かだが――

 中には、けっして揺り動かされないこともある。

 金銭よりも、もっと大事な何かを優先することもあるのだ。


 たとえば、そう――

 家族や、友達や、あるいは恋人など。


 レオドの兄のように、肉親を排除してでも権益を手中に収めようと望む欲深き者もいるが。

 きっと善良なる多くの人々は、大切なひとを金や銀よりも愛して守ることだろう。


 もし、財産を失ってでも。

 豊かな生活を失くしてでも。

 その人を何事よりも優先するならば。


 ――愛を貫き通すのならば。


 ああ、それは美しく。気高く。眩しく。

 ありふれた凡百の力にも勝る、素晴らしい強さとなるだろう。


 そういう強い力が――私は好きなのよ。






「――おいしかったわ」


 紅茶のカップをソーサーに置き、私はゆっくりと息をついた。

 テーブルには空になった陶器の皿が重ね積まれている。それはもちろん注文した氷菓子の皿で、当然ながらすべて残さず食べきっていた。


 味はというと――かなり美味なデザートと言えるだろう。

 “前”の世界で子供だったころ、私も氷と塩を使って手作りアイスを作ったことがあるが、味は市販のアイスと変わらなかったことが記憶に残っていた。まあ結局、原材料が一緒で工程も変わらなければ出来上がりも同じなわけで。今回、口にしたジェラートも懐かしい自作アイスと同等のおいしさだった。


 これなら、また足を運んで食べにくるのもいいなぁ。

 ……なんて思っていたところで、私は店内の振り子時計に目を留めた。入店してから二十分以上は経過している。意外とゆっくりしすぎてしまったようだ。

 まだルフとアイリは酒場内にいるだろうが――早めに行動しておくに越したことはない。


「――お帰りですか、お客様?」


 立ち上がった私のもとへ、最初に応対したウェイターが近寄ってきた。その言葉は平静だったが、表情はわずかに強張っているように見える。ちらりと皿の山を見ていたところからすると、「うわっ、本当に10皿食ったのかよコイツ」とでも思っているのかもしれない。


「――ええ、そろそろ失礼するわ」

「……あの、お釣りは本当によろしかったのですか?」

「いいのよ。心付けとして取っておきなさい」


 差額分は店とウェイターが半々で貰っておけと、すでに伝えてあった。これだけ気前のいい客というのも珍しいものなのだろう。周辺の席に座っていた市民たちも、驚きと訝しみの目でやり取りを眺めていたのが印象的だった。


 ――なぜ私は気前よく振る舞っているのか。

 ……というと、たんに金がバカみたいに余っているからなだけである。私の家は国内最上位の収入を持っているため、仕送り金額も学生の中では確実にトップクラスだった。普通は長子ほど金をかけ、末子には大して金を寄越さないものだが、私はオルゲリック家の三女ながら使いきれないほどの仕送り金を送られていた。

 ……あの父親、ちょっと親バカすぎるのではなかろうか。まあ私がアクセサリーだのドレスだのを買わず、高級な劇場にも足を運ばないのが金余りする原因の一つではあるのだけど。


 そんなことを、なんとなく考えながら喫茶店を出て――

 私は例の酒場へと戻るために、ふたたび街中を歩きはじめた。


「――――」


 その直後に。

 そう遠くない場所から、女性の悲鳴とどよめきが響きわたった。

 そして慌てたように駆ける足音と、「誰かっ」と叫ぶ声。


 眉をひそめながら、私は何か事件があったらしき方向へと近寄る。そこで目にしたのは、まだ十代だと思われる茶髪の女の子の姿だった。彼女は通りの石畳に膝をついたまま、呆けたように固まっている。

 私はさらに前に進み、この大通りと繋がっている狭い脇道のほうに目を向けた。その視線の奥には、フードを抑えながら走る人物が映っている。ちょうど路地を通り抜けて、向こう側の大通りにたどり着くところだった。


 私は少女のほうへ振り向くと、手短に尋ねた。


「――物取り?」

「……は……はい……。あ、あたし、どうしたら……」


 泣きそうな目でこちらを見上げる少女に、私は手を差し出した。彼女はおずおずと、その手を取る。力を貸して立たせてやりながら、私はふたたび少女に質問した。


「盗られた物の外見は?」

「藍色の巾着(ポシェット)、です。中には大切なお金が――」

「そこで待っていなさい」


 必要な情報を把握した私は、それだけ言うとすぐに駆けだした。すでに盗人が通った路地を、同じようにして走る。もっとも――その速度は二倍や三倍どころの話ではなかったが。

 さっき目視したかぎりでは、犯人は右折して大通りに紛れ込んだようだ。全力疾走を続けていたら逆に目立つので、おそらくそこで徒歩に変えているはずだった。通行人と混じって歩きながら、適当なところでまた路地に潜れば、あとはもう追っ手が来ても見つけられはしない――そう考えていることだろう。


「――さて」


 一瞬で路地を駆け抜け、大通りに出て右折し、早足で前に進む。耳を澄ませれば、必要な情報は簡単に手に入れられた。道行く人間の服装などを、いちいちチェックする必要もない。


 ――私にしか見えない、私にしか聞こえない、その情報をたどればいい。


 迷いなく足を進めた私は、しばらくしてある男を捉えた。背嚢(リュックサック)を背負った彼のもとへ、まっすぐ近づく。男がふいに、大通りから路地のほうへ消えようとしたところで――私はその肩に手を乗せた。

 びく、と緊張した様子で振り返った男に、私は笑みを浮かべる。相手の目は、どこか恐怖の色があるように見えた。


「……なんだい、用か?」

「失礼。その背中の袋の中身を知りたいのだけれど」

「はぁ? アンタに見せる必要がどこにあるんだ」

「外套と藍色のポシェットが入っているでしょ?」


 その瞬間、彼の心臓が一気に跳ね上がった。外見は偽装できても、肉体の内部をごまかすのは難しい。すでに目の前の男が犯人であることは疑いようがなかった。

 ――背嚢の上からフード付きの外套を着込み、追っ手の目を撒いたところで脱ぎ外し、袋の中に盗品と一緒にしまったのだろう。

 男が路地を走っていた時に、一瞬ながら背中がわずかに膨らんでいるのは視認できていた。そして全力で走ったがゆえに、心臓の鼓動が激しくなっている音も聴き分けられていた。――私の視力と聴力から、逃れられるはずもなかった。


「戻って彼女に返しなさい」

「…………」


 私があまりにもピンポイントで彼を捕まえたからか、もはや言い逃れは厳しいと悟ったのだろうか。男は無言になると、鋭い眼で私を睨んだ。そこには敵意が満ちあふれているように感じる。

 その気概は心地よいが――ああ、残念ながら。

 あなたでは、あまりにも不足しているわ。


 力がなく、強さがなく――楽しめるような存在ではない。


「――――っ!」


 男がいきなり右手を握り、私の顔を狙って殴りかかってきた。

 その動作は平凡な人間だったら、反応できずに喰らっていたかもしれない。

 でも――殴り合いに慣れた人間だったら、簡単に躱せるような攻撃だ。

 私でなくとも、きっとアルスだったらスウェーバックで対応できるに違いない。


 そんな、さして脅威でない打撃に対して――

 私は何もせずに、黙って立っていた。


「…………()ッ!?」


 拳が私の頬を叩いた瞬間、男は悲鳴を上げた。殴られたほうではなく、殴ったほうが。痛みと恐れを入り混ぜた声を漏らし、呆然とした表情を浮かべたのだ。


 防ぎ、逸らし、()なし、躱すということ。

 それらは脅威に対する反応であり、今この場の私にとっては不必要なものだった。

 それほどまでに、圧倒的な力の差があるのだ。

 怯えたように後ずさる男に対して――私は退屈さを抱きながら肉薄した。


「……っ!?」


 男が目を見張った時――すでに私は両腕を伸ばし、彼の頭部を手のひらで挟んでいた。まるでボールを保持するかのように。相手は反射的に引き剥がそう私の腕を掴むが、一寸も動かすことは叶わない。

 ――頭部を万力に締め付けられているような感覚。おそらく男はそう感じていることだろう。もし私が本気で力を入れれば、彼の頭蓋骨は砕け、中身も悲惨なことになるに違いない。


 だが、これは生死をかけた闘いではない。

 ただ、逃げる盗人を大人しくさせるだけ。

 そんなつまらないやり取りに、あくびを噛み殺しながら――


 ――私は男の頭を、前後に素早く揺さぶった。


 たった、それだけのこと。

 次の瞬間には、男はぐったりとした様子で脱力しはじめた。

 その身に起こったのは、ごくごく単純な症状――脳震盪である。脳へのダメージは肉体的な外傷と比べて、より効率的に敵を無力化させることが可能だった。


「……うっ……く……」


 男はそのまま地面にくずおれ、うめき声を漏らした。意識はあるが、体の自由は利かないのだろう。私はすぐに彼の背負っている袋の中に手を伸ばし、目的のポシェットを探り当てた。

 ――これで用は済んだ。


「じゃあね」


 朦朧状態で倒れている男に別れの言葉だけ告げると、私は踵を返して歩きだした。幸いながら周囲には衛兵もいなかったので、いろいろと面倒なこともないだろう。

 このまま犯人を運んで、衛兵を呼んで、被害者と一緒に事情を説明して、なんやかんやすれば法に則って罪人が裁かれるのかもしれないが――ぶっちゃけ関わるには時間がかかりすぎであった。そこまで付き合うのは遠慮したい。

 そんなことを思いながら歩く私に対して、一部始終の覗いていた通行人たちは怪訝そうな目線を送ってきていた。そのうちの一人が、向かい側から声をかけてくる。


「おい、姉ちゃん……あんた強盗か?」

「違うわよ。あっちが盗っ人で、私は取りかえしただけ。勘違いしないで」


 ほら、こういう誤解があるから面倒くさい。

 通行人から向けられた疑いに釈明しつつ、私はさっさとその場を離れることにした。足早にもと来た道を戻って、盗みの被害者のもとへ。

 そして私がポシェットを携えながら、例の少女のところまで戻ると――彼女は愕然としたような表情を浮かべて出迎えた。


「も……もう取り返してくださったんですかっ!?」

「――これで間違いないのよね?」

「はい……! ありがとうございます!」


 少女は笑顔で礼を言うと、すぐにほっと安堵の表情に変えた。感情表現が豊かな子のようだ。

 取り戻したポシェットを受け取った彼女は、しみじみとした様子で言葉を口にした。


「ああ、本当に……このまま失くしていたら、どうしようかと思いました。自分のお金でもありませんでしたので……」

「お使いだったの?」

「はい。家政婦(ハウスキーパー)の方から、必要な薬を買ってくるように頼まれまして。このままお金を盗られていたら、怒られるどころかお給金まで差し引かれるところでした……」


 家政婦。つまり貴族の屋敷などで、下級の女性使用人を管理し監督する立場の人間である。ということは、この子はどこかのお屋敷で働いているメイドなのだろう。

 掃除機や洗濯機のような効率的な機械がないこの世界では、当たり前だがさまざまな雑用をこなすメイドは必要不可欠な存在だった。私の故郷の屋敷では十人を超えるメイドをつねに働かせているし、私の兄が暮らしている王都内の小さめな屋敷でも数人のメイドを雇っていたはずである。そうした雑用的なメイドの仕事は、農村部から出稼ぎに来た若い女の子が労働力の中心であった。


「ふぅん……。ご主人は、どちらの貴族の方なのかしら?」


 私はなんとなく尋ねてみた。

 王都内には貴族の屋敷が多数あるが、領主が住み込んでいる場合もあれば、ただの別邸扱いの場合もあった。直営地を持たず、地代や租税だけ徴収して暮らしているような小領主は、前者のように完全に王都内で生活していることも多い。その一方で、伯爵以上の大領主は自分の領地に大きな屋敷を建てて生活するのが基本だった。わがオルゲリック家のような辺境領主は、外敵の脅威もあるため、なおさら領地を離れるわけにもいくまい。


 私の兄が住んでいる王都内の屋敷も、もともとオルゲリック家が代々所有している別邸に過ぎなかった。王族の誕生日だとか、貴族の会合だとか、そういう大事な催しに参加しなければならない時に、王都内に泊まる場所としてその屋敷を持っているのだ。ただ人が住みつづけないと家というものはすぐ荒廃するため、父は息子をそこに住まわせて屋敷を維持させているという経緯があった。


「じつは……とても有名な家柄の方がご主人様でして」

「へぇー」

「――オルゲリック侯爵様が所有するお屋敷で働いているんです」


 ぶっ!?


「……ど、どうかされましたか?」

「ななな、な、なんでもないわ……! 大貴族の名前に驚いただけよ……!」

「そ、そうですか……?」


 ま、まさかこんなところでわが()の使用人と関わることになるとは。

 たしかに彼女の顔をよく見れば、なんとなく会ったことがあるように思える。学園に入学する前に二日間だけ屋敷に滞在したのだが、その時にたぶん挨拶や多少の会話もしていたはずだった。ここ最近の生活が濃密すぎて、すっかり忘却していたけど……。


 そしておそらく相手のほうは、まだ私がヴィオレだとは気づいてはいなかった。そもそも服装が違うし、髪も後頭部のほうで縛ってまとめているし、行動がとても貴族の令嬢ではないので、過去に少し会っただけでは同一人物と判断できるはずもないのだろう。


「あの……よろしければ、お名前を……」

「な、名乗るほどの者ではないから……! じゃ、じゃあ失礼ッ!」


 無理やり話を終わらせて、私はあわてて彼女の横を通り過ぎた。私の逃げるような動きに、少女は面食らったような様子ながらも、「あっ……ありがとうございました!」と感謝の言葉を投げかけてくる。私は振り向かず、右手だけ軽く振って応答し、そして急ぎ足で彼女のもとから立ち去った。

 そして十分に離れたところで――私は一つため息をついた。


「あー……びっくりした……」


 偶然にもほどがある。相手がこちらに気づいていないのは、まだ幸いだったけれども。

 それにしても、あの娘の名前はなんだったっけか。別邸の雑用メイド、しかも数か月前にひと言ふた言を交わした程度の相手なので、もはや記憶は彼方だった。ううむ。


 しかし次に王都の屋敷で顔を見合わせたら、たぶん気づかれる可能性もあるかもしれない。侯爵(お父さま)に代わって屋敷に住んでいる次兄のもとには、最低でも半年ごとに顔を出すという約束をしていたのだ。だから否が応でも、そこで働く使用人とは顔を合わせることになるだろう。


「……まっ、いっか」


 思考を放棄して、私は心配事を忘れ去った。まあ誰かに何かを見られても、今更なことである。私がどれだけ貴族らしからぬことをして、好き勝手に生き方をしていようと――




 ――それを止められる者は、誰も存在しない。


 そう、咎め抑え縛ることができる人間は――どこにもいなかった。

 物理的な強制は通用するはずがなく。

 たとえ肉親から命令されようとも、私の意に沿わないことには従うつもりはない。


 私は自由に振る舞うことができる。なぜなら――力があるからだ。

 もし家を追い出されようと、野に放たれようと、生きるくらいは容易(たやす)かった。この武力があれば旅商人の用心棒として食っていくこともできよう。あるいは、争いごとのある地域で傭兵にでもなれば十分な給与を得られよう。もし慎ましやかに生きるのなら、アルスのように狩りをして生計を立ててもいいだろう。

 選択肢はいくらでもあり、それを選び取り、貫き通す力が私には存在していた。


 だから――貴族の道から外れた行動を、私は堂々とできるのだ。

 何もしなくとも裕福な暮らしができる身分。それを失うことを恐れてはいない。

 幻想など抱かず、どんな未来になろうと、この腕力(ちから)で切り拓けると確信している。


 気ままに、我が儘に、自由に、好き勝手に、生き振る舞える能力。

 ――それが強さだ。


 そして、その力が……あなたにどの程度あるかしら?




「――さあ、ルフ・ファージェル。貴族の道理に背いている者同士、力比べをしましょう?」


 私は拳に力を籠め、口元を歪めて呟いた。



《氷菓子》


 氷点下に冷やすことによって作られる、アイスクリームやシャーベットなどのこと。氷菓子の歴史は古く、紀元前から天然の氷や雪を用いて作られていたようである。むろん貴重で高価な食べ物だったことは言うまでもない。

 雪氷と寒剤(食塩や硝石など)を混ぜることにより低温を得る方法は、じつはかなり古くから広く知れ渡っていた。13世紀にはアラブのイブン・アビー・ウサイビアが、氷と硝石による冷却法について文献に書き残しているように、氷に関する技術は中東でも栄えていたようである。

 ヨーロッパでは、万年雪の取れる山々に近いイタリアが早くから氷の利用が盛んであったが、ルネッサンス期になるとほかの諸国でも親しまれるようになり、とくにワインを冷やして飲むのが好まれたようである。

 このように雪氷の利用が進むなか、シャーベットから始まりアイスクリームなどが作られるようになる。1686年にはフランスのパリで、フランチェスコ・プロコピオがCafé Procopeを開店し、シャーベットなどを販売して大いに成功を収めた。この時代には、雪氷を氷室や氷井戸で保存して利用することは一般的になっており、貴族以外の民衆にとっても冷やした飲み物や菓子は馴染みのあるものとなっていたようだ。

 こうして氷の利用は広まっていたが、人工的に氷を作り出すことが一般化したのは、19世紀の半ばに実用的な製氷機が発明されてからである。それまでは天然の氷や雪を使うほかなく、雪氷の売買は大規模な産業となっていた。


(余談:魔法で氷などを産出できるファンタジー世界ならば、氷菓子は古くから普遍的に親しまれる嗜好品となるであろう。食品の保存などにも氷は使えるので、非常に便利である)




《金貨》


 近世までは銀貨とともに、金貨も通貨の一つとして世界的に使われてきた。ただし金は銀よりも希少で高価なため、そのコインの金額は非常に大きくなりがちであり、日常の取引には不向きであった。時代によって金と銀の価値は変動しているが、近世までの金銀比価は1:12から1:15程度であった。

 現実のイギリスで発行された半ソブリン金貨(約4g、直径19.3mm)は、10シリング(=120ペンス)相当の価値があった。

 なお本作の金貨名称「リブリー」は、リーブラ(libra)をもじったものである。リーブラは古代ローマ発祥の質量・通貨の単位であるが、リーヴル(livre)、リラ(lira)、ポンド(単位記号「lb」)など、ヨーロッパ各国の通貨や単位の名称の語源ともなっている。


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