武闘派悪役令嬢 019c
空に目を遣れば、陽はかなり下がっていた。あと一時間くらいしたら、おそらく夕焼けが拝めるだろう。
まだ日没前だったが、私たちは市内の店巡りを終えて、学園の門まで戻ってきていた。
そのまま中に入って帰宅――といきたいところだが、守衛小屋の窓口で入出のチェックを済ませないといけない。普段は人目のない壁を飛び越えてスルーしているが、今日にかぎっては正規の手続きが必要だった。……ぶっちゃけ面倒くさい。
「――今日はありがとう」
正門から少し歩いたところで、ルフはこちらを振り返って礼を述べた。
それと同時に――申し訳なさそうに謝罪を口にする。
「それと……悪かったね。退屈なことに付き合わせてしまって」
「いいえ、楽しかったですわ」
嘘ではなかった。私だって人間なのだから、いつもと違った行動を取って気晴らしすることも必要である。年頃の青年と一緒に、街でデートをすること――それは悪くない経験だった。
だから、そう答えたのだが。
――ルフ・ファージェルは、真剣な顔つきで反論した。
「楽しくなさそうだったよ、きみは」
「……なんですって?」
「本当につまらなそうだった。飽き飽きしたような、物足りなさを感じているような――そんな顔をずっとしていた」
「まさか! 顔立ちのよい殿方とデートをして、喜ばない女性はおりませんわ」
「……喜んでいれば、面白ければ、自然と笑顔になるものさ」
私は自分の口元に手を当てたが、そこにあるのは歪んでいない唇だけであった。
――なるほど。言われてみれば、たしかに。指摘されると、納得せざるをえなかった。
理屈では悪くないと言い張っても、本心はごまかしきれないようだ。
――認めよう。私は異性と甘い時間を過ごすことになど、欠片も興味を持っていなかった。
ただ求めているものは――定型な日常、常識的な存在からかけ離れた、奇異と異端ばかりだった。
スリルが足りない。
刺激が少なすぎる。
危険が必要なのだ。
安定した人生の過ごし方など、ただただ退屈なだけだった。波乱を潜りぬけてこそ、彩られた世界を味わえるのだ。貴族の一員として呑気に暮らし、近しい身分の相手と結婚し、権威に保証された領地で規定された仕事をこなし、安寧を得る――そんな生き方をして、何が面白いのか?
あなたはそう思わないかしら?
ルフ・ファージェル。
「……いずれ、今日のお礼をするよ。それでは」
そう言って、去っていくルフの後ろ姿を眺めつつ――私は目を細める。
彼が向かう先は、男子寮とは違うようだった。そして方角からすると食堂棟でもなかった。今日は週末の休日なので、教室などのある中央棟に用があるとも考えにくい。そうすると――なんとなく思い当たる行き先が一つあった。
私はルフの背中を見据えて、足を前へ踏み出した。
「さて――」
面白そうな予感が、そこにあった。
◇
――ところで当たり前の話だが、この学園の中には使用人のための宿舎も存在する。
それも二棟である。まあ学生と教師の数を考えれば、それだけのメイドやコックが必要になるのは当然だった。貴族の恵まれた生活は、その下で働く多数の使用人がいなければ成り立たないわけだ。
学園に戻ってから、少し時間の経った頃合い。
あまり訪れる機会のない場所へと、歩みを進めていった私は――
「……あなた、ここで何してるの?」
「…………?」
質問の意味がわからない、といったふうに、眼鏡をかけた少女は私の顔をじっと見上げていた。
――使用人宿舎からほど近い、大樹の木陰になっている草地。そこに麻布のシートを広げて、ミセリア・ブレウィスは体育座りで読書をしていた。
「本を読んでいる」
「見ればわかるわよ。でも読書するなら自室でいいでしょ」
「隣がうるさい」
「…………」
私は女子寮のことを思い出して、どこか遠い目をした。
たしかに、仲のいい女子グループが寮室に集って黄色い声を上げることはたまにある。そういう時は寮監に訴えればいいはずだが、ミセリアの場合は誰かを頼って対応してもらうという思考回路がなかったのだろう。難儀な娘である。
ふと私は、彼女の座っている場所から少し離れたところに目がいく。
黒い塊がそこにあった。それは体を丸めて、微動だにせずうずくまっている。――ネズミ駆除のために学園内で放し飼いにされている、猫の一匹だった。
……まさか?
「その黒猫、殺してないでしょうね?」
「…………?」
「いや、死んでいるのかもと思って」
「寝ているだけ」
どうやらそのようで、猫はぴくりと耳をわずかに動かした。
いや、うん。疑ってごめんなさいね?
「――弱いものは、殺す必要がない」
黒猫を眺めていた私に対して、ミセリアはそう淡々と言った。
「……なぜ?」
「殺さなくても、生きられるから」
――その回答を聞いた瞬間、私はおもわず笑みを浮かべてしまった。
そうだ。それは正しい。小難しい道徳を持ち出すより、よっぽど単純で筋が通っていた。
糧を得るために、寿命を延ばすために、死から逃れるために――生きるために殺す。
たとえばアルスは生計のために動物を射殺している。だが、誰がそれを咎められようか? 彼は生きるために殺しているのだ。
そして――それを裏返せば、私にも当てはまっていた。
――殺さなくても、生きられる。
そう……生命を脅かされることのない存在など、わざわざ命を奪うまでもない。それをミセリアも、自分自身の経験から理解しているのだろう。
私の力に比べれば――彼女など赤子に等しい存在だった。いつでも屠り、この世界から消し去ることができる。それでも、私は彼女を殺していなかった。――殺す必要などない、弱者だから。
「……そういえば。この前あなたが言っていた友達って――もしかしてそれ?」
ミセリアはこくりと頷いた。友達、イコール、いつも一緒にいる存在という謎の等式を適用した結果、どうやら猫は彼女の友達になったらしい。安直すぎではなかろうか、この小娘。
なんとなく彼女の将来を心配していると、小さく気だるげな鳴き声が響いてきた。黒猫が目を覚ましたようだ。
「あら、おはよう」
そう猫に挨拶をすると、その子はこちらの顔を見上げ――
飛び跳ねて、脱兎のごとく逃げ出していった。
「…………」
なんで?
「生存本能」
「……あっそ」
呟いたミセリアにぞんざいな言葉を返し、私は彼女に背を向けた。
帰路につくため――ではない。
私の視線の先には、使用人の宿舎がそびえ立っていた。屋根裏部屋を含めれば五階建ての建築物のため、けっこうな高さがある。一足で届くのは、せいぜい三階か四階までだろうか。
「……なるほど」
「…………?」
「話し声のことよ。遠くで男女が会話している」
「聞こえない」
そうだろう。ミセリアには、私の声と風によってさざめく木の葉の音くらいしか耳で捉えられまい。
だが、私は違った。雑音の少ないこの周囲なら、かなりの範囲まで聴覚で感じ取ることができる。けっして本人たちが気づかない位置から、話の内容をうかがうことができた。
「……少し、顔を見てこようかしらね」
私はそう呟くと――体に馴染ませるように“気”を送り込んだ。
肉が温まり、力の湧く感覚がする。通常では為しえない運動を可能にする、神秘のエネルギーが五体に満ちていた。
そして――最初はゆっくりと、そしてすぐにスピードを上げて、前方の建物に向かって走り出した。
「…………ッ」
使用人宿舎の壁から少し距離のある、余裕を持った位置に到達した時――私は体を低く屈めた。
そして体勢が沈んだ直後、力を爆発させる。エネルギーの籠った脚は、地面を破壊するかのように蹴りつけた。真下に与えたその強い力は――反動となって、私の体にもたらされる。
それは跳躍だった。
ただ、一瞬だけ宙に浮くのとは異なる。
上へ、まるで鳥が飛び立つかのように――私は空中へ飛んだのだ。
だが――私に翼はない。あるのは腕と指だけである。そのまま五階建ての高さまで到達するのは不可能だった。
だから……複数回に分けて、跳べばいい。
「――――」
右手を伸ばし、指の先を“そこ”に引っ掛ける。
わずかに確認した下方の視界には――窓が二つあった。そう、つまり……いま私が掴んだのは三つ目、すなわち三階の窓の枠だった。
指の第一関節ほどしかない窓枠の出っ張り――それは常人であれば両手で体を支えるだけでも苦しいだろう。
だが――私にとっては十分だった。
「……っ」
右手に力を入れる。わが身を引き寄せる感覚。たった片手の指先ひとつで――自分の肉体すべてを宙へ放り投げる。
翼がなくとも、足場がなくとも、ただ少しでも支えがあれば――空へ跳ぶことなど簡単だった。
右手の運動で上空に跳躍した私は――さらに左腕を伸ばした。
掴んだのは、もう一つ上層階の窓枠。四階の窓だった。それを先ほどと同じように支点にして、腕の力で飛び跳ねる。
窓のない屋根裏部屋は通り過ぎ、最後に私が手をかけたのは――宿舎の屋根の端だった。
「……一回で、いけると思ったんだけど」
最初に地面から四階の高さまで跳べていたら、窓枠を掴むのは一度だけで済んでいただろう。その辺の身体能力の向上は、今後の課題にするとしよう。
私はそんなことを思いながら、「よっ」と屋根の上に登った。屋根葺きは凹凸の少ない平板瓦なので、歩きやすいのが幸いである。いちおう瓦を破損させないように注意して歩きつつ――私は声のする方向へと歩いていった。
「……日中は大丈夫でしたか?」
「ああ、とくに何もトラブルはなかった。……ああ見えて、優しい人物だったよ」
「……人のうわさというのも、当てになりませんからね」
「あはは、そうだね……」
聞き知った声を耳にしつつ、私は屋根際で足をとめた。少し上半身を前にやれば、地上の様子をはっきりと確認することができる。使用人宿舎の裏手、人目から逃れるようにひっそりと逢瀬をしているのは――
「……そうそう、彼女といろいろ店を回ったんだ。これは手芸店で買ってきたものなんだけど……」
「……リボンですか? わたしには、こんな可愛らしいものはとても――」
「リボンやレースで飾るのは、最近の女性の流行りだろう? ……きみも、きっと似合うはずだよ。帽子でも、服でも、バッグでも……好きなように使ってほしい」
「ですけど……これは、シルクのリボンですよね……? 私がこんな、貴族のお嬢様みたいなものを身につけるのは……」
「貴族だろうと、平民だろうと、関係はないさ。ただ愛する人が綺麗で美しくいてほしい。ボクはそう思っているんだ」
「…………」
俯いた彼女は、しかし頬をほのかに赤らめていた。なるほど、満更でもなさそうな態度である。
なんとなく察してはいたので、それほど驚きがあるかといえばそうでもなかった。ただ、初めの彼の印象を踏まえると、そのギャップがひどく面白く思える。
「木を隠すなら、森の中――か」
二人には聞こえぬ声で、私はそんな言葉を口にする。
格式の高い貴族の家の長男が、学園のただの使用人に恋をする。もし本気で付き合っていることが知れたら、ほとんどの人間から侮蔑されることだろう。実家に伝わりでもしたら、どうなるかもわからない。
もっとも――女遊びの激しい男を演じていれば、メイドが本命などとは思いもしなかろうが。
貴族のルフ・ファージェルと、学園の使用人のアイリ。
恋する男女を、その頭上から眺めながら――
「愛というのは……イイわねぇ……?」
私は口の端を吊り上げ、その日いちばんの愉快げな笑みを浮かべた。
今回のaとbで後書きに書いた脚注は、ハーメルンのほうでは脚注機能を利用していたりします。
https://syosetu.org/novel/178297/19.html
ハーメルンでは脚注タグを使うと、上記リンクの該当部分のようにマウスクリックやタップで脚注を表示できたりします。
なかなか面白いので、小説家になろうにも同じような機能が欲しいですね。




