武闘派悪役令嬢 013 サイドストーリー001b
一週間後。
事前に約束したとおりの時間に、リットは同じ場所へとやってきていた。
大通りではないそこは、ひと気がなく都合がいいのだろう。――正体を隠すような格好をしている彼女にとっては。
学園の外壁に背を預け、腕組みをしていた人影は――こちらに気づくと、顔を向けて笑みを浮かべた。その雰囲気は、相変わらず謎に満ちている。彼女がいったい何者なのか、気になって仕方がなかった。
教師? それとも、学生?
貴族や魔法について詳しくないうえに、まだ子供であるリットには、女性の身元など見当もつかなかった。ただわかることがあるとすれば――それは、彼女がリットを強くしてくれるということだけだろう。
「――ちゃんと、来たのね」
「は、はい」
「返事の仕方は覚えている?」
「あ……お、おすっ」
よし、と頷いた彼女は――壁から背を離し、こちらに近づいてきた。
緊張が湧き上がる。何か害を加えてくるわけではないとわかっていても――女性にはぬぐい去れぬ威圧感が備わっていた。フードにローブという、怪しい服装だけによるものではない。彼女自身が肉体に内包している、自分たちとは別次元の“力”を本能的に感じ取っていたのだ。
魔術師には魔力という、不可視の力が流れているらしい。だとするならば、常人のようには見えない彼女もそれを持っているのだろうか。けれども――祝賀パレードで目にしたことがある、杖を携えた物々しい騎士などと比べても、彼女の存在感は果てしないほど強く大きかった。
「――腕、伝えたように動かした?」
女性は右手を軽く握り、それを前に突き出した。腕を縮めて、伸ばす――それの繰り返しが、彼女から指示された行為だった。
子供でも簡単にできる、単純で難しくないことだ。
だが――その反復は、若干の筋肉痛をもたらしていた。
普段の生活ではやらないような動作だからだ。荷物を持ち上げたり、あるいは運んだりするように、腕や腰に力を入れることはあったとしても――前方に手を伸ばしきるようなことは、自然に発生するような動きではなかった。
肩と腕が、少し痛かった。それを正直に伝えると、女性は「上出来よ」と笑って褒めた。
「拳を握って、腕を伸ばして、それを相手の体へ届ける――これが人を“殴る”という行為よ。でも……日常の動きではない。普通に生活しているひとにとっては“慣れていない行為”というわけ」
「な……殴る……」
ごくり、とリットは唾を呑みこんだ。パンチの訓練の基礎なのだろう、ということは予想できていたが、実際に言われると想像してしまう。――自分が人を殴るということを。
もし、今。イフェルを相手に、殴りかかったとしたら。
……だめだ、勝てるイメージがぜんぜん湧かない。
弱気な表情になっているリットに、女性は肩をすくめながら言う。
「そして、あなたをいじめる子たちも……人を殴ることには慣れていないでしょう?」
「うん……ぁ、いや……おす……。突き飛ばしたり、腕を掴んだりはするけど……殴ったりはしないです」
「――だったら、あなたは殴る技術を持てばいい」
彼女は堂々と言い放った。真剣な目つきで、何も気後れすることなく、そう言いきった。
「相手が慣れていない、殴るという行為。あなたがそれを会得してしまえば、大きな優位性となる。――あなたは勝てる」
「で、でも……そんな、簡単に……」
「簡単よ」
女性は手を伸ばすと、こちらの右手首を掴んできた。びくりとしてしまったが、黙って身を委ねることにする。
そのまま彼女はリットの手を引き寄せると――ゆっくりと、手のひらを広げさせた。
「――まず、親指以外の四指を折り曲げる」
彼女の指が、リットの右手を操作する。為すがまま、動かされる。小指から順に、薬指、中指、人差し指と曲げてゆく。
――並んだ四つの、第一関節から第二関節の面。その人差し指と中指の上に曲げた親指が乗せられる。
「――小指と親指で、握りを締めるように」
わずかに微調整されながら、右手が拳をかたどってゆく。これが殴る時の、手の握り方なのだろうか。――初めて知るものだった。
「手首は曲げず、腕と手の甲までが水平に。そして手の甲と、曲げた指が直角になるように」
――完成よ。
そう言って、女性は手を離す。できあがった手は、今までに握ったことのない形だった。これが――正しい拳の在り方。
「強く握る必要はないわ。その形を何度も作って、手に馴染ませなさい。そうすれば――自然と身に付く」
「…………」
リットはその拳を保ったまま、無言で腕を引いた。
そして――前のほうへ突き出す。
これで人を――殴れる? いや……とても、そんな自信はなかった。ぜんぜん強そうに見えない。
――何かが足りない。格闘の知識がないリットでも、これだけでは不足しているとはっきりわかった。
「――見ていなさい」
女性は笑うと、一歩、身を引いた。
その動作から、次の行動が予測できた。――実演するのだろう。パンチを繰り出すのだ。
――その手が、腰のあたりに溜められた。甲を下にして。
そして――腕が動いた。シュッ……と、風を切るような音。気づいた時には――目の前に、女性の右拳が突き出されていた。
速い。
さながら、疾風のごとく。
そして――おそらく、これは手を抜いた行為だった。リットが見えやすくするための。
もし本気でやっていたら――
先週、“風”に顔を打たれて転ばされた時と同じ結果になっていたのだろう。
「――気づいたことは?」
女性はすかさず尋ねてきた。リットはあわてて彼女の手の形を観察する。その拳は、手の甲が上に――
「……あっ、手の向きが……逆に?」
「正解よ」
彼女はふたたび笑うと、もういちど腕を引いた。手の甲は下向きに。そして……ゆっくりと、捻りながら前へ突き出す。伸ばしきった時には――拳は180度の回転をしていた。
拳を回転させながら打つ――そんな方法など初めて知った。ただ手を握って、相手に打ち付けるだけではないのだ。未知の“技術”が、そこには存在していた。
「正しい拳の形で、正しく拳を打ち出す。――それを反復しなさい」
――それは、リットに対する次の宿題だった。
時間にすれば、待ち合わせから三十分ほど。
女性から手の形、腕の動作を指導してもらったあと、リットは街中へ消えてゆく彼女を見送った。どうやら鍛冶屋に所用があるらしい。いろいろ忙しそうな中でも、リットに付き合ってくれたことを考えると――彼女の隠しきれない人の好さがうかがえた。
女性が消え去った方角を眺めながら――リットは教えてもらったとおり、拳を放ってみた。
ぶん、と不格好な突きになってしまったが……何も知らなかった時と比べれば、少しは威力のありそうな打撃だった。
向上している。少なくとも、以前よりは。
それは、つまり。強くなっている、という意味にも捉えられた。
――力が、ついているのだろうか。
「正拳突き、かぁ……」
教えてもらった技の名前を呟く。
――ちょっとだけ、勇気が湧いた気がした。
◇
――あれ以来、学校に金属ペンを持っていってはいない。
また盗られるのが怖い、というのが正直な思いだった。今のリットでは、イフェルたちに逆らえる力はなかった。――今は、まだ。
イフェルと顔を合わせた時、リットはいつも頭の中でイメージを駆け巡らせていた。
もし自分が、正拳突きを放ったらどうなるか。
体格で負けている自分が、“技術”をもってしてイフェルを攻撃して、はたして打ち倒すことができるのか。
誰も見ていない時に、こっそり正拳突きを練習しているリットだったが――イメージの結果は芳しくないものばかりだった。
――おそらく、倒せない。
きっと殴られたイフェルは、逆上してリットをボコボコにしてしまうだろう。そんなリアリティのあるイメージばかりが思い浮かんだ。
何かが足りない。
勝つための、決定的なパーツが――
「――今から、重要なことを教えるわ」
正拳突きで相変わらずの筋肉痛になっていた、学校帰りのその日。いつもの場所で、指定された時間に落ち合った彼女は――しばらくして、重々しい口調で言った。
すでに教えてもらったことの補足ではなく、新しい大事な何かの話だ。そう直感したリットは、真剣な面持ちで「おす」と頷いた。
女性は手のひらをリットに向けると、それをゆっくりと近づけていった。
――リットの右肩へ。
ちょうど付け根あたりに触れたそれは、わずかに力がこもっていた。肩を押されたリットは、困惑しつつも体を反らして受け流す。それを見て、女性は微笑を浮かべた。
「――もう一度」
そう言うと、彼女はふたたび手を引き、次は左肩へ向けて手のひらを押し付けてくる。不可解なやり取りに怪訝な思いを抱きつつも、リットは同じように左半身を後ろに反らして、それを受けた。
「――そして、次は」
手を引いた彼女は――また腕を伸ばしてきた。
今度は――胸の上のほうへ。つまり、体の真ん中だった。
そこに手のひらを当てられ、同じような力で押されたリットは――
「わっ! ……と……っと」
踏ん張りきることができず、後ろに倒れそうになったリットは、あわてて彼女から身を引き離してしまった。
それを眺めていた女性は、腕を下ろすと問いを投げかけてきた。
「――違いに気づいたことは?」
「違い……」
左右の肩と、胸。受けたリットの反応は、明らかに違っていた。それは何に起因するのだろうか。
肩を押された時は――そう、力を受け流せた。体を斜めに反らして、体への負担を軽減できたのだ。
だが――胸を押された時は違った。体の軸そのものに当てられた力は受け流せず、そのまま後ろに追いやられてしまった。つまり――うまく軽減できなかったのだ。
「中央に当てられたら……倒れそうになりました」
「そう、そのとおり。胴体の中央から離れるほど、向かってくる力は受け流しやすくなる。だけど――」
女性は人差し指を伸ばした。それはゆっくりと、腹部の上のほうへ近づいてくる。彼女の指先が触れたのは――リットのみぞおちだった。
「体の中心軸。そこにある部分を打たれた場合、咄嗟にダメージを低減することは至難。――これが人体の“急所”よ」
「きゅ、きゅうしょ……」
「――正中線」
みぞおちに触れた指が、徐々になぞるように、服越しに上がってゆく。胸骨を通って、首筋に、そしてアゴ先に。くい、と上げられたリットの顔を、フードで陰になった眼が射貫いていた。
――透き通った、碧い瞳だった。
綺麗で美しい。そして、恐ろしくもある。純真であるのに、無垢ではない不思議な色をしていた。そう――ただ、ひらすら。純粋に、真なる“何か”を追い求めているような……そんな瞳だった。
「覚えておきなさい。この急所を打てば、子供の喧嘩で負けることもないわ」
「ぉ……お、す……」
「…………」
指を離した女性は、ふっと軽く笑った。そしてリットに、ふたたび指導を始める。姿勢や拳の運び方を修正し、改善させていった。
きっと彼女は、こんな正拳突きにとどまらず、山のようにテクニックや鍛錬方法を持っているのだろう。だが「これさえあればイフェルに勝てる」というものを授けたのだ。そして――それは信頼すべきものだった。
「――時間よ」
終わりは唐突にやってきた。
もともとリットへの指導は、用事の“ついで”にすぎない。彼女が許容できる時間で、必要最低限のことを教えていただけだった。そのことは、リット自身も理解していた。
これで終了。
これで十分。
これで――完璧。
少なくとも、子供が喧嘩に勝つには――と彼女は言った。
「――もう、教えることもないわ」
そう淡々と口にする彼女を、リットはどこか心細さを感じながら見つめていた。
はたして大丈夫なのだろうか。
今の自分が、もうイフェルに勝つことができる? ……本当に?
この手が、正拳突きが、自分より背の高いいじめっ子を打ち倒せるのか?
ふと抱いた疑念は急速に膨らみ、重々しい不安へと生まれ変わる。
それでも――
女性はもはや用はないと言うように、リットの横を通り過ぎていった。
街中へ消えゆこうとする彼女に、何か言葉をかけようと振り向く。けれども、言葉が出てこなかった。自信満々で感謝を伝えたいのに――その勇気が湧いてこない。自分の弱さに、心苦しくなった。
「ぁ…………」
ふいに、女性は後ろを振り返った。言葉を交わすには少し遠い距離で。彼女はこちらを見据え、足を軽く開く。
何をするのか――構えで瞬時にわかった。女性が右手を、甲を下にして引き絞っている。正拳突きをしようとしているのだ。
――この距離から。
拳が、届くはずもないのに。
戦慄がリットの体に迸った。肉体の本能が、何かを予知していた。これから――攻撃が迫ってくるのだと。
リットも足を開き、腰を下ろし、地にしっかりと踏ん張った。その姿勢を確認してから――女性は、ニィと笑って。
――動いた。
ように、見えた。
だが、彼女の右手がかすんだ瞬間――凄まじい風がリットの胸を打ち付けた。ピンポイントの突風が、小さな体を吹き飛ばそうとする。その激しい風を――なんとか歯を食いしばり、足を踏みしめて、やっとの思いで受けきった。
――これが、正拳突き。
人知を超えた、超常の業に――リットの魂は打ち震えた。どんな武器よりも、どんな兵器よりも、どんな魔法よりも、強く勇ましく、そして神々しい力だった。人間の肉体が、ただの生身が、あれほどの風を引き起こしたのだ。驚愕し、畏怖し、そして尊敬するほかなかった。
――ようやく、そむけた顔をもとに戻すことができた。
そこには、彼女が立っていた。放った拳の風圧によるものか、フードは後ろに外れている。今にして初めて、女性の頭がはっきりと確認できた。
陽のもとにさらされた顔立ちは、若々しく生気に満ちていた。その圧倒的な存在感から見誤っていたが、年齢は十代半ばを過ぎたくらいの、まだ少女と呼ぶこともできる外見だった。
――黄金に輝く髪が、煌めいていた。
その金髪は後頭部で束ねて、ポニーテールにしているようだ。
女性は手を後ろ髪に持っていくと――紐をほどいたのだろうか。束ねていた髪が解放され、本来の形へと戻っていった。
それは……時間をかけて整えなければ成しえないほどの、見事な巻き髪だった。高い身分の貴族令嬢は、ああいう手の込んだ髪型をよく好むという話を聞いたことがあるが――
その髪の形は、まるで自然体であるかのように、作りものらしさを感じさせず。優艶で気高く、そして高圧的で威迫に満ちた外見だった。
女性は、無造作に右手を振り――
「……わっ!?」
何かを胸に投げつけられ、リットは情けない声を上げながら手に取った。目を向けてみると――髪を結んでいたであろう、細い革紐がそこにあった。
「――あなたは私の“弟子”よ。敗北は許さない」
距離はあっても、その透き通った声はリットの耳にはっきりと届いた。巻き髪を揺らしながら、かすかにほほ笑むうら若い女性の面持ちは――見惚れてしまうほど美しく、そして強さに満ちていた。
不安など吹き飛んでいた。
ただ湧き上がる気持ちのまま、餞別に受け取った革紐を強く握りしめながら。
リットはほとんど無意識に、そのまま右手の正拳突きを繰り出していた。
「――おすっ!」
同時に出す声は、同じく彼女から教えてもらった言葉。
ひと気のない路地裏に、虚空を殴る音と、少年の叫ぶ声が響き。
それを笑って見届けた女性は――ゆっくりと、リットのもとから立ち去ってゆくのだった。
◇
「――リット」
見下したような、冷ややかな声が上がった。
学校を出た直後、リットはイフェルに呼び止められたのだ。振り返ってみると、いつもの三人組がそこに立っていた。ニヤニヤと意地の悪い表情をしている。
「……お前、またあんなペンを使っていたな。懲りてないなぁ」
「…………」
絡んできたイフェルに対して、リットは無言で睨みつけた。その態度が気に食わなかったのか、彼は急に不機嫌そうな面持ちになった。生意気だ、と言わんばかりの表情である。
「なんだぁ、その顔は」
「――うるさいな」
「……なんだって?」
言い放った言葉は、イフェルにとって予想外すぎたのだろうか。怪訝そうに眉をひそめたが――それも一瞬のこと。すぐに彼は、怒りを湧き上がらせていた。
「……お前、よくそんな口を利けるな。殴られたいのか?」
そう低い声で言った彼は、拳を握ってみせた。今にも殴りかかってきそうな勢いである。その様子に、リットは内心で少し怯えてしまったが――
あることに、気がついてしまった。
「……手」
「あん?」
「……おかしいよ、それ」
口を衝いて出た言葉は、イフェルには理解できなかったのだろう。「はぁ?」と彼は威圧的に睨みつけるが――もはや彼からは恐ろしさを感じなかった。
リットには見えていた。
イフェルの拳をかたどった右手が、親指を指の中に握り込んでしまっていることに。
そうじゃない。
拳の握り方は、そうじゃない。
イフェルは知らないのだ。人を殴る時の、手の形を。
そして――リットは知っていた。
手の形を。繰り出し方を。そして、打つべき急所を。
あの女性の言ったとおりだった。
明らかで、大きな――優位性。それがリットには存在していた。
力がみなぎっていた。
恐怖はなく、自信が満ちあふれていた。
勝負というものは、ただ背丈や体つきだけで決まるものではないのだ。
それを初めて、心の底から理解していた。
「――負けたら、二度と絡んでくるなよ」
お前に勝つ。その気持ちが伝わったのか、イフェルは逆上した様子を見せた。
彼は拳を振りかぶって、こちらの顔を殴ろうとしていた。
違う。
拳の出し方も、それじゃ駄目だ。
後手に回ったのはリットだったが――そんなことは、些細だった。
幾度となく繰り返した。
ほんの数日前までは、ずっと筋肉痛だった。
だけど――それは、自分の体が正拳突きに慣れてゆく証だった。
訓練した突きを繰り出す。
回転を加えながら、まっすぐ前へ。
狙いは――正中線、そのみぞおちへ。
リットの突きは――遅かった。
教えてくれた師の、何十分の一という遅さかもしれない。
それでも――
――イフェルの何倍も、速く、鋭く、そして強かった。
「…………く、そっ」
地面に倒れて苦悶したあと、仲間の二人に支えられながら立ち上がったイフェルは――息も絶え絶えに、悔しそうに去っていった。
はたして約束は守ってくれるのだろうか。少し心配ではあったが――もし、またちょっかいを出してくるようであれば。もういちど、喧嘩で勝負したらいい。
リットは笑みを浮かべながら、自分の拳を眺めた。そこに握られているのは――初めての勝利だった。勝ったのだ、イフェルに。
自分の力で――では、ないだろう。
この力は、彼女から教えてもらったものだった。
だから、そう――
全身の湧き上がる、この感謝の気持ちを。
いま、もういちど。拳に乗せて。
シュッ――と、以前よりは様になった正拳突きを放ち。
勝利と感謝の叫びを上げた。
「――押忍ッ!」
きっと、この声は彼女に届いているだろう。
リットはそう信じて、笑みを浮かべた。