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武闘派悪役令嬢 012c


 来客に対応するのは、もちろん家主であるアルスの役割だった。彼は玄関のほうで、付近に住む農民らしき人物と言葉を交わしている。その会話は――私の耳なら簡単に聞き取ることができた。


「……そのイノシシは、いまどこに?」

「果樹園のほうをうろついているみたいなんだが、わしも迂闊に確認しにいけなくてな……。あれだけデカいのは、初めて見た」

「実物を目で見ていないから、なんとも言えないが――おれも獣をすべて狩れるわけじゃないぜ? マジでヤバいやつなら、魔法を使える“騎士”を派遣してもらうしかない」


 ――二人が話している内容は、剣呑で深刻な色を帯びていた。


 どうやら、生活圏内にイノシシが入りこんできたようだ。森のほうから下ってきたのだろう。いつもなら、そういう場合はアルスが弓で射止めているらしいが――

 今回のイノシシは、通常の個体よりもはるかに巨大な体つきという情報だった。

 そして私は――それがどれだけ危険な存在なのかも理解していた。


 住宅街に迷い込んだイノシシが人間を襲った。そんなニュースは、前世で何度も目にしたものである。家畜化されたブタとは違い、野生のイノシシは攻撃性の高い動物なのだ。

 そんなイノシシを狩るのは、ライフル銃などがあれば難しくもないのだろうが――ここは高度な銃火器が存在しない世界である。


 アルスが得物としている長弓(ロングボウ)は、十数メートル程度の距離であればマスケット銃並みの威力を出せるだろう。だが、巨躯を持った獣をその一撃だけで即死させるのは至難の業である。もし半矢、すなわち手負いの状態となった獣が死に物狂いで向かってきたら――返り討ちにされる可能性もあった。


 野生動物は、強いのだ。

 厳しい環境で生き抜くために、彼らは強力な肉体を培ってきた。

 その純粋な体躯の威力は――人間のちっぽけな身体能力をはるかに凌駕する。


 だが、だからこそ――

 素手で獣に勝つことは、格闘家の箔をつけることに利用されてきたのだろう。


「――そのイノシシがいる場所、教えてくれる?」


 私は玄関のほうへ歩み寄りながら声をかけた。

 何をするつもりなのか、アルスはすぐに察したのだろう。彼は引き攣った顔を、こちらへ向けてきた。


「あー……姐さん……いくらなんでも……」

「私は“魔法”が使えるわ。イノシシどころかクマだって倒せるわよ」


 そう言うと、アルスを訪ねてきた年配の男は明るい表情になった。魔法の使える者は、戦争においては重火器の役割をも担う存在である。レベルの高い魔術師であれば、大型の獣を斃すことも容易であった。


「お嬢さん……どこかの貴族の方ですか? 魔法が使えるというのは――」

「――本当よ。この私の“手”にかかれば、どんな敵だろうと打ちのめせるわよ」

「いやぁ……やめておいたほうが……」


 後ろでアルスが気弱な発言をするが、もはや私の心は決まっていた。困っている住民がすぐそこにいるのだ。助けてあげるのが貴族の務めというものだろう。

 男性から詳しい目撃情報を聞き出した私は、アルスに笑みを向けて言った。


「午後は、日が暮れる前に別れる予定だったけど」

「…………?」

「夕方まで、一緒に過ごすのもいいかもしれないわね」

「は……はぁ……」


 意味がわからなそうな様子のアルスは、呆れた声色で頷いた。そして頭を掻くと、諦めたように口を開く。


「……おれも装備を用意したら、とりあえず姐さんの後を追うぜ」


 ――なら、彼が着く前にすべてを終わらせるべきだろう。

 そう内心で思いながら、手を振って了解の合図を示し、私は家の外に出た。


 正午過ぎの空は青く、爽快な陽気だった。広々とした農耕地帯の風景は、王都の雑踏にあふれた通りと違って解放感がある。ここなら――全力で走っても迷惑をかけることがなかった。

 果樹園の位置は把握していた。すぐ近くの場所だ。――私にとっては。


「よし」


 小さく呟いて……私は一歩を踏み出した。


 ――ストライド、という言葉がある。

 陸上競技などにおける、歩幅を示す単語だ。近代オリンピックでは、この一歩の幅を広げて走るストライド走法が重要視されてきた。

 人類史上最速と言われるスプリンターは、100メートルを9秒台で駆け抜ける。ある世界選手権では、この選手の平均ストライドが244センチにも達していたという。

 むろん、これは平均の値である。最長のストライドは300センチをも超えていたことから、一歩でどれだけ驚異的な距離を進んでいたのかが理解できよう。


 そして――

 今の私は、“人類史上最速”を置き去りにする身体能力を持っていた。


「……ッ!」


 風を切る、などという言葉は似つかない。

 例えるならば――自身が暴風と化したと言うべきかもしれない。


 跳ぶように走るそれは、もし誰かが目にしていたら――本当に飛んでいるように見えただろう。

 大地を蹴り、飛翔した私が次の足を踏むまでの距離――じつに500センチは下るまい。


 100メートルを――わずか20歩で駆け抜けるストライド!

 時速70kmを超えた私の脚力は――

 周囲を景色を一瞬で後方へ追いやり、目的地へと到達させた。


「――――」


 獣除けの柵が張り巡らされた、果実の成る樹木を栽培する一帯。

 王都の周辺には、こうした果樹園も数多く経営されており、都への果物の供給を担っていた。


 そして、いま私が見つけた果樹園の外周部は――

 柵の一部が破壊され、何者かが中へ侵入した形跡を残していた。


 間違いない。

 イノシシは、ここから園内に潜り込んでいったのだ。


 私は跳躍し、柵を乗り越えて中に飛び込んだ。

 果樹は一定間隔で植えられ、雑草も取り除かれているので、遠くまで簡単に見渡すことができた。

 そして――私は見つけた。


 彼方で地面に落ちた果物を、むさぼり食らう野獣を。

 その大きさは――


「……っ」


 初めは距離感による見間違えかと思った。

 だが――私の視覚は、その大きさを正確に捉えていると確信する。

 樹木との比較から、推定されるイノシシの図体は――


 おそらくは、体長2メートル近くあるッ!

 一般的なイノシシが、体重100kg前後はあることを考えると――

 肉や脂肪を十分にまとった、あの巨大なイノシシは……間違いなく体重200kgはゆうに超えるだろう。


 ……猛獣だ。

 イノシシは、捕食しようとしてきたトラやクマを、逆に返り討ちにすることもあるという。

 つまり――あれは大型のトラやクマに匹敵する力を備えた、恐ろしい獣にほかならなかった。


「ふふふ……」


 なぜ笑みがこぼれるのだろうか。自分でもわからなかった。

 私はまっすぐ、その猛獣のもとへ歩み寄ってゆく。

 少しして、向こうも気配を感じたのだろうか。その顔を――私のほうへと動かした。


 目が合った。

 その瞬間、イノシシは果物のことも忘れたように……私をはっきりと見据える。

 威嚇するように唸った獣の口元には、大きな牙が備わっていた。鋭利なそれは、オスの証である。


 その巨体を備えるまで生きてきたのならば――獣も十分に理解していることだろう。

 人間の領域に入りこんだからには、狩人の脅威があるということを。

 眼前に立つ存在が、みずからの生命を奪いに来た敵であるとことを。

 ――生き延びるためには、闘争か逃走のどちらかを選ばねばならぬということを。


 尻尾を巻いて逃げ出すか。それとも邪魔者を蹴散らすか。

 己の弱さを自覚している動物であれば、すぐさま逃げる選択をしたことだろう。

 だが――並外れた巨躯を持ち、おそらく森の中でもカーストの最上位に君臨していたであろう、そのイノシシは。


 ――私に立ち向かうことを選んだのだった。


「あァ……」


 いい心意気だ。

 野生の世界では、あらゆる要素が生きるか死ぬかに直結する。

 人間と違って医療技術のない世界では、ほんの些細なケガでさえ致命傷に至ることもある。

 その限りなく死が身近な環境で生きてきた“彼”が、己の命の危険も顧みず勝負を挑んできたのだ。


 素晴らしい!

 それは賞賛に値する、勇気ある行動だ。

 私が抱いたのは――闘う者に対する、敬意と礼意の熱い感情だった。


「いいわ……」


 最高の好敵手に、笑みを送る。

 最初は緩やかに動きはじめたイノシシも、徐々に速度を上げて疾走を始めていた。

 そのスピードは、目算でも時速50kmは出ているように思える。

 脚の速さだけ見れば、猟犬などとそう変わらないが――体重は文字どおり桁違いだった。


 百キロ単位の肉塊が、全力でぶつかって来ようとしていた。

 さらに、その口元には――敵を刺し貫ける牙が殺意をあらわにしている。

 たとえ“気”を巡らせていても……その刺突を受けきれるかはわからなかった。


 もし大腿動脈にでも突き刺されば、私は殺される可能性もある。

 つまり――


 これは、お互いに生死を賭けた真剣勝負だった。


「全力で……」


 ――構えを取る。

 腰に溜めた右拳は、いつでも正拳突きをできる状態であった。

 震えも緊張もない。ただ静かに、敵が肉薄するのを待っていた。


「――――」


 来た。

 すぐそこに、獣の必死な形相が映る。

 その顔には――恐怖が浮かんでいるようにも見えた。


 死に対する、怯え。

 それが相手にはあって、私にはなかった。

 ……決定的な違いだ。

 死を恐れる者に――私が敗れるはずなどなかった。


「……ッ!」


 体の捻りを加えながら、下段へと正拳を繰り出すッ!

 爆発的な気のエネルギーと、練り上げられた筋肉の力が――腕を伝わって拳の先へと宿るッ!

 イノシシの剛毛と厚い皮膚に覆われた頭部を――


 ――打ち抜いた。

 瞬間、凄まじい衝撃が手を、腕を、そして体を襲った。


 ――自動車に撥ね飛ばされる瞬間とは、きっとこれと同じような感覚なのだろう。

 このまま弾かれて、威力を受け流したら、どれだけ楽なことか。

 だが――相手は命懸けで突貫してきたのだ。

 それを真っ向から打ち破ってこそ――礼儀というものだろう。


 衝撃を、すべて打ち殺す。

 突き出した拳は、けっして退くことなく――

 その頭蓋に……凄惨に食い込んでいった。


「――――」


 止まった。

 静止した時、右手は――

 いや、“右腕”はイノシシの顔面に深々と突き刺さっていた。

 その牙は――あと一寸で、私の腿と接触するような位置だった。


「…………」


 勝った。

 それを実感しながら、右腕を引き抜く。血と脳漿を流しながら、どさりと斃れゆくイノシシの姿は――敗者に訪れる無慈悲な死を、強烈に演出していた。

 この獣は強かった。

 だが――私が少しだけ上回る力を持っていたから、今の結果になったのだ。

 強き者は生き、弱き者は死ぬ――それが、この世に存在する生命の単純な原則だった。


 力を。

 さらなる強さを。

 巨大な屍を前にして抱くのは――より強力な肉体と技術への渇望だった。


「さぁ……」


 帰ろう。

 アルスの家へ。

 ひとまず、体にこびりついた穢れを清めたい思いが湧いていた。

 汗や血を洗い流した、そのあとは――











「お、おいおい。もう帰ってきたのかよ、姐さ――」


 アルスの玄関の戸口。

 呼び鈴を鳴らしてから少しして、ドアを開けて姿を現したのは――革の防具と矢筒、そして長弓を携えて、完全武装をした狩人の姿だった。

 さすがに獣が危険な大型だったからか、準備に時間をかけていたようだ。もっとも私がイノシシを斃してしまったので、それはすべて徒労になってしまったが。アルスには悪いことをしたかもしれない。


「……姐さん」

「なに?」

「…………それは?」


 それ、が何を指しているのか、聞くまでもなかった。

 私が肩に担いだ――顔面を粉砕された、巨大なイノシシの死体。

 そのずっしりとした重みに、抑えきれぬ期待を寄せながら――


 まるで、買い物から帰ってきた主婦のように。

 私はアルスに、ニッコリと笑いながら言った。




「――今日の晩御飯は、イノシシ鍋よ」


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