武闘派悪役令嬢 012a
――以前にもまして、アルスの顔つきは精悍になっていた。
もともと筋骨隆々の大男だったが、その威圧感や鋭さはさらに磨かれていた。ひとの雰囲気というものは、環境によって変わるのだろうか。相手を打ち倒そうと攻撃する――その行為を繰り返しつづけた彼は、素人ながらも闘士としての風格が身に付きつつあった。
力強く、かつ素早い拳が、私に迫っていた。
私はそれを視認し、ぎりぎりのところで躱す。頬を掠めた打撃の脅威に、わずかに口元を緩めてしまった。いい攻撃を繰り出されると、なんとなく嬉しくなるのだ。
その一撃だけでは終わらず、今度は左手による連撃がやってくる。胸部の中心を狙った突きだった。正中線――すなわち人体に効率よくダメージを与えられる部位を狙うのは、格闘における基本である。アルスはそれを、すでに身をもって学んでいた。
後ろに退きつつ――その直進する拳を打ち払うように、右腕の前膊でいなす。
二撃目も対応されたアルスは、さらに左足による前蹴りを放ってきた。その狙いは、ちょうど私の右膝関節である。普通のスパーリングであれば、人体を壊しかねない危険な行為は禁止にするものだが――私はあえてアルスに、急所も遠慮なく狙っていいと伝えていた。
彼の攻撃が到達するよりも早く――私は右足を振り上げ、そしてアルスの蹴りに合わせて振り下ろしていた。
「おわっ!?」
前蹴りで伸びきったアルスの脚を、私の右足が絡めとる。不安定な体勢で一本足になった彼が、立っていられるはずもなかった。地面に転んだアルスの頭を――もし私が拳を振るえば、粉々に破壊できていただろう。
「……反応が速すぎだぜ、姐さん」
「あら、おだてても何も出ないわよ」
「ははは……」
アルスは苦笑を浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。
そして、ふたたび私とのスパーリングを再開する。
――けっして、私からは攻撃することなく。
アルスに攻撃させ、それをギリギリで避ける、あるいは防ぐことを繰り返す。
なぜ攻撃をしないのか、というのは単純だった。私の打撃にアルスが対応できないからだ。言い方は悪いが、格下をボコボコにしても得られるものがあまりなかった。
だから、基本的には受けを鍛錬していた。
避けようと思えば、もっと余裕をもって避けられるが――あえて、そうはせず。
当たるか当たらないか、その寸前のところを見定めて、防御を成功させる。その繰り返しは、私の反応速度を研磨する。冷静に、冷徹に、脅威を見抜いて行動する能力を向上させてくれるのだ。
もっと、強く――
どんな強敵が相手でも、勝利を得られるように。
生きるか死ぬかの死線を乗り越え、生殺与奪の支配者となるために。
「――――」
顔面へ向けて、アルスのフックが飛んできた。
見えている。私はそれを、極限まで少ない動作で防ごうとした。
擦れ擦れの、掠るような一撃。あごの先端、薄皮一枚で受けたそれは、大したダメージもなく受け流せる見立てだった――はずなのに。
――世界が、傾いた。
気づいた時には、私は片膝と片手を地面についていた。
何が起こったのか、わからなかった。意識が一瞬途切れ、いつの間にか倒れていたのだ。
「――お、おいっ! 大丈夫か、姐さん?」
普段はありえない私のダウンに、アルスも困惑したような声をかけていた。
私はゆっくりと立ち上がると、手や服についた土を払う。それと同時に、ようやく今の出来事に理解が及びはじめていた。
『もし暴漢に襲われたら――アゴか股間を狙え』
私に空手を学ばせた、かつての父がそう言っていたことを思い出す。
なぜ、その部位なのか。理由は簡単だった。
――たとえ腕力で劣っていても、うまくそこへ攻撃が入れば打ち倒せるからだ。
金的。これは言うまでもない。男の股間に蹴りを入れれば、容易に相手は悶絶することだろう。
そして――あごへの攻撃。ここに衝撃を受けると、てこの原理で頭部が揺り動かされる。それはつまり――内部の脳も揺さぶられるということだった。
軽い脳震盪。
それがさっき、私がアルスに引き起こされたモノの正体だった。
そして――もし、今のが実戦だったら。
意識が飛んで“気”の力が弱まった私の首に、鋭利な刃物でも突き立てていたら。もしかしたら、私を殺せていたかもしれない。
「油断すると……いけないわね」
私はそれを痛感しながら、笑って言った。
たとえ、どれだけ力の差があろうとも。肉体的な優劣があろうとも。今さっきのように、効果的な攻撃が格上の存在を打倒することもあるのだ。
肝に銘じておかなければならない。自分が負けないために。そして――勝つために。
「――続けましょう」
私は構えをとって、スパーリングの再開を促した。
次は慢心しない。見逃さない。すべての動きを、あらゆる攻撃を、この五感で正確に把握して、適切な行動を返す。
今の私は――空間のすべてに感覚が及んでいた。
初めは、ただ肉体の強さを身につけ。
そして徐々に、技術を手に入れて。
今や、五感を研ぎ澄ましつつある。
――その先に、何があるのか。
私の心は、いまだ見えぬ高みへと向いていた。