表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編:寺内内閣から「大正」の終わりまで

1916年10月9日、寺内正毅が内閣総理大臣に任命され、寺内内閣が発足した。

これは全閣僚が政党に属していない超然内閣だったが、好景気によりあまり気にされなかった。

また、寺内内閣は立憲政友会と協力して憲法を改正し、空軍省を発足させた。

また、中国軍閥の安徽派を協力に支援し、この支援は第1次若槻内閣が倒れるまで続けられた。


さて、好景気になると金持ちが増える。

増えた金持ちはその金で沢山買い物をする。

そうなると物価が上がる。


さらに、あることがそれに拍車をかける。

ロシア革命である。

新たに成立した共産党政権は中央同盟側と単独で講和したが、これに英仏は激怒。

その頃、シベリアに放置されていたチェコ軍団が反乱を起こした。

それに、チェコ軍団救出を建前、シベリア鉄道利権の維持などを本音として、英仏などの外国軍が介入。

当然日本も出兵した。しかも三個師団、7万人も。

出兵には兵糧、つまり米が必要である。

そのため、米価は急激に高騰。

全国的な混乱を招いた。


そして1918年8月6日、富山県魚津にて。

主婦達が米のある倉庫を取り囲み、格安で米を売らせることに成功した。

これを真似しようとして、各地で暴動が発生。米騒動である。


寺内内閣は総辞職。

ついに日本初の本格的政党内閣、原敬内閣が誕生した。

原内閣は普通選挙制の導入、高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の「五大政綱」を重要な政策課題と位置付けた。

さらに原内閣はシベリア出兵の規模を縮小した。


しかし1920年3月から4月にかけて、東京株式市場が大暴落した。

政府はこれに対し、救済をせず、企業の整理、統合を促した。


これによりリストラされた中岡艮一は、原敬を怨み、

そして1921年11月4日、原敬は暗殺されてしまう。

結局原内閣では普通選挙制の導入はならず、その後1925年に実現した。


原の死後、ワシントン会議が開かれ、以下が決定された。



米・英・仏・日による、太平洋における各国領土の権益を保障した『四カ国条約』の締結。それに伴う日英同盟破棄。

上記4ヶ国にイタリアを加えた5ヶ国により、主力艦の保有量の制限を決めた『ワシントン海軍軍縮条約』の締結。日本は対米英7割を受諾。

米・英・蘭・伊・仏・白・葡・中華民国の8ヶ国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める『八カ国条約』を締結。日本はどこまでが中華民国の領域なのか示されていなかった為、署名せず。



原敬死後、政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、内閣改造に失敗して総辞職し、代わって海軍大将の加藤友三郎が内閣を組織して1922年6月から1923年8月まで続いた。加藤はシベリアから完全に撤兵し、1932年夏季五輪を招致、また陸海軍の軍縮を行った。

加藤は1923年8月24日に急逝、9月1日には関東大震災が起こった。

関東大震災の被害は地震による家屋の全半壊が17.9万戸、火災による全半焼が38.2万戸。

死者行方不明者は15.5万人、被災280万人。物的損失は65億円に達し、当時の日本の一般会計予算50億円を上回った。

復興の為翌日には第2次山本内閣が成立した。内相の後藤新平は大規模な復興計画を実行(予算18億円)するも、

12月27日、皇太子・摂政宮裕仁親王が狙撃されるという虎ノ門事件が発生し、1924年1月には総辞職する。


後継は枢密院議長の清浦奎吾が首相となり、清浦内閣が発足。

清浦内閣は政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いた。

そのため、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の三党は一致団結し清浦内閣打倒、政党内閣樹立を目指した。

ここに護憲三派が成立し、第二次護憲運動が始まった。

しかし、清浦内閣は世間からは第15回衆議院議員総選挙までの中継ぎと思われていたため、小規模な運動となった。

第15回衆議院議員総選挙の結果は…


護憲三派は281議席、清浦支持の政友本党は116議席に留まり、護憲三派の圧勝!


加藤高明内閣が成立し、政党内閣は復活した。


加藤高明内閣は普通選挙を実現させた。

男女とも18歳以上なら投票可能となり、女性も議員になれるようになった。

また、加藤高明内閣では宇垣軍縮が行われ、陸軍は十二個師団まで減らされた。

クビになった軍人は、まるごと予備役に編入された。


一方、中国は軍閥が乱立し、混乱を極めていた。

1916年の袁世凱の死後、北洋軍閥は4分裂。

直隷派・安徽派・奉天派・山西派に分裂した。

1920年7月には安直戦争が起こり、直隷派・奉天派連合が安徽派を破ったが、日本からの支援により安徽派は復活、

1922年4月には連合に不満を抱いていた奉天派が復活した安徽派と組んで第1次奉直戦争を引き起こした。

奉天派は敗北するが、1924年9月には安徽派・山西派・四川派と組んで第2次奉直戦争を引き起こした。

1924年10月には直隷派から西北派が分かれ、11月には直隷派が湖広地方に追いやられるなど、混乱を極めた。


さて、1926年1月28日に加藤高明が死去し、30日には内相の若槻禮次郎が第1次若槻内閣を組織した。


第1次若槻内閣は1927年4月20日まで続いたが、1926年12月25日に大正天皇が崩御し、摂政宮裕仁親王が践祚、昭和に元号が改元された。


激動の昭和時代が始まる。

「大日本帝国の歴史 in 昭和」に続きます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ