悪魔少女ネモ 〜風のスタッカート〜
僕の名前は東尋坊スイカ。
空想の街に住む探検クラブ所属の五年生。探検先の下見に一人で訪れた森で、僕は猫耳カチューシャの生意気な少女に出会うーー。
「空想の街」企画参加作品「ネームハンター」シリーズのスピンオフ。
古の「風詠み」の血を受け継ぐ少年と、力を失くした悪魔少女との半日足らずの冒険の物語。
僕の名前は東尋坊スイカ。
5年生。探検クラブ所属。
今日は探検クラブの探検場所捜しの順番が回って来て、休みに一人で「教会の森」に来た。自転車で。
この森は小高い丘の上が丸々鎮守の森だったんだけど、なんとかって宗教団体が買って自分達の施設を立てた。
けどその宗教団体は麻薬を作っていた事がばれて潰れ、今は廃屋になった宗教の施設があるだけで、森全部がフェンスに囲われて立ち入り禁止になっている。
実際にその施設が教会なのかどうかは分からないけど、誰とはなしに教会の森、という呼び方が広まった。
フェンスと言ってもその辺の公園にあるような低いやつで、僕らくらいなら余裕で越えられる。
噂では宗教施設には魔界と通じる穴があって、森にはその穴から抜け出した魔物がうろついてるっていうけど、まあそれくらいの設定があった方が探検らしくなる。別に怖くはない。怖くはないぞ。
僕は探検グッズの入ったリュックを背負う。
中身は懐中電灯、ロープ、ビニールシート、十得ナイフに高カロリービスケット、ミネラルウォーター。
ハイカットのスニーカーの紐を括り直し、リュックのストラップを締め込んで荷物の重みが背中全体に掛かるよう調節する。
この瞬間が探検家らしくて好きだ。
僕は一気にフェンスを越えると、魔界への穴があるという宗教の施設を目指して歩き始めた。
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20分も歩いただろうか。
下草はそこまで深くないので歩けるけど、当然遊歩道ほど歩きやすいはずもなく、夏の昼下がりの暑さと合まって僕はすっかり汗だくだった。
前に行ったやつの話だと、施設まで40分は掛からない、という話だからもう半分は過ぎた筈。ペットボトルの口に自分の口を付けないように水を飲み、ベージュのタオルで汗を拭った瞬間、僕は何かの気配を感じて動きを止めた。
何かが藪を掻き分けて移動してる。
結構な速さだ。
僕は一瞬で最悪の自体について想像する。
つまり噂は全て本当で、ここは魔物の森。そして僕は魔物に……!
飲んだ唾の音で我に返り、慌てて身を隠す場所を探そうとした途端、
ガザザッ!
と一際大きな音を最後に、辺りは静かになった。
逃げて帰ろうかとも思ったが、少し迷った挙句、結局僕は最後の物音の場所を確かめる決心をした。
なぜなら枝葉を薙ぎ払うような音とともに、小さな女の子の悲鳴を確かに聞いたからだ。
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潅木を掻き分けて慎重に音のした茂みに近づく。
茂った枝や葉で分かりにくくなっているが、どうやら穴があいており、何かがそこに滑り落ちたようだ。
古い枯井戸かな。深さもかなりありそうだ。
僕はリュックを降ろし、LEDの懐中電灯を取り出す。
もし照らした先にいるのがすげー怖い魔物だったら……。いや、最後に聞いたのは女の子の声だった。もし本当に女の子だったら、助けないとその子は……多分死んでしまう。
意を決し、懐中電灯のスイッチを入れて恐る恐る穴を覗き込む。
穴の奥に向けて懐中電灯を照らすと、そこに照らし出されたのは黒いワンピースを着た髪の長い女の子だった。
「あの……君は女の子ですか?それとも……魔物?」
我ながら間抜けな質問。なんせテンパってたから。
「両方よ」
けれど女の子の答えは予想と違っていた。
「両方だわ」
眩しそうにこちらを見上げる少女。かわいい、と最初に思ってしまうほどにはかわいい。けど少しキツそうな目付きだな。右手の二の腕を左手で抑えてる。ケガをしてるんだろうか?
「子供ね?なんでこんなところに子供が?一人で?」
「それはこっちのセリフ。ケガは?」
「平気よ」
「待って。ロープがある」
僕は予想外のイベントに少なからず興奮しながら、手近な木にロープを結び、空井戸の中に垂らした。
「……上がれる?」
彼女は悪戦苦闘しているようだった。ケガが痛む右手では結び玉もない単なるロープで垂直に近い壁を登るのは難しいだろうな。
「駄目。思ったより傷が深い。行って。そして悪いけど七篠名前捜索事務所に連絡を取ってくれない?」
「七篠名前捜索事務所って……あの、ネームハンターの事務所?」
「そう。猫が井戸に落ちて困ってる、と伝えて」
「いや、君をほっといて行けないよ。ちょっと待って。僕も降りる」
「駄目!気持ちはありがたいけど、ここは早く離れた方がいい。噂を聞いたことあるでしょう?この森にはヤバイ奴がいる。私はそいつから逃げてる時にーー」
その時、遠くで何か物音がした。
何羽か、何十羽かの鳥が一斉に舞い上がる。
「ーーヤツだわ」
唾を飲み込む。ヤツ?ヤバイ奴?魔物⁉︎マジ⁉︎
「私は大丈夫。逃げなさい。早く。森を出て、七篠権兵衛を……ネームハンターを連れて来て」
僕は決断する。ロープに手を添えて穴の壁を滑るように飛び降りる。
「何してるの!馬鹿ね!」
「文句は後で聞くよ!ほら、僕を踏んでいいから!」
僕は壁に両手を付くと、組み体操の土台の感じで踏ん張った。
「……恩に着るわ」
彼女は意外に躊躇なく僕を踏みつけて肩に登り、壁のとっかかりへと手を伸ばす。
だが僅かに届かないようで、僕の肩は彼女の爪先立った靴の裏でぐりぐりされて痛んだ。
ザザザ、ザザザと何かが森の木々や茂みを掻き分けながらこの空井戸を中心にぐるぐると回っている。その描く回転の輪が徐々に縮まっているようだった。
「まだ……⁉︎」
「もう少し、なんだけど……‼︎」
仕方ない。上手く行くかどうか分からないけど!
僕は気持ちを集中させる。
空気も実は粒でできている。
その粒に、心で働きかける。
集まれ。
渦巻け。
風詠みの血よ、僕にこの子を助けさせてくれ‼︎
途端に周囲にそよそよと風が吹き始めそれはあっと言う間に強いつむじ風になった。
旋風は木の葉や埃を巻き上げながら僕を舐めて僕の上で壁の上へと手を伸ばす彼女を強く巻き込んだ。
「きゃっ⁉︎」
彼女はスカートの裾を抑えたポーズで風の渦に抱かれ、数十センチとてもゆっくりと井戸の口に向かって浮かび上がった。
賢い彼女は突然の意外な出来事からもすぐに自分を取り戻し、井戸の口に掛かる木の枝を無傷な方の手で掴むと、一気に自分を井戸の外へ引き上げた。
僕はロープを使って井戸を出る。
「ありがとう。因みに今の力は?」
彼女が服の土を払いながら尋ねてくる。
「あまり言いふらして欲しくはないんだけど」
僕は自分の秘密を彼女に説明する。
「うちの一族では風詠み、と呼んでる」
「カゼヨミ?」
「詩人が詩や歌を詠むように、風を紡ぐ力。嘘かほんとか……その昔ご先祖様は海を割って、一族の危機を救ったとか」
「凄いのね」
「いい伝えさ。とりあえず今の僕にはさっきのつむじ風が精一杯」
「充分素敵。お陰で私はジメジメした穴倉を出られた」
その時、少し離れた茂みが再びガサガサと音を立てた。
「逃げよう‼︎」
「ちょ、ちょっと‼︎」
僕は自分のリュックと彼女の手を引っ掴むと無我夢中で駆け出した。
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はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……。
息の続く限り走って、もう走れなくなり、僕は倒木に寄りかかって座り込んだ。
「……痛いわ」
「あ!ごめん」
彼女の手を握りっぱなしだったことに気が付いて、僕は慌てて手を離す。
ものすごく申し訳ないことに、僕が掴んで走っていたのは彼女の怪我をした方の腕だった。
「さてーー」
スカートの裾を整えながら彼女も僕の隣にしゃがみ込んだ。見た感じ僕より歳下だと思うんだけど、この子は妙に落ち着いている。しかもあれだけ走って息一つ乱れていない。
「いいニュースと悪いニュース、どちらから聞きたい?」
そしてこの物言い。この子は一体何者なんだ?そういや名前捜索事務所……ネームハンターと関わりがあるようなこと言ってたな。街で噂になるようなヒーローの関係者は子供でもどこか違うってことか?
「じゃあ……悪いニュースから」
「あなたが私の同意も得ずに引きずってきてくれたこっちは、森の出口から正反対。ほら、あそこに見えてるのが森のほぼ中心に位置する『真理聖名教会跡』よ」
……表情は変わらないけど、彼女の声はどこか不機嫌を孕んでいた。
「いいニュースってのは?」
「ここが真理聖名教会の近くなら、一発逆転のジョーカーが落ちてる筈。それさえ見つけることができれば、私達は無事、生きてこの森を出られる」
「ジョーカーって?」
「水の入ったペットボトル」
「水ならあるよ。ミネラルウォーターで良ければ」
「それは人間用のミネラルでしょ?私のペットボトルの水には私用のミネラルが満ちてる。それが重要なのよ。私はその水をここに汲みにきて、奴に襲われたの」
「……なんだか良くわからないな」
「全部済んだら説明するわ。こうしてても埒があかないし、あいつはここに来るかも。移動しましょう」
「ペットボトルを探しながら?」
「そうね。意外と奴に見つからずにすんなり森を出られるかも。とにかくじっとしてるのは得策じゃないわ。もうすぐ夕暮れよ。あなたは夜の森であいつから逃げ回りたい?」
僕はぶんぶんと首を振った。
「結構。行きましょう。……ところで包帯とか持ってる?」
僕は改めて自分の間抜けさに嫌気が差した。
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「あなたはどうしてこんな所へ?」
歩き始めるとすぐに彼女が話し掛けて来た。僕は答える。
「探検クラブのロケハンに。今回は僕の番なんだ。刺激のない場所じゃみんな文句を言うもんで」
「クラブ活動にしては刺激が強過ぎね。ここはお勧めしないわよ」
「同感だ。他を当たるよ」
彼女はくすりと笑った。僕は素直にかわいい、と思った。その次の瞬間、彼女が急に厳しい表情を作る。
「どうしたの?もしかして傷が……」
「静かに!」
静まり返る森。だが、空気はひりつくように硬い。
「ーー来た」
メキメキと音を立てて倒れる巨木。がさりがさりと森を掻き分けながらそれが姿を現す。
あれは……嘘、だろ⁉︎
でっかい【芝刈り機】!!!
『ゲォォォォォッッ……‼︎』
初めて聞いた芝刈り機の鳴き声。
「あれは芝刈り機じゃない。悪魔バルナス=バロネス。破壊衝動が形になった知能の低い低級な悪魔よ」
「あれが低級⁉︎ ああ見えて実は叩けばぱかっと割れる、とか⁉︎」
「今のままじゃぱかっと割れるのは私たちね。逃げましょう!」
今度は彼女が僕の手を取って走り始めた。
その瞬間、僕は分かってしまった。
どういう身体の作りなのか、僕より幼く、小柄で華奢な筈のこの少女は、僕よりも圧倒的に足が速い。
バキバキと草も木も刈り倒し宙にその破片を巻き上げながら、バルナスなんとかがすぐ後ろに迫る。
この子は、僕を助ける為に僕の足の遅さに合わせてくれているのだ。
逆に、僕がいなければーー。
彼女だけが全力で逃げればーー。
決断までに時間は要らなかった。
僕は彼女の手を振りほどいて振り向くと、仁王立ちになって叫んだ。
「風よ!!!」
たちまち巻き起こる夏の嵐。
僕を中心に渦巻いた竜巻はうねりを渦から直線へ変えながら、唸りを上げる巨大芝刈り機に正面からぶつかった。
途端に気が遠くなる。僕の中の神秘の力のリソースが急速に底を突いてゆくのを感じる。
数分……いや、数十秒か。
「なにしてるの‼︎」
「二人でやられることはない!君だけで逃げろ!僕はこいつを押さえてる。大丈夫。二、三時間はこのままでいられる。ネームハンターを、七篠権兵衛を連れて来て‼︎」
早く行ってくれ。正直、もう……。
だけどあと少し。せめて、彼女が見えなくなるくらいに逃げるまで……!
「速く行け!僕は大丈夫!風詠みの力は伊達じゃない‼︎ 」
「あなたは嘘は下手だけどーー」
彼女は逆巻く風に長い髪をなびかせながら、僕の横に立った。やけにゆっくりした仕草で。
「本当に素敵な力だわ。風詠みの、風を操る不思議な才能は」
彼女の視線は風に押さえられて身動き取れない怪物芝刈り機ではなく、その手前の地面に向けられていた。
風に積もった木の葉は舞い上がり、短い下草と腐葉土の地面が剥き出しになっている。
そこに一つの人口物が異彩を放っていた。
澄んだ水を満たした、1.5リットルのペットボトル。
あれが……この子が言ってた……。
「あ!おい、ダメだ!」
「あと20秒だけ持たせて。風の詠み人さん」
彼女は吹き荒れる風の境目を滑るように移動すると、滑らかな動作でペットボトルを拾い上げた。
蓋が開けられ、木苺のような唇がその飲み口に当てられる。
次の瞬間、光と闇が彼女を中心に爆発した。
それは正真正銘文字通りの爆発で、僕は尻餅を突いて倒れ、怪物芝刈り機はのけぞり、その巨体を二メートル近く退かされた。
爆風に眼を細め、爆心地の彼女を見る。
だが、そこに居たのは先程までのいたいけな少女でなく、色っぽい大人の女の人だった。
太ももまで流れる長く艶やかな髪。
完璧なスタイルの身体を美しく包むビロードのドレス。
陶器のように白く透き通る肌と、滴る血のように真っ赤な唇。
そしてこの世の全てを視て来たかのような宇宙の深淵を宿して輝く二つの瞳。
彼女は顔の前に掛かる髪を、右手でさらりと跳ね上げる。
そして僕の方を見て言った。
「少しの間、眼を閉じていて」
僕は言葉の意味が分からず、眼をパチクリさせた。
「今からあいつを叩いて割るの。ぱかっとね。夕食を美味しく食べたいならーー」
どうやったのか、彼女は空中から棘だらけの大きなハンマーを取り出して見せた。
「絶対、見ない方がいいわ」
駆け出す彼女の背中を焼き付けながら眼を閉じる。
僕は芝刈り機の悲鳴を聞いたのは初めてだったし、芝刈り機を心底気の毒だと思ったのもその時が初めてだった。
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かあかあとカラスたちが夕暮れの空を巣に向かって飛んでゆく。
少女の姿の彼女を後ろに乗せて、僕は自転車を漕いでいた。
「助かったよ。君は命の恩人だ」
「正確じゃないわね。今回はお互い様よ。私はあなたの恩人かも知れないけど、同時にあなたは私の恩人でもあるんだから」
「あのペットボトルの水は?」
「魔力たっぷりの新鮮な地獄の水。私の力の源よ。もっとも満月の夜だけは、いちいちサプリメントに頼らなくても本来の力を出せるのだけど」
「あの教会の跡地には何があるの?」
「地獄に通じる魔法陣。しかるべき術式が行使されないと開かない筈なんだけど、あいつはMセオリーで言うところの『膜』のゆらぎにたまたま生じたトンネル効果でこっちに実存の影として像を結んだんでしょうね。ウィーク・ボソン・ドッペルゲンガー。聴いたことあるでしょ?」
「え?……あ、うん」
「あ、ここでいいわ」
歓楽街の入り口、居酒屋やバーの看板が並ぶ通りへの曲がり角で彼女は僕の自転車を降りた。
「今日は本当にありがとう。えーと……」
「僕はスイカ。東尋坊スイカ」
「果物のスイカ?」
「いや。風の名前。花に吹く、と書いてスイカだ」
「私はネモ。苗字はないわ。ただのネモよ。七篠名前捜索事務所で働いてる」
彼女は自分の髪を手に取ると、ビーズの髪留めで束なった10センチほどの髪の一房を爪で切り落とした。
「今日のお礼と記念に。御守り代わりに持っておいて。スイカ。あなたが本当に危機に陥った時、その髪の束を思い切り引っ張りなさい。たった一度だけだけど、私があなたの元に駆けつけるから」
僕は防水メモに名前と電話番号を書いてネモに渡す。
「君を僕が助けるシーンなんて、思い浮かばないけど……探検クラブの力が必要な時は、いつでも電話して」
彼女はクスクスと笑う。
「憶えておくわ。じゃあね、花に吹く春の風を名前に持つ、風の詠み人さん。またいつか、会いましょう」
くるりと背を向けて夕闇の歓楽街に遠ざかる彼女。
「あの!」
僕は我慢できずに大声で呼び止めた。
確かめなきゃならないことがある。
「君の正体は……今の、女の子の君⁉︎ それとも……あの大人の君⁉︎ 」
「私はネモ」
彼女の澄んだよく通る声が夕闇を貫いて僕の耳を心地良く撫でる。
「変幻自在のネームハンターのパートナー。それ以上でもそれ以下でもないわ」
悪魔少女ネモ
〜風のスタッカート〜
〜〜〜 F I N 〜〜〜