電話と自転車の鍵の謎
今日は三連休の二日目だ。
住宅街の住人たちは一斉に出払い、外は閑散としていた。午前からずっと曇り空なのも、静かである原因かもしれない。
世間一般の皆様とは例外的に、休日なのにどこにも行かない吉田家であるが、今日は珍しく誰もおらず、今この家には俺一人しかいない。閑散としている。四人家族という小規模構成にもかかわらずこの家は広い。客間が三部屋もあるほどだ。今のこの家を振ったら、カラカラ音がするんじゃないかと、脈絡もなく思いついた。
そのとき、ドアのチャイムが前触れもなく鳴った。もちろん、前触れのあるチャイムなんてあまりないだろうが。
ドアベルやら電話のコールやら、呼び出し音はいつも予告なくなるから嫌いだ。携帯電話を持ち歩いている奴は、首に珠洲を漬けられているような気分にならないのだろうか。
俺はリビングの椅子から立ち上がると、廊下に出て電話の脇を通り過ぎ、転がるバスケットボールを蹴ってどかす。ようやくたどり着いた玄関のドアをノロノロとあけた。
前触れなく鳴るドアのチャイムはうるさいが、前触れなくドアの向こうに立っていたのが美人なら嬉しい。
というわけで、そこには一つか二つ年上のくらいの、ツインテールの美人さんがいた。何奴。名乗り、そして俺と仲良くしてください。なんて。
俺よりも背が高い……いや俺の背が小さいだけなのだが、こういうときなぜか哀しくなる。俺には姉が一人いるが、その人よりも俺の背は小さいと言うのだから……
「こんにちは」
彼女が丁寧に頭を下げた。
「美代さんいますか?」
「美代姉さんですか? すぐ戻ってくると思いますが、少し出かけています」
「出かけて……? おかしいですね」
玄関のお姉さんは首をかしげた。
その仕草も含めて何もかもが可愛くて、俺死んでしまうかと思いました。
「会う約束の時間がそろそろなので、来たのですけど」
「あ、実は先ほど母親から呼び出されて、病院に迎えに行きました。近い場所にあったと思うので、すぐ帰ってくると思いますよ」
「そうですか……」
彼女は玄関から一歩遠ざかり、横に退くかたちで俺に背を向けた。
彼女の仕草につられて、なんとなく外を見回す。
この家の庭もなかなか広い。
駐車場は車二台分あるし、さらに犬小屋は一畳ほどのスペースが取られている。もっとも車も犬も今はいないんだけど。
広いのにガランとした庭は、周囲のご近所が閑散としていることもあって、物寂しさを演出していた。一台だけある男用マウンテンバイクが静かな雰囲気を加速させている。一帯の空に陣取っているどんよりした雲が、いっそう湿っぽい気持ちを助長しているのかもしれない。
「美代の弟さん?」
いつのまにか振り向いた彼女が聞いてきた。ジッと俺を見ている。
「そんな感じですけど……ええっと、どちらさまでしょう?」と口篭って言うと、
「ああ、私は早川優子と言います。はじめまして」
また先ほどのように、丁寧なお辞儀。そんなに慇懃にされるとなぜか慌ててしまう。
「ああ、おれ吉田和夫って言います」
俺の挨拶に、彼女がなにか言いかけた時だ。ぽたりと天から一滴、水が落ちてきた。
上を仰ぐと、重い雲がポツリポツリと雨粒を落としてきている。おや、これはさすがに外で待っていろとは言えない。
「あの、中に入って待ちますか?」
「ご両親は?」
「二人とも仕事です。家に誰もいませんけど……」
多少警戒した視線を向けられたが、早川さんは少し考えてから玄関に入ってきた。やましい気持ちはないつもりなので、ちょっと警戒されている感じに傷つく。や、全くないとは言い切れないんだけどさ。
彼女が靴を脱ぐのを待って、リビングへと案内する。
玄関から真っ直ぐ伸びる廊下を電話のあるところで直角で右に向くと、リビングの入り口だ。
早川さんをリビングに座らせる、二人分お茶を入れた。
このまま「じゃ、ごゆっくり」と言い残して二階に引っ込めると楽なのだが、さすがに俺が直接知らない人物を残しそんなことをするわけにも行かない。かと言ってなにか話題があるわけでもなく、降り始めた雨のせいで「いいお天気ですね」という俺必殺の話題振りも封じられてしまった。
気まずい雰囲気が立ち込める。彼女もどことなく挙動不審だ。
「美代姉さんに電話かけてみますか?」
「……え? あれ?」
なんでしょうかその反応は。
美代姉は自他が認める変な人だが、その友人の早川さんも一風変わっているようだ。
「あ、わたし携帯電話もってますから、」
彼女は言葉を切ると、ポーチから携帯電話をとりだす。そして何故かな俺の顔色をうかがった。
「連絡しておきます」
ちなみに、電話嫌いの俺は、勿論携帯電話なんて持っていない。
「あのところで……」
早川さんが遠慮がちに聞いてきた。
「病院にお母様を迎えに行ったというのは?」
場合によっては不躾な質問だったが、この場合は問題ない。
「俺もさっきまでそれを考えてたんですよ」
「え?」
「あー。いえ。説明しないと難しいな……」
俺はリビングの出入り口から見える電話を指した。
「さっきそこの電話が鳴ったんですよ」
初対面の人には誠意を込めて接しよ。美人なら一層誠意を込めよ。というのは我が父の言葉だ。いい加減、母を刺激するような言葉を食卓で発するのはやめて欲しい。
まあともかく、そんなわけで割と忠実にさっきあった事を彼女に話しはじめる。
俺も美代姉も休日は遅起き者だ。丁度十二時を過ぎたころ、朝食兼昼食をとり終え一段落着き、美代姉が食器を洗い始めた。
俺が二階に上がろうと、リビング出たとき、目の前にあった電話が鳴った。
美代姉が電話を取る。相手は手短に用件を伝えたらしく、美代姉が何か喋る前に電話は切られた。
「誰?」
「私のお母さん。なんか『お母さんの自転車の鍵を持って病院まで迎えに来てほしい』だって」
美代姉は首を傾げて答えた。看護婦は休日を関係なく出勤しているので、こんな連休のあいだでも仕事が入っている事が多々あるのだ。
「何でこんな事頼むのかなぁ?」
「家に鍵を忘れていったんじゃないのか」
「いや、それって変だって」
あ、きた。美代姉の不思議がり癖が始まった。と思った。
何にでも疑問をもつ悪癖だ。
昨日の夕食時にも「七味唐辛子とフォークがあって面白かった」と話が始まって、以降二十分ほど彼女の推理を聞かされた。
「ほら見てよ。自転車の鍵とかって、ここのキーシューターにかけてあるでしょ?」
美代姉が電話台のすぐ上を指さした。
確かにそこに、小物を掛けておくためのフックや、手紙の類いを貼り付けて置けるようなホワイトボードがある。
彼女はそこから鍵を二つつまんだ。
どちらもキーホルダーも何も付いていない。そこらへんの町の自転車屋で200円くらいで売ってそうな安っぽい鍵だった。
「こっちがお母さんの自転車の鍵。ね? こんな目立つ場所にあるから、そうそう忘れようがないよ。そもそもの自転車の鍵を家に忘れて、どうやって病院まで自転車を持って行ったの?」
あー。たしかにそうだ。
でも、別に不思議なことはないじゃないか。
「それスペアキーだろ? キーホルダーつけてないし。そこに残っててもおかしくないと思うけど。大方、職場で鍵を落として、それを届けてくれってことじゃないのか」
「ううん。お母さんは出歩くとき、自転車の鍵を財布の中にしまう。だから落としたりはしないんじゃないかな。財布をなくしたのなら、電話口でもっと慌ててただろうし、そういう雰囲気じゃなかった」
相手の雰囲気に基づく推察だから、確定的な情報ではない。だがまあ、美代姉がそういうならそうなのだろう。
「それにお母さんの自転車のロックって、鍵穴に鍵を入れてタイヤのロックを解いたら、ロックを閉めるまで鍵が外れないような種類なのね。だから運転中ジャラジャラしてうるさいからって理由で、キーホルダーをつけてないだけなんだ。この鍵は、スペアキーじゃないよ。普通、スペアキーって別の所にしまって置くものでしょ。ここに置いてあるわけがない」
なるほど。彼女の言うことには筋が通っているように聞こえた。でも……
「ええっと……だから? なにが不思議なのさ」
「わかんないかなぁ」
美代姉は不満そうなアヒルみたいに口を尖らせる。
「それより早く届けに行かないと、病院で待ってるんじゃね?」
「あ、そうか。ふーんだ。……行きながら一人で考えるもんね」
あしらう様にしたもんだから拗ねてしまったようだ。
玄関から美代姉が出て行ったあと、俺はリビングに戻って彼女が言ったことを考えた。
つまり、だ。
自転車のメインキーはついさっきまでこの家ににあった。
鍵を差し込まないとロックが外れない自転車は病院にある。
はてな? これはどういうこっちゃ、という訳だ。
まさか自転車を車で病院まで運んだわけでもないだろう。
前回病院に、ロックをかけた自転車を置いて家まで帰ってきて、鍵をそのキーシューターにかけて今日の朝病院に行ったとか、そんなややこしい事も考えにくい。
「そこまで考えてたときに早川さんが来たんです」
「美代とは入れ違いだったわけですね」
早川さんが苦笑を漏らした。
「今日は美代にお茶の入れ方を教わりに来たんです」
そういえば、美代姉は高校で茶道部に入っていた。
「驚かせようと思って約束の時間より早く来たんですけど、失敗みたいだったみたいですね」
え、なぜそんな世間話をする。俺が話した事は無視された……?
と思っていたら、彼女は話を戻した。切り替えが早いと言うか、マイペースと言うか。
「やっぱり、おばさんは鍵をなくしたんじゃないでしょうか? そう考えるのが一番自然だと思います」
「それだと、メインキーが家に残っていたのが不思議じゃないですか」
「ならお母様は、スペアキーを持っていったんだと思います。そしてそれを仕事場の病院で無くしたんじゃないですか」
さっき俺が説明した事を繰り返していないか……?
彼女のマイペース具合にすこしイライラしながら、
「何故わざわざ仕舞ってあるスペアキーを持って行ったんですか」
うーんと、彼女は首をかしげ、ツインテールを揺らした。
「お母様が出かける時に、メインキーがキーシューターに無かったからじゃないでしょうか」
は?
「この推測が正しいとすると、」
言いながら彼女は「うーん」と首をかしげた。例の可愛い仕草だ。
「朝、お母様よりも早く誰かがメインキーを持っていった、ということに成りますね。そしてお母様が出かけていってから、和夫さんが話したお昼時までのあいだに、持ち去られた鍵がキーシュータに戻されたのです」
どうでしょうか? と最後に自信がなさそうな素振りで早川さんは締めくくった。
俺は彼女の言ったことを頭の中でかきまわす。そして思い至った。
「もしかして、わかってるんですか? 俺が美代姉の弟ではないと」
彼女は、困惑気味にはにかみ、
「そのとおりでして」