死への行進
こうして俺はタケダシステムへ面接を受けに行った。書類審査は今まで通り簡単に通った。書類で落とされたことがほとんどないのは密かな自慢だ。
面接では聞き飽きたようなことを聞かれたが高飛車に答えないようにして、入るときはしっかりノックして入った。
そのおかげかどうかはわからないが、今は無事この会社に就職して何とかやっていけている。富田さんは口は悪いが優しい人でいつも仕事を教えてくれる。社員さん達ははみんな中年で若い人がいないのでプライベートで会うのは富田さんだけだ。富田さんも中年だけど他に話す人がいないので仲良くしている。
給料は決して高くはなかったが仕事があるだけ今までよりはマシだった。社員はだいたい百人ほどの小さい会社だがブラックな雰囲気はなかった。ただ役割分担が雑で人事部長の富田さんも技術系の仕事をしていたりする。
仕事の内容はプログラミングとか他社ホームページの管理など、大学で勉強したことと直接関係はなかったが、「そんなもんすぐ慣れる。今は雑用しながら仕事覚えていけ。東大出てるんやったら、それくらいすぐ覚えれるわ」と言われて一から勉強している。今では仕事に使えるまでも行かないがプログラミング言語もある程度わかってきて、他の社員さん達の会話にもついて行けるようになった。
あの最悪な一ヶ月はそんな風にして俺が仕事に慣れ始めた頃始まった。
ある日の終業時刻のこと。キッカケは社長の一言だった。
「さっきジーテルから大口の仕事が入ったんだが、納期に間に合いそうもない。済まないが明日からみんな会社に泊まってくれ。手当はちゃんと出すから」
「デスマーチか……」
社員の誰かが呟いた。雰囲気は伝染していって周囲のみんなの気分が暗くなる。
「デスマーチって?」
わけがわからない俺は富田さんに訊ねた。
「わかりやすう言うたら、無理な仕事や。時間も足りひん、人も足りん、上の都合で決められた理不尽な仕事や」
まあ、俺はあまり仕事できないし、いても邪魔になるだけだから帰らされるだろう。恐ろしい仕事もあるもんだなあ。
「他の会社に比べたらここのは優しいもんやで。残業代だって出えへん所もあるんやから」
「そんなの法律違反じゃないですか!」
「法律なんて破ってなんぼの世界やねん、ここは。内とこの社長はまとも……いや、優しすぎるさかいこんなんやけども、他んとこは平気で殴ったり蹴ったりしよるからな」
周りでは頷いている人も多い。そうとう良い職場なのだろう。他を経験していないので俺は何もわからないが、そう言うのならそうなのだろう。
「へぇ、そうなんですか」
と、軽い返事を返してその日は帰った。
翌日、終業時刻に帰ろうとすると富田さんに止められた。
「何帰ろうしてんねん。今日からは定時に帰れへん言うてたやろ」
「僕もなんですか? 僕、仕事も遅いですし足引っ張るだけですよ? 給料泥棒に思われますって」
「いや、残れ。時間ももうないんや」
「……でも」
「いいから残れ!」
そう言って押し切られてしまうあたり、俺はまだまだなんだろう。
それから一週間、俺たちは会社で寝泊まりしながら仕事をした。最初出来ることは少なかったが、仕事と仕事の間隔が短い分作業を覚える速さは上がっていって、すぐに一般社員と同じくらいには働ける位にはなった。しかし、仕事が出来るからと言って苦痛や疲労が消え去るわけではなく、俺の不満は会社生活一週間目で爆発しそうだった。
一週間胃に、コンビニの弁当と栄養ドリンクと水しか入れておらず、それ以外に入っている物は胃液と空気だけだった。おそらくその二つの割合が八割を占めていて、残りの二割を弁当とドリンクが占めているのだろう。もしかしたらそれすら消化されきっているのかもしれない。
そんな状況が五日も六日も続いて、俺はどうしても帰りたくなった。特に理由はないが、強いてあげるとすれば気分を変えたかった。精神が崩壊しそうだった。東大に入るとき俺は尋常ではない努力をし、これが人生最大の苦痛だと思っていたが、そんな物は苦痛に入れてはいけない、と思うほど辛かった。
「家のガス栓閉め忘れていたと思います。帰らせてください」と、富田に言った。いい加減休ませろ。
「大丈夫だ。火事にはなってない」
「なんでわかるんですか。もう何日も誰もニュース見てないし、ネット見てないし、ネットも見てないのに」
そうだ。俺だけじゃない。富田さんも俺も他の社員も、社長だって一切休まず働いている。俺だってそれくらいわかっている。でも、他社を出し抜いても騙しても、それで休めるのなら殺してだって俺は休みを手に入れたい。
「帰ります」
俺は使っていたパソコンをそのままに立ち上がった。みんな疲れ切っている。今俺を止める余力なんか残っていないはずだ。
そのまま歩いて廊下に出ようとしたら後ろから手首を掴まれた。すぐに振り払おうとしたが力が強くて振り払えない。振り返ると富田さんがいた。
「甘ったれんな!」
平手を食らって俺は、何か言おうとしたが言葉が出なかった。
「お前、どんだけ恵まれた環境におれるか、理解でけへんのか? 今逃げてどうなる? 今のお前には仕事があり給料があり残業代もあるんやぞ! 残業代を出す会社なんか普通に探してもほとんど見つからへん。それに社長まで働いてくれてる。これ以上何を求めるっちゅうんや! 罰当たりなこと、してるんとちゃうか」
仕事がある、か。俺に富田さんのケータイを渡してくれたホームレスに仕事はあったんだろうか。もしかしたら今、ここで働いていたのはあのホームレスじゃなかったのだろうか。
「もう無理です」
「無理なことちゃう。出来るはずなんや」
富田さんの手は振り払えなかった。そこに答えはある。まだ人の限界ではないはずなのだ。
「殴ってすまんかったな。ちょっと目ぇ覚ます為に休憩しよか」
富田さんはそう言って俺を喫煙室に連れて行った。
少したばこ臭かった。
「あと三週間や」
納期まで三週間、と言うことだろう。
「はい」俺は大人しく返事をした。
「初めては辛い。でもな、この会社はお前を手放したくないねん」
「東大出、だからですか?」
「そんなもん関係ないわ!」富田さんはそう言ってたばこに火を付けた。「若いからや」
「ええこと教えといちゃるわ。ここの社長はな、中卒やねん。ほんでもってわしは高卒や。それでも社長は社長でわしは部長や。会社は潰れてない」
「何が言いたいんですか?」
「この会社作ったとき、わしらはまだ二十二やった。お前さんが大学で勉強しとる歳でわしらは会社作ったんや」
「それはバブルとか高度経済成長とか」「最後まで聞け」
「言いたいことはな。若さがいるんや。若さは強い。金で買えん」
「ならどこかに求人乗せればいいじゃないですか。若い人が集まりますよ」
「そんなんで人集めても、良いのは見つからん」
これは褒められているのだろう。たぶん。
「ああ、もうこんな時間経っとったわ! そろそろ仕事戻らんとな。続きはまた今度や。一つだけ言うといたるわ。新卒と中途じゃ就活のしんどさはダンチやぞ」
結局流れで仕事に戻った俺は残り三週間、一度も家に帰らず仕事をやりきった。納期には間に合ったみたいだった。
「はい。お疲れさん」
社長は連勤最終日に肩を叩いてそう労ってくれた。何とも言えない明るい感情が体中を駆けめぐり疲れが全て吹き飛んだ。
富田さんも「ようやったな」と言ってすぐに帰った。他の社員さん達も各々喜びの声を上げていた。
ありがとうございました。