太平洋の夜に
別のサイトで公開している作品を、加筆して掲載しました。本来であれば、大幅に加筆したいところなのですが、他に長編、中編等を書いているため、時間がなく少しばかりの改訂となりました。敢えて父島に上陸させないのは、上陸後の別の長編を書いているためです。
平成23年12月29日題名変更(旧題:流れ星)
流れ星が一つ、視界の右上から左下に落下した。目で追おうとしたけど、眼球の動きよりも俊敏に、それは夜空に消えていった。いいさ。またすぐに流れ星が来る。そんな気持ちで空全体にどっかりと視野を拡大した。
隣に立つ美夏子は、手すりに腕をかけて、仰ぎ見て口を開けながら、僕と同じように流れ星を探していた。時折急いで顔を横に動かす仕草が、ただ星を見ているわけではなく、流れ星を追跡していることを理解させた。船の上を流れるやや強い風が、美夏子の長い髪をなびかせ続けていた。
僕らは何でそんなに必死に、流れ星にすがっているのだろう。それぞれが何を願っているのか分からないし、敢えて聞こうともしない。それはただ無関心なわけではなくて、聞くのが怖いというのが大きい。聞いてしまって、相手が自分とは異なる考えを持っていることを知るのが怖い。だから敢えて聞かないし、悟らせない。交際して三年を超える僕らは、ずっとそんな付き合い方をしてきたような気がする。
流れ星がまた流れた。今度は目で追うことをせず、僕は美夏子の横顔を盗み見た。彼女は流れ星にくっつけるように顔を必死に動かして、何やら無言で口ずさんだ。それを凝視することは避けた。無言の訴えを聞いてしまって後悔はしたくなかったから。
船は洋上を孤独に漂い、真夜中の航海を続けていた。星が良く見えるように、船の明かりを消してくれている配慮はありがたい。漆黒の太平洋に僕らが乗船する一隻だけが存在していて、月や星から輝きを受けて闇にぼんやりと浮かび上がっている気分になる。船首が海水を砕いて波を蹴散らす鈍い音が、船のエンジンのうなりと、風が吹きすさぶ音の合間にかすかに聞こえてくる。この最上階の甲板に、かかるはずもないしぶきがかかってほしいと願うほど、沈黙がずっと続いていた。
「おがさわら丸」は小笠原諸島父島を目指している。東京の竹芝桟橋を昼の十一時に出て、翌日昼の十二時半、父島に着く。二十五時間半の航海のちょうど真ん中あたりを、今僕らは通り過ぎようとしていた。美夏子はじっと固まったように動かない。手すりに両肘を付いて腕を組むような体勢になって、しばらくはここを動かないと決心したような覚悟が感じられる。
僕と美夏子は市役所の同期で、僕が住宅整備課、彼女が市民課だった。
僕は「特定優良賃貸住宅」、通称「特優賃」の運営を担当していた。「特優賃」とは国と市から家賃に対する補助金が出る公的な家族世帯向け賃貸住宅であり、配属された初日、特優賃が何であるか尋ねると先輩は、
「君の仕事は安楽死させることだよ」
と言い放った。
特優賃は家族向けの賃貸住宅が不足していた二十年前にできた制度で、今となってはそれほど需要もなく、巨額の税金をつぎ込んで運営することに市議会からもしょっちゅう批判が集まる。しかも、古い制度の「地域特別賃貸住宅」、通称「地域特賃」も特優賃の中に混在し、それらは家賃補助の方法が異なり、更に特優賃の中にも年々家賃補助の割合が下がる傾斜型と、補助の割合が一定のフラット型に分かれ、更に更に補助金も「公的賃貸住宅家賃対策調整補助金」と「地域住宅交付金」の二種類に分かれ、国庫補助率もそれぞれ異なるという、複雑にするために複雑にしたとしか思えない制度だった。
この厄介な制度を、どう着地させるか、どう終わりにさせるかという僕に課された使命は、公務員が向いていると僕に自覚させるのに十分だった。僕は他人を押しのけたり、人の目を気にすることなく何かを主張するのがものすごく苦手だった。制度は制度としてずっと存在していて、税金を無駄にすることを防ぎ、どう「安楽死」させるかという仕事は、僕のように積極性がなくてじっくりと仕事に取り組むタイプの人間にはぴったりだった。
美夏子は市民課で、出生届と死亡届を担当業務にしていた。彼女は良く、市民課の窓口を訪れた様々なお客の話をしてくれた。
手を取り合って出生届を提出し、「おめでとうございます」と告げると、揃って同じように歯を出して笑った新婚夫婦。震える手で、お互いの震えを止めるように固く手を握り、生まれたばかりの我が子の死亡届を提出した夫婦。
「やっぱり、一番印象に残っているのは青田陽子ちゃんかな」
二人で飲む時は必ずそこと決まっている、「鶴巻」という飲み屋のカウンターで、美夏子は焼酎のグラスを揺らしながら言った。
青田陽子は、行旅死亡人、つまり身元不明の嬰児だった。彼女は、百貨店の女性用便所で、へその緒が付いたまま産み落とされて息絶えた。小さな両手は母親に抱きつこうとしたのか、強く握られていた。身元不明の赤ん坊は、発見された場所の市町村長が名付け、出生届と死亡届を同時に提出する旨、戸籍法に明文化されている。市長は嬰児に、「青田陽子」と名付けた。青々とした田んぼが広がるのどかな季節に、太陽の光を受けてしっかりと天国に行ってほしいという、市長の願いが込められていた。
「あの赤ちゃん、まだ身元が分かってないの?」
夜空に流れ星を求める美夏子に声をかけた。彼女は、しばらくはそのままの体勢で黙って空を見ていたけど、ゆっくりと僕の方に向き直って口を開けた。
「生活福祉課のワーカーが官報に載せたけど、まだ身元は分からないみたい」
それを聞いて、僕は小さく「ふうん」とだけ返事をした。流れ星を見つけたので、頑張って目で追ったけど、見失った。
「一度もお母さんに抱いてもらえなかったなんて、かわいそうすぎるよね」
美夏子は言葉一つ一つを丁寧に噛みしめるように言った。僕は無言でうなずいて、静かに同意を示した。彼女は沈んだ気分を振り払うように随分高い声をもって、話題を変えた。
「ねえ、シンは何で小笠原に来たかったの?」
海面にトビウオが跳ねた気がした。夜にも飛ぶのだろうか、不思議に思いながらぼんやりと海を見つめた。
「俺の、祖父が死んだ島だから」
短く答えて、そんな回答じゃほとんど答えになっていないかと思ったけど、美夏子はそれ以上聞いてこなかった。彼女は何も言わず空に視線を向けたままだった。
* * *
僕は美夏子との結婚を迷っていた。彼女が妻に相応しくないということは全くない。むしろ、僕の方が彼女には不釣り合いなくらい、だめな男だろう。ここぞという時に決断ができない自分には、心底嫌気がさしていた。美夏子は遠慮を知っているし、気配りができるし、僕の父も母も気に入るだろうことは十分分かっていた。
でも、いざ結婚となると踏み出せなかった。二十八歳の僕は、もっといい相手がいるんじゃないか、きっと運命の相手がいるんじゃないか、という、美夏子には決して知られてはいけない感情をどこかで抱いていた。
彼女と結婚すれば僕も彼女もきっと幸せになれる、それは嫌になるほど理解できているつもりだったけど、「そもそも、何で結婚しなきゃいけないの?」という難解な疑問を投げつける悪魔が僕の中に存在していた。
役所の職員同士で結婚している先輩に助言を頼んでも、
「二馬力は楽だぞ。奥さんは出産後も職場に戻ってこられるし」
などと、どこかで聞いたような答えしか返ってこなかった。
そういえば美夏子が、特優賃について詳しく聞いてきたことがあった。
「例えば、公務員同士の夫婦だったら、特優賃はどれくらい補助が出るの?」
彼女はあくまで例えだと強調したけど、強い関心を隠すような素振りを伺い知ってしまい、強烈な罪悪感に襲われて心臓を縛られるような鋭い痛みを感じた。
僕のアパートがある駅の前で待ち合わせして、早く着いた美夏子が本屋で結婚情報誌を眺めているのを見つけてしまった時など、目をそらしてしばらくは無意味に時間をつぶさなければならなかった。
大学に入学する際に一浪した僕よりも一つ下、二十七歳の美夏子は、頬を赤らめて口元を緩めながら、ウェディングドレスや披露宴の演出に思いを馳せているのだろう。その気持ちを知っているはずなのに、敢えて知ろうとしない自分自身を、顔の形が変わるくらいまでぶん殴ってやりたかった。
戦死した祖父が父島に眠っている。その事実だけで今回の父島行きを決めた。特に深い意味があったわけじゃない。ただ、祖父の側に行けば、優柔不断な自分が少しは変わるんじゃないか、そう思っただけだ。故郷の土を踏めずに、南海の島で死んで行った祖父は、生まれて間もない、まだ一度も抱いたこともない僕の父を遺して死んで行った。祖父の側に行けば、祖父の無念が、僕に力を与えてくれるんじゃないか、そう他力本願に妄想していた。
父島に行くと告げた時、父は、病床からやせ細った身体を起こし、眼差しをまっすぐと虚空に向けた。かつて恐怖と畏敬の念をもって見つめていたとは思えない程小さくなった父の背中を、とても直視することができなかった。
「島の話を、楽しみに、しているからな」
父が目を向けている場所には何もないはずなのに、視線ははっきりと固定されていて、確かに何かをとらえているように思えてならなかった。市役所を定年退職して五年、父は役所の仕事に生きる活力の全てを奪われてしまったかのように、急速に衰えていった。
* * *
美夏子が僕を見たのが分かった。僕は満月に視線を凝らしていた。少し経って横目を向けると、彼女は水平線の彼方を見つめているように映った。そういうことが幾度も繰り返されて、深夜の海上は涼しさをぐっと増して、僕は本当に、美夏子と、世界にただ二人だけの存在になったかのような幻想に浸った。彼女の細い肩から伸びる腕が、潮風を受けて無力に鳥肌を立てているように思えた。
僕は背中から美夏子を包んだ。彼女は、少しだけ、ほんのちょびっとだけ斜め後ろを振り返ったけど、すぐ正面に向き直った。彼女の後頭部に僕の顎があたる格好になって、軽く小突くように後頭部を押すと、かち上げるように押し返してきた。彼女の髪の匂いが、潮をはらんで湿った空気を運んできた。長い髪が頬をつつく度、風に慣れかけた頬に適度な刺激を与えて、背中を濡れた布でなぞられたような緊張感が走った。
ただ添えていただけの腕に力を入れて、彼女の肩を抱いた。肩から二の腕を挟んで包むように覆った。二の腕に女性らしい繊細な弾力を感じて、身体の温もりが伝わってきた。彼女は長いまつげをくるんと巻きあげるように上目遣いに僕を見上げて、少しだけ開けたふくよかな唇から、吐息を僕の腕に吹きかけた。
そのまま彼女の身体を抱きしめた。腕の中で、肩をすぼめた彼女は背後の僕に体重を預けてきた。僕は後ろに倒れないように均衡を保ちながら、美夏子の身体を包み込んで体温を逃がさないようにした。彼女は僕の腕にゆっくりと頬をこすりつけて、肘の内側、一番柔らかいあたりに強く唇を押しつけた。
「流れ星」
美夏子が首を伸ばすように上空を向いた。僕が彼女の視線を追うよりも早く、流れ星は消えていった。
「流れ星」
また美夏子が言った。彼女の視線を追って流れる星に追いついた。僕たちは流れ星が見えなくなってもずっと、星が消えた空と海の境目を見つめていた。