あの店の扉
木村和也は、いつも通り仕事が終わった後、疲れた足で家路を急いでいた。道端には、コンビニの明かりがぽつりと灯り、遠くのカフェでは音楽が流れている。普段なら何気なく通り過ぎる風景も、今日は少しだけ目に留まった。
歩きながらふと目にしたのは、近くに最近オープンした小さな雑貨屋だった。和也はその店の前を何度も通り過ぎていたが、なぜか中に入ろうとは思わなかった。店の雰囲気が、どこか異質で、見ているだけで心が落ち着かなくなるような気がしたからだ。
しかし、今日は違った。何か引き寄せられるように、和也は足を踏み入れた。
店内は薄暗く、ほのかなランプの明かりが揺れている。棚には古びた本や、奇妙な形をしたオブジェが並んでいた。香りも独特で、ちょっと昔の映画館のような、懐かしくも不安を感じさせるような匂いが漂っている。
店主は、白髪混じりの老人だった。彼は和也に気づくと、穏やかな笑顔を浮かべて言った。
「ようこそ、いらっしゃい」
和也は少し戸惑ったが、特に用事もなかったので、無理に話しかけることなく店内を歩きながら見て回った。古いレコード、アンティークの時計、奇妙な形をしたガラス細工――どれもこれも、どこか非現実的で、普通の店では見かけないようなものばかりだ。
そして、和也の目がある物に止まった。それは、一見してただの古びた扉だった。
「これは……何ですか?」
和也がその扉に近づくと、店主が微笑んで答えた。
「ああ、それは『扉』だよ」
「扉?」
和也は驚いた。扉が雑貨店の一部として陳列されているのは、何かおかしな話だった。
「その扉、どこへでも繋がるんだ。ただし、誰もその扉を開けることはできない」
和也は笑ってしまった。まさか、そんな話が本当にあるわけがないと思っていた。
「つまり、ただの飾りってことですか?」
「いや、飾りではない」
店主は、少し真剣な表情で言った。
「誰かが心から願い、扉を開けようと思ったときに、それは開く。しかし、開けるには覚悟がいる」
和也は少し考え込み、冗談半分で言った。
「じゃあ、もし僕が開ける覚悟を決めたら、どこに繋がるんですか?」
店主はにっこりと微笑んだ。
「それは、あなた次第だ」
和也はその言葉に、まるで子供のようにワクワクしてしまった。こんなに奇妙な話があるものかと、半信半疑で扉に手をかけてみた。触れた瞬間、扉がひんやりと冷たく感じ、目の前がわずかに歪んだような気がした。
「何か変わった……?」
和也がその扉をさらに押し開けようとした瞬間、店主の声が響いた。
「本当に開けたくなったのか?」
その声には、どこか重みがあり、和也は一瞬ためらった。でも、どうしても気になって、扉をさらに押し開けた。すると、扉の向こうには――
見慣れた街の風景が広がっていた。
いや、正確には、見覚えがあるが少しだけ違う風景。通りに並ぶ店の看板が、微妙に違ったり、あのカフェの場所が少しずれていたりする。和也は目を見張った。
「ここは、どこだ……?」
まるで自分が、少しだけずれた世界に来てしまったような感覚。自分が普段歩いていた道なのに、すべてがわずかに違う。目の前に見える人々の表情も、どこかよそよそしく、少し不安になるようなものだった。
そのとき、背後から店主の声が聞こえた。
「扉は、過去や未来、または他の可能性を繋げるものだ。あなたが開けたその扉は、あなたが心から望んだ世界の一部に繋がっている。戻るかどうかは、あなた次第だ」
和也は驚きと興奮の入り混じった気持ちで振り返ったが、店主の姿はもう見当たらなかった。振り返ると、扉は元の場所にあり、店内には何もない。すぐに扉を通り抜けると、外の風景はいつもの街並みに戻っていた。
その後、和也はあの店を何度も探してみたが、二度と見つけることはなかった。あの店が、あの扉が、本当に存在したのか、ただの夢だったのか、それはわからなかった。ただ一つ確かなことは、あの扉が開いた世界には、確かに何か大切なことが隠されていたような気がした。
そして、和也は思った。もしかしたら、扉はただの道具で、重要なのはその先に何を見つけるかだと。
現代の街で起きたちょっとした不思議な出来事。普通の生活の中に隠された、異次元がすぐ向こうに存在するのかもしれなかった。




