6 コマドリ亭
コマドリ亭の屋根と同じ青色に塗られた扉を恐る恐る開けると、カランと澄んだ音がした。ドアベルの音で入ってすぐ正面にある受付カウンターの中にいた、少しふっくらした四十代くらいのおばさんが顔をあげた。
「もしかして、パンジーちゃんかい?」
「え?」
なにも言ってないのにいきなり名前を呼ばれたものだから、びっくりして固まってしまった。私が固まっている間におばさんが受付カウンターから出て来る。
「なかなか来ないから心配してたんだよ、無事でよかったよ」
茶色い髪に茶色い瞳、どことなくユーゴさんに似ている。きっとこの人、ユーゴさんのお母さんだ。
「あの、どうして私の名前……」
「ああ、さっきユーゴが昼を食べに帰って来てね、パンジーちゃんっていう女の子が来てるだろうって言うからさ」
ユーゴさん、お昼ご飯は家に帰って食べるんだね。確かに門からここまで近かったから、お弁当を持って行くよりもいいのかも。
「来てないって言ったら心配していたよ、休憩が終わるからって戻って行ったけど」
「私、そこの魔道具屋さんに寄っていたから」
「なんだゴルドの店にいたのかい、何か買い物?」
「えっと……雷の腕輪を見せてもらって」
「買ったのかい?」
「まだ悩んでて」
「魔道具は、安くはないもんね。戦うための魔道具は、特に高いよ。でもパンジーちゃんみたいに可愛い娘は、護身用に一つ持っておいた方がいいと思うよ」
「ノエさんにもそう言われました」
「可愛い娘だって?」
「いえ、まさか! 護身用に持っておいた方がいいって」
「わかってる、冗談だよ。あの朴念仁がそんな気の利いたこと言うわけないさね」
ユーゴさんのお母さんは、からからと笑った。その明るい笑い声が私の緊張をほぐしてくれた。
この場所は安全だと、なぜか思える。ついさっき怖い目にあったばかりだから、この安心感は大きい。
「それでパンジーちゃんは、泊まりでいいのかい?」
「はい、お願いします」
「アスカム山から一人で来たんだって? 偉いねぇ、無事で本当によかったよ」
そう言いながらユーゴさんのお母さんはカウンターの中に戻り、何かノートみたいな物を出した。多分、宿帳なんだろうと思う。
「パンジーちゃん、字は書けるかい?」
「あ、はい」
日本語だよね、書けるよね。もし違っても私、リュシオンに世界言語もらったから書けるはず。
「じゃあ、記帳をお願い。名前を書くだけでいいからね」
ユーゴさんのお母さんからノートを受け取ると、ページの半分ほどに人の名前らしき文字が並んでいた。よかった、読める。読めるけど、でもどうしてカタカナ?
「……」
どうやらこの世界、日本語は日本語でも書き文字はカタカナだけみたい。店の名前もカタカナで書かれていたし、このノートに書かれた人の名前も全部カタカナだ。
ということはつまり、私もカタカナで書くべきなのだろう。
ユーゴさんのお母さんにインクをつけるタイプのペンを渡されて、うっかり『クルミトウカ』と書きそうになるのを寸前で気づいて、『パンジー』と書いた。日本で記帳するなら住所や電話番号も書かなければいけないところだけれど、この世界では名前だけでいいらしい。私が書き終わるとすぐにユーゴさんのお母さんが、きれいな字だねぇと言いながらノートを手に取った。
「パンジーちゃん、何泊にしとこうか? 延長は出来るからね、適当でいいよ」
「一泊、おいくらですか」
「三千五百エンだけど、パンジーちゃんはユーゴの友達だから三千エンにしておくよ」
「え、いいんですか?」
「いいよいいよ」
門で少し話しただけのユーゴさんとは、まだ友達とは言えないと思うけれど。でも確かユーゴさん、宿代を安くするよう頼んでくれるって言ってたよね。
ここは、ご厚意に甘えることにしよう。
一泊三千円だとしたら、日本でホテルや旅館に泊まるより遥かに安い。お父さんがカプセルホテルなら三千円ちょっとって言ってたのを聞いたことがあるけど、私は泊まったことがないからカプセルホテルがどんな感じなのか知らないんだよね。カプセルって言うくらいだから、狭いんだろうなとは思っているけど。
魔力晶を売ったお金が六万円あるから、ニ十泊できる。でも食事代もいるし、全部使っちゃうわけにはいかないよね。
「とりあえず三泊で」
「宿泊代だけ前払いなんだけど、構わないかい?」
「はい」
やっぱり前払いだった、先に魔力晶を売っておいてよかった。もっとも、そのせいで怖い思いをしちゃったわけだけど。
ノエさんにもらった銀貨を一枚渡すと、おつりはそれより一回り小さい銀貨だった。大きい銀貨が一万円で、この小さい銀貨が千円なんだろうな。
「朝食と昼食は、五百エン。夕食は、八百円だよ。食べるようなら前日までに言っておいてくれたら助かるけど、パンジーちゃんの一食分くらい何とでもなるから大丈夫だよ」
「あの、食事代の支払いは?」
「何日分か、まとめて払ってくれたらいいよ」
「はい、わかりました」
食事代は、日本と同じくらいか、少しだけ安いかな?
どんなものが出て来るのか、ちょっと不安。魔物のお肉とかでも調理されてたら食べられると思うけど、形が残っていたら無理かも。あと、虫とかも無理だ。いつだったかお母さんがイナゴの佃煮をお土産でもらって来たことがあったけど、見ただけで悲鳴あげちゃったし。
「さっそくだけど、昼は食べるかい? 今日は、チキンのテリヤキドーンだよ」
……ん?
何か今、ものすごく馴染みのある料理名が聞こえたんだけれど。
「お腹を満たしてから、ゆっくり休んだらいいよ。部屋はね、二階の角の一人部屋だよ。パンジーちゃんの部屋のすぐ下が私らの部屋だから、夜に何かあったら窓を開けて叫べば聞こえるよ。真夜中でも起こしてかまわないからね」
これ鍵ね、と渡されたのは金属のいかにも鍵ですという感じのものだった。ホテルとかだとカードキーが一般的だから、こんなずっしりと重い鍵はなんだかかえって新鮮だ。
「テリヤキドーン、どうする?」
「いただきます!」
「食堂は、こっちだよ」
食べ物なら、実は持っていたりする。マジカルバッグに入っている、お土産の袋。あの横長の大きめサイズの紙袋には、おじいちゃんのパンがいっぱい入っている。もうくるみベーカリーは閉めてしまったから、おじいちゃんはわざわざ私と、おじいちゃんのパンを楽しみに待っているお父さんとお母さんのために焼いてくれたのだ。
お腹がすいたらとりあえずはあのパンを食べたらいいと思っていたんだけど、照り焼き丼と聞いたら確かめずにはいられないよね。もしも私が想像している照り焼き丼だったら、この世界にはお米があって、普通に食べられているってことだ。
「ここが食堂だよ」
食堂には、カウンター席の他に四人掛けのテーブルが四台あった。中学生の頃、春んちの家族旅行に一緒に連れて行ってもらった時に泊まったペンションの食堂がちょうどこんな感じだった。クリーム色の壁に、床は板張り。いい意味でこじんまりとしていて、暖かい雰囲気がある。
お昼の時間は過ぎてしまっているのか、食堂には誰もいなかった。私が壁に飾られたタペストリーや、出窓のところの花なんかをきょろきょろと見ていると、カウンター席の向こうにあった扉が開いて、縦にも横にも大きいがっしりしたおじさんが出て来た。グレーの髪にグレーの目で、どこかでいきなり会ったら怖いと思うような大男だ。でもユーゴさんのお父さんなら、きっとこの人だって優しいに違いない。
「あんた、ユーゴが言っていたパンジーちゃんが来てくれたよ」
「ああ、無事でよかった。ちょっとそのあたりを見に行こうかと思っていたところだよ」
ユーゴさんのお父さんは、見た目で想像するのとはまるで違うおっとりとした喋り方だった、お母さんは、元気で勢いよく喋る感じで、どちらもいい人なのがにじみ出ているみたいだ。
「ご心配をおかけしてしまったようで、すみません。私、寄り道してたから」
「ゴルドの店に行ってたんだってさ」
「ああ、そうなのかい。ゴルドは今、いないだろう。ノエが店番してたかね」
「はい、ノエさんでした」
「ノエは、ぶっきらぼうだったろう。でも、悪いやつじゃないからね」
「はい、色々教えてくれました」
ユーゴさんは、顔はお母さん似で、がっしりとした体つきがお父さん似なんだね。この二人の息子なら、ユーゴさんが優しいのも納得だ。
「あんた、テリヤキドーン頼むよ。ほらパンジーちゃん、ここ座って」
ユーゴさんのお母さんがカウンター席の椅子を引いてくれたので、そこに座る。座った途端に、自分が疲れていたことに気づいた。何だろう、急に体が重くなったみたいな感じ。そういえば、森を出発してから今までずっと歩いてるか立ってるかだったな。
「パンジーちゃん、何か飲むかい? 水は、五十エン。ムギチャとコウチャは、百エン。コーヒーとミルクは、二百エンだよ。エールやワインも置いてるけど、パンジーちゃんにはまだ早いかね。水を自分で出すなら、グラスを貸すよ」
うん、ツッコミどころが多すぎて、どこからツッコめばいいのかわからないな。
まず、水が有料なのは別に驚かないけど、麦茶あるんだ……ということは、緑茶もありそうだな。ペットボトルのお茶、そんなに大切にしなくてもよかったかも。
エールやワインが私にはまだ早いって、多分また子供だと思われてるね。ユーゴさんは、十二、三歳かと思ったって言ってたけど、お母さんはいくつだと思ってるんだろ。
この世界の成人がいくつかは知らないけれど、ファンタジーでは若い頃からお酒を飲むイメージがある。多分だけど、日本と違ってこちらの世界の十七歳は、普通にお酒が飲める歳なんじゃないかな。
まあ、それはいいか。別にお酒が飲みたいわけじゃないし。
あと、水を自分で出すっていうのは、魔法で出すってことだよね。それくらいの魔法を使える人は、めずらしくないってことかな?
「麦茶、お願いします」
「あいよ、ムギチャね」
ユーゴさんのお母さんはカウンターの中に入ると、ガラスピッチャーみたいなのからグラスに茶色い液体を注いでくれた。一口飲んでみたら、本当に麦茶だった。なんだか、ものすごくおいしい。
「はぁ、おいしい」
「それは、よかった。お代わりは、いるかい? 二杯目は、サービスにしとくよ」
「わ、うれしい。ありがとうございます」
残りの麦茶をごくごくと飲み干して、遠慮なくグラスを差し出すとユーゴさんおお母さんは二杯目を注いでくれた。いつも何気なく飲んでいる麦茶がこんなにおいしいなんて、やっぱり疲れていたのかな。
「あの、お名前を聞いてもいいですか」
ユーゴさんのお母さんが最初から私の名前を知っていたせいで名乗ることがなくて、そのせいもあってまだ名前を聞いていなかった。ユーゴさんのお母さんて呼ぶのは、きっと変だよね?
「あたしゃ、リタって言うんだ。みんな、リタおばさんとか、リタかあさんって呼ぶよ」
「リタ……かあさん」
おばさんか、かあさんかの二択なら、かあさんだなと即決だった。どうしてかわからないけれど、そう呼ぶのが自然な気がした。
「さっきのデカいのは、マルロっていうのさ。マルロとうさんって呼んでくれたら喜ぶよ」
「はい、マルロとうさん」
「うれしいねぇ、娘がもう一人できたみたいだ」
「娘さんもいるんですか?」
「ああ、ユーゴの妹がね。ルシアっていうんだけどね、もう結婚して、旦那と二人でドーンの専門店をやってるんだ。よかったら食べに行っておくれ、わりと評判はいいんだよ」
「きっと行きます!」
ドーンって、丼だよね? さっきテリヤキドーンって言ってたから、私の予想通りなら多分そうだと思う。専門店ということは、牛丼屋さんみたいな感じなのかな。ユーゴさんの妹さん、ルシアさんのお店には、絶対に行ってみよう。
「パンジーちゃんは、本当にいい娘だねぇ。ユーゴの嫁にならないかい、そうすればあたしの本当の娘になるさね」
「おいおい、ハーフエルフの娘さんに何を言ってるんだよ」
奥の扉が開いて、木製のトレイを持ったマルロとうさんが出て来た。あの奥が厨房になってるんだね。
「おまたせ、熱いから気をつけて」
そう言いながらマルロとうさんが私の前に置いてくれたのは、タレの匂いが鼻をくすぐる、見紛うことなき照り焼き丼だった。
お米、あったよ!
異世界転移ものの主人公たちがみんな苦労して手に入れる日本人の主食がこんな普通に出て来るとか、さすがリュシオンが作った世界だな。
「おいしい!」
味もしっかり照り焼きだった。鶏肉は柔らかくてジューシーで、ご飯は日本のブランド米にだって引けを取らないおいしさですよ。
よかった、これなら食生活の心配はなさそうだ。お金だって、魔力晶を作って売れば困らなさそうだし、なんとかこの世界で生きていけそう。
九十年だ、私はここで九十年生きなければならない。
両親も、祖父母も友達もいないこの世界で。
「おやおや、そんなにおいしかったかねぇ」
食べながら私は、いつの間にか涙を流していたらしい。リタかあさんが手ぬぐいで私の頬を拭いてくれる。
「ここまで一人でよく頑張って来たね、もう大丈夫だよ。何の心配もせずに、ここでゆっくり休んだらいいさね」
優しい声が、私をさらに泣かせてしまう。
アスカム山から来たというのは嘘だけど、遠くから一人で来たのは本当なの。涙が止まらない、あとからあとから湧いて出て来る。
マルロとうさんが鼻をぐすぐす言わせながら涙ぐんでいた。ああ、マルロとうさんって本当にユーゴさんのお父さんだなぁと思った。
「大丈夫、大丈夫だよ」
リタかあさんのぬくもりがじんわりと染みて来るようだった。大丈夫っていう言葉は、なんでこんなに暖かいんだろう。私、誰かに大丈夫だよって言って欲しかったのかな。
赤ちゃんをあやすようにリタかあさんは、私の背中をトントンと叩いてくれた。その優しい振動に癒されながら私は、甘辛い照り焼き丼をもぐもぐと食べ続けた。




