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42 手紙(エピローグ)

 優の闊達な声が、生駒の推論を引き継いだ。


「それは海の家の話。そしてインタビューのテーマは音。具体的な音の話。海の家の関係者たちの数々の話の中にも、誰かさんの気持ちを波立たせる内容が含まれていた。丸山さんの列車の轟音、金谷さんの潮騒、生駒の走る靴音、立成さんの話に出てきた渚に残した足跡という曲、松任さんのドゥオモの静寂に出てきたラの音の話。これらの音は、三十年前の事件を取り巻く音の世界の一部を切り取ったものだったんじゃないかな」


 潮騒が間断なく聞こえている須磨浦海岸。

 海の家ではその年爆発的に流行った渚に残した足跡が流れていた。

 犯人はシャワーを浴びている美弥子を覗いていた。暗い欲望に支配された恍惚感が、その曲のリズムによって増幅され、酔いしれていた。

 それ以降、一種のテーマ曲のように、犯人の汚れた心に特殊な効果をもたらす音楽となったのかもしれない。


 覗かれていることに気づかれ、叫び声をあげられそうになったとき、逃げればいいのに、思わず美弥子の口を塞いでしまった。

 しかし、それからどうすることもできなくなってしまう。

 手を放したとたんに美弥子は叫び声をあげる。

 じりじりとした時間が過ぎていく。それは高々数秒のことだろう。

 わずかそんな短い時間で、犯人は美弥子や己自身、そして多くの人間の一生を決めてしまうおぞましい決断をしてしまった。

 ただただ自分の保身のための、愚劣な決断を。

 列車が近づいてきた。汽笛が鳴り響く。

 それを合図にしたかのように、犯人は美弥子の首を絞めた。

 その間、長く尾を引く汽笛が鼓膜を振るわせ続けていた。


 犯人はそれ以来、生涯その音が苦手になった。

 苦手というより、精神を歪ませる音、正気を失わせる音となった。

 汽笛のように鳴り続けるラの音が。


 線路の下の抜け道を通って犯人は逃げた。

 列車が頭上を通り過ぎていった。轟音を響かせながら。

 すでに張り裂けそうになっていた心臓を更に震わせて。

 しかし、走る。逃げる。バタバタっと足音をたてて。


「どうです? 海の家の関係者がインタビューで話したことは、三十年前の殺人犯に、どうしてもあの事件を思い出させる音の仕掛けとなっていたのよ。関係者が揃ったのは偶然なんかではない、仕組まれているんだと思わせるに十分な内容だったのよ」

 優が芳川を見据えながら話していく。

「そして、パーティのお開きのころ、どこかで音が鳴り続けていた。最初はソの♯に近い音階だった。だけど、徐々に気温が下がったためにパンチングメタルの振動数が変化し、ラの音に近づいていった。そう、犯人にとって呪われた音階に」


 ただでさえ追い詰められていた不安定な精神状態に、鳴り止まないブザーの追い討ち。

 面子、理性、そんなものがみるみるうちに、しかも確実に壊れていった。

 そして正気さえも失い、つまり、音の圧力に胸を押しつぶされて、再びもはや人とは呼べない殺人鬼の道へと転がり落ちていった……。


 もう、芳川は両手で耳を塞いで眼をつぶっていた。

 しかし、最後の力を振り絞るように、震える唇から言葉がこぼれ落ちた。

「仮定の話ばかりだ。なんの証拠もない」


 生駒の胸の内では、もう制御できなくなるのではないかと思うほどの怒りが、なんらかの形を伴って口から飛び出そうと暴れまわっているようだった。

 しかし、これを押さえ込める余裕が生駒にはある。

 誰にでもあるのだ。人としてのまともな理性があれば。


 松任が、もう真っ青な顔をしてうつむいていた。

 塊田瑠奈を芳川から遠ざけるために画策した卑怯な行為。瑠奈の嫌いな音を、パーティ会場で鳴り響かせるという異常なアイデア。

 それは思いもよらない結果をもたらしてしまったのだった。

 崇拝して止まない芳川の心を狂わせ、母を殺させるという悲劇を生んでしまったのだ。


 松任の体が震えだしていた。

 生駒の視線を追って、立成も事情を察したかもしれない。

 しかし立成には、どうすることもできやしない。ゆっくりと天井を見上げ、まぶたを瞬かせた。

 生駒にしても、今、松任に必要なものがなになのか分からなかったし、分かったところで生駒が用意してやれるものでもない。


 すみよしの中には、恐ろしいまでの様々な思念が渦巻いていた。

 張りつめた空気の中で、一箇所だけ、腐臭を放っているところがあった。

 そこに、もはや哀れな外道に成り果てた芳川了輔が座っていた。

「なんの証拠もない」と、うつろに繰り返している。

 立成が立ち上がった。

「売買契約は成立しているが、破棄したい。弁護士と相談する。芳川さん、あんたの土地は汚らわしい。事業化する気は全くなくなってしまった」

 そして立成は、生駒に、すまないといった。

「ええ」

 もちろん生駒も、この仕事を請け負う気は失せていた。


 芳川は立成には応えず、

「特に、今この女が言った音の話は、お笑い種だ!」

と、こちらもガタリと椅子を蹴立てて立ち上がった。

「どっちにしろ、私が犯人だということに結びつかない!」

 優ががっくりと肩を落とした。

「あーぁ。特定音階嫌悪症って変な病気かもしれないから、せっかく、そうでしたって言わせてあげようと思ったのに。救いようがないな、こりゃぁ」

「なんだと!」

 芳川の体のどこかから、ブチッと何かが引きちぎれる音がしたようだった。

「このメス豚!」

「ハハッ。本性が出てきた」

「言わせておけば!」

「いいかげんにしたらどう? 見苦しい」

 芳川が椅子を蹴飛ばし、カウンターを回りこもうとした。黙って立成が立ちはだかる。

「そこをどけ!」

 優はビクリともしない。

「証拠は上がってるのに」

「なんをぬかす!」

「警察の取調室で見せてもらえるよ」


 厨房の暖簾が、たくし上げられた。

「ここでお見せしますよ」

 男が出てきた。

「警察です。すべて聞かせていただきました。で、これですがね、生駒さんと三条さんのおふたりから預かったものです」

 背広の内ポケットから、茶封筒を取り出した。

 中からビニール袋を引っ張り出す。白っぽいかけらがぽつんと入っていた。


「こんなものを家の床下に隠し持っていた気持ちを、お聞きしたいものですな」

 刑事が、芳川の目の前にその袋をかざした。

「なんなんだ、これは! ふざけるのもいい加減にしろ!」

 外道の言葉にはもう関心を示さず、優が柔らかい声を出した。

「さすが日本の警察。変なところで手間を省くんやね」

「違いますよ。生駒さんと三条さんに敬意を表してってところです」

「ハハ。じゃ、それがなんなのか、私から説明しましょうか。タイムカプセルを自分で取りに行くという話。駅弁の容器に入れたタイムカプセル。子供っぽい遊び」

 芳川が真っ青になっていく。


「それをいまさら掘り出しに行くってさ、とってつけたような話。ノブは先回りしてそれを手に入れた。それがこれ。すぐにピンと来たわ」

 芳川の体が、ぐらりと揺れた。

「戦利品……なんや。こんなものを後生大事に。ふざけやがって……。くっ、この」

 芳川がその場に崩れ落ちた。

「この男は、伊知さんのストラップと金谷さんの携帯も、汚らわしいコレクションに加えるつもりやったんやろ」

 生駒は、怒りとやるせなさに体の震えが止まらなかった。


「どこに隠してある? ストラップと携帯。日本の優秀な警察に手間を取らせる前に、白状したらどう? 他人様の役に立てるとしたら、もうそれくらいしかないよ、あんた」

 白いプラスチックのかけら。

 色は抜け、針は錆びて溶けてなくなっていた。

 警察の鑑定によれば、あの夏の日、生駒が美弥子のブラを止めてやった緑色の安全ピンの残骸だった。


 ユウが生駒の腕に、柔らかい手を乗せた。

 生駒は、泡を吹いているのではないかと思うくらい、怒りで声が出なかった。

「ノブ、こんなやつに腹を立てること自体が、あほらしいよ。空耳に支配されちゃう男だよ、こいつ」


後日


 生駒は瀬謡の店を覗いた。

「よお」

「あ、今日はひとりなんだ」

「あいつもたまには、歌の仕事があるんだってさ」

 カウンターの中の松任が、ちょっと残念そうな顔をした。

「なかなか、そこもサマになってますね」

「そうでしょー」


 芳川事務所は解体し、松任はひとりで税理士事務所を開くことになった。

 ただ、それだけで食えるはずもなかろうと、夜はおでん屋すみよしでアルバイトを始めたのだった。

「これ」

「わ! 私に?」

「そう。僕らふたりから。選んだのはユウだけどね」

 たまご色のエプロン。

 松任は早速それを首に掛けた。

「うれしい! ありがとう!」

「それとこれ」

 茶封筒を出し、松任に渡した。

「拘置所から送られてきた」

 封筒には立成と署名があった。

 長い手紙だった。

「読んでいい?」

「どうぞ」と、瀬謡が笑った。

「僕宛なんだけど、松任さんのことも書いてある」


 生駒は、耳は甲子園で始まった日本シリーズに傾けながら、眼は松任の瞳の動きに注いでいた。

 松任は読み初めのうちこそ厳しい顔をしていたが、やがて顔つきがほぐれてきて、読み終えると懐かしむように一部を読み返し、穏やかな顔をして便箋を元通りに畳んだ。

 生駒はなにもいわなかったが、一瞬絡んだ松任の潤んだ瞳が、かすかに笑った。


「瀬謡さん。立成さんの例のプレゼントさ、あれ、実は自分の娘に渡してくれないか、ということだったらしい。ノクターンのオルゴール」

「なるほどね」

「でも、立成さんは松任さんのことを……、まさかね」

 瀬謡がポツリといった。

「まさかじゃないかも。立成さんはこの店で、結婚前の松任さんと顔を合わせているんだから」

「ん?」

「だって、松任さんの旧姓は」



皆様、いかがでしたでしょうか。

このお話、実は自分自身の須磨での海の家でのアルバイトの体験、というかその時の空気や匂いみたいなものを書きたくて、書き始めたものです。だから、ストーリーには無理があると思います。そんなことで人は狂うかい!

しかしまあ、自分としては楽しんで書いたものでございます。

ご意見、ご評価をいただけるとうれしいです。

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