41 冷めたひろうず
芳川了輔、当時、二十四才。金谷謙吾、当時、二十二歳。
芳川は遊び仲間となった金谷にそそのかされて海の家の更衣室を覗いた。しかし気づかれてしまい、思わずその女性を殺してしまう。
金谷は芳川が犯人だと言い出せなかった。共犯にされたらたまらない、ということだったのか、漁師である金谷の父親と大手の海産物加工業であった芳川の父親の力関係が作用していたのかもしれない。
あれから三十年。
ふたりの関係も、あの事件以降は切れた。
順風の人生を歩んできた芳川。そして思いつきで始めたブログ。
ただ、これがつまずきの元だった。思いもかけない人の輪が形成されていくことになる。
伊知のインタビュー記事には、娘時代は垂水に住んでいてバイクに凝っていたと記されている。
この時点で、芳川は自分が殺した娘の妹だと気がついたかもしれない。
しかしもし気づいたとしても、まだその偶然は芳川にそれほどのダメージを与えることはなかった。
インタビューブログは連載を続けていく。
丸山の番になった。丸山は雑談の中で、須磨の海の家でアルバイトをしたことがあると話した。芳川の実家が須磨にある、という話を受けてのことだ。ただ、この話はブログには掲載されていない。
そして、金谷健吾が登場した。
金谷は話のテーマを潮騒とし、自分が海の家の経営者の息子であると匂わせた。
三十年前の事件であっても、その犯人は、忌まわしき海の家の屋号がカナヤだったことを、そして昔の自動車教習所時代の友人の名前が金谷であることを覚えていたに違いない。
金谷健吾という名が、昔の記憶の中に現れてきたのだ。
伊知、そして丸山を挟み、今度は金谷。
不安にはなったろう。少なくとも気分はよろしくない。
しかし芳川は、そんなことをおくびにも出さない。まだ、偶然の域だと考えたのだ。
もちろん海の家のくだりをブログに載せるつもりはなかった。
追い討ちを掛けるようなことが起きた。それはパーティの日。豪華なプールサイドでのことだった。
生駒までもが、あの海の家の関係者かもしれないと分かったのだ。
しかも生駒は、金谷から紹介された人物。
芳川は急に不安になった。実は金谷は、すべてを知っているのではないかと。
つまり今、目の前にいる芳川が、昔の遊び仲間であり、また海の家の事件の犯人である芳川と同一人物であることを知っているのではないかと。
もし、元は知らなかったとしても、バーでの会話、つまり、生駒が芳川邸の現場は須磨の関守町だと言ったときの金谷の反応は……。
あるいは、自分は気づいているぞという脅しに見えなくもない反応は……。
実際、その時点で金谷の方も、目の前の税理士があの芳川了輔だということに気づいたことは間違いない。
現に金谷から、とんでもないことに気がついた、あんたにも関係したことや、おもしろいことになるぞ、という電話が生駒に掛かってきている。
芳川はバーでの金谷の反応を見て、猛烈に不安になった。
しかも、テラスで生駒と丸山が海の家の話題で盛り上がっているとき、金谷が、へえ~、須磨の海の家でバイトかぁ、と言って、芳川に眼をやった。
気づいているぞというように。
さらに、芳川にとって驚くべきことが起きた。
伊知に向かって、立成がとんでもないことを言い出したのだ。
芳川が殺した娘、井端美弥子の名を出し、当時は云々と。
芳川の記憶の中には、立成という名前もあった。
ニュースで見た名。
立成は三十年前、井畑馨、今の伊知馨の恋人としてあの事件に立ち会っていたのである。
もう偶然でもなんでもない。何かが仕組まれている。
芳川はそう信じ込んだ。
そしてトドメともいえるような伊知の一言。
あの男を許せない。一日たりとも忘れたことはない。
それは立成に向けた言葉だったが、芳川はそれを自分に向けて放たれたと受け取った。
伊知と金谷が、情報を共有していることを確信したのだった。
ことは急を要する。
すぐに金谷と伊知の口を封じなくてはいけない。
芳川はそう考えた。時効になっているとはいえ、あの悪事が公けになれば己の今の地位や名誉は瓦解してしまう。
それは耐えられないくらいに恐ろしいことだった。
あるいは金谷に強請られるかもしれない。
そうなる前に。
一瞬の迷いもなく、芳川は一気に金谷と伊知を殺してしまう決断をした。
まずは金谷。もっとも危険な人物。
スライドショーが始まり、客の関心がそちらに向いた。
頃合を見計らって二階の娯楽室のバルコニーに急行し、気持ちを冷やしていた金谷に襲い掛かった。そして、身元の判明を遅らせるためにと携帯電話や免許証などを奪い、そのまま土佐掘川に投げ落とした。大きな水音がしたが、幸い豪雨の夜。
次は伊知。
三日の夜、北海道出張から帰ってくる伊知をマンションの駐車場で待ち伏せた。
そして携帯電話や領収書を使ったくだらない工作を施して、あわよくば金谷に罪を擦りつけようとした。
三十年前に金谷から聞いて、彼らがいわば幼馴染だということは知っていただろうし、パーティでの出来事によって、今も彼らが全く見知らぬ仲でもないということを知っていたから。
そして芳川は、立成と生駒と丸山にも注意を払わねばと思ったはずだ。
しかし、立成にはそんな必要はなかった。
札幌から帰るなり、金谷を突き落とす様子を見ていたぞ、と告げられたからだった。
その場で土地代金の値引きを了承させられてしまったが、強請ってくる間は放っておいてもいい。いつか始末を付ける必要があるとしても。
次に気になるのは丸山と生駒だ。
特に、聞こえよがしに海の家のことを話していた丸山。
とりあえず、自分で感触を確かめに行った。強請ってくるようなら、それはそれで立成同様の扱いでいい。取り急ぎ困るのは、三十年前の事件を警察に垂れ込まれることなのだから。
しかし丸山は、そのことに気づいている様子はなかった。今のところは、まずは安心だ。
生駒はどうか。瑠奈の話によればこちらも気づいている節はない。しばらく放っておいてもよい、と芳川はそう判断した。
そして、もうひとり。
芳川が気になる人物がいた。
生駒は喉の渇きを感じた。
しかし、一瞬たりとも話を途切れさせたくはなかった。
今話したことが穴だらけの仮説であることは十分承知していた。
ただ、名指しをした限りは、ここで反論をされたくはなかった。
ビールに口もつけず、一気に話を進めていった。
「そもそも、ブログに例の事件の関係者がなぜ集まることになったのか、と芳川も考えたはずです。先ほど保留にしておいた二番目の課題です」
今、生駒の顔を見て話を聞いているのは、誰もいない。優さえも、空になった皿を見つめている。
「すなわち、ある人物が、インタビューを受けた伊知さん、丸山さん、金谷さんの関係に気づき、なんらかの意思を働かせたと考えてみましょう。その結果、生駒そして立成さんへと続きます」
瀬謡の視線がちらりと立成を見やった。
「それを画策した人物とは誰か。もちろん三十年前の事件について詳しく知っている人です。私や丸山さんや金谷さんや立成さんが、あの事件の関係者であると予測でき、金谷さんに対して立成さんをインタビューにと示唆できる人。それは誰でしょう」
瀬謡の視線が生駒に向いた。
「可能性として、四人の名前を挙げることができます。伊知さん、立成さん、瀬謡さん。そして、もうひとりは松任さん」
瀬謡の視線は松任に流れていった。
「そうです。旧姓、伊知歩美さん、殺された伊知馨さんの娘さんです。この答えは芳川にとって、考えるまでもなかったでしょう。松任歩美さんは、以前は旧姓の伊知という名前で芳川の元で働いていたのですから」
優が目を上げて、芳川を見据えた。
「私は焦りました。もし三条や私の推論が間違っていなければ、いえ、間違っているとは露ほども思っていませんが、次は松任さんが狙われるかもしれない、と」
芳川がグニューという妙な唸り声をあげた。
もう、声も出ないのか。
罪を認めてさっさと頭を垂れる潮時だというのに、そこまで腹は座っていないということだろう。
「どうです?」
返事はない。
生駒の解説は推論だらけで、その欠点をつけるはずだと、まだ必死に考えているのかもしれない。
生駒は最後の解説を試みることにした。
ただ、もはや芳川に聞かせるものではない。
松任に、そして立成に向かって話すことだった。
「保留にしておいた課題の二つめ。この人の輪を結んだのは松任さんだと思いましたか?」
返事はない。
「ふむ、何のために? そう、松任さんではありません。それは伊知馨さんです」
立成の目がすっと細められて感情の動きを隠した。
「伊知さんは三十年前の事件の関係者の名前をフルネームで覚えていました。ブログが丸山さん金谷さんと続いた時点で、三十年前の事件のことに思いが至りました。もちろん、幼馴染である金谷さんがあの海の家の息子であることは元から知っています。丸山さんのフルネームを見て、海の家のバイトではないかと思ったわけです」
立成が目の隅で丸山を捉えている。
「伊知さんの想像が膨らみ、思いがけないことに気づきました。私も、そして金谷さんから以前紹介された立成さんも、そうではないかと」
生駒は話しながら、自分のこの長い解説がなんになるのだろう、と思った。
「バイトであった私はともかく、当然のことながら伊知さんは立成さんに関心を持ちます。彼女は金谷さんに立成さんの人となりを確認したことでしょう」
冷めてしまったひろうず。おでん鍋からむなしく立ち上る湯気。何も映さないテレビ。
急にむなしさを感じた。
しかし、最後まで話さずにはいられない。
怒りの感情を押し殺して生駒は話す。
「間違いない。あの男だ、ということになりました」
立成の細い目は閉じられてしまった。
「そこで、ひとつのアイデアが浮かびます。伊知さんは、金谷さんに伝えます。立成さんに次のインタビューを頼んではどうかと。しかし、金谷さんはその意図に気がつかず、私にインタビューを頼みます。立成さんとはすでに疎遠になっていたからでしたが、立成さんにという人もいたんだが、と私に言い添えたのです。ただ、私が次のインタビューを立成さんにバトンタッチしたことで、結果として伊知さんのアイデアは実現することになりました」
生駒は松任を見た。
宙に視線をさまよわせている。
「さて、伊知さんの意図とはいったいなんだったのでしょうか。たくさんの新しい人の輪が結ばれました。消えかかっていた人と人の繋がりが浮き彫りにされました。こんな愚劣な事件が起きてしまったブログでしたが、伊知さんはこれを利用して、あるひとつの人の輪が結ばれることを目論んでいたのではないかと私は思うのです。つまり、松任歩美さんに立成さんを引き合わせようとしたのではないでしょうか。立成さんをブログに登場させることによって、芳川の部下として働いている娘と出会う機会が生まれるかもしれないと。母として……」
松任の瞳が揺らめいた。
立成が不安そうに目を開けた。
「しかし、今、私がこう申し上げたからといって、その繋がりを手放しで歓迎しているわけではありません。あの男を許せないといった伊知さんの言葉。それは相手の気持ちを逆撫でするオルゴールを遊び半分で再び贈ってきた立成さんの無分別に対する言葉でしょう。立成さんがどういう考えだったのか、私は知りません。しかし、伊知さんの気持ちに立ってみれば、その品は忌まわしい記憶を呼び起こすものだったのです。深く傷つけられた大学生時代の思い出。自分への裏切り。決して許すことのできない行為……。彼女にとって、その品はそれらを思い起こさせるものだったのです」
生駒は大きく息を吐き出した。
「では、私の話はこれくらいにしておきます。詳しいことは申し上げませんし、正直に申し上げると、すべてが推測でしかありません。後は、松任さんの個人的な思いを尊重したいと思います」
疲れを感じた。
投げやりだとは思ったが、こう言って、推論を締めくくりたいと思った。
「それから、最後に松任さんにお知らせしておきます。あなたをはねた加害者は、立成さんではありません。警察に調べてもらいました」
間髪いれず、優が口を開いた。
「音っていうテーマがおもしろかった」
松任の目が、すっと優に移動した。
「インタビューの中ではどんな話が出たのかなあ。ブログに掲載されていることもされていないことも含めて。私はすべてを把握することはできないけど、誰かさんの心を締めつける話題が出たんやろね。普通なら、たまたま偶然に出た茶飲み話として済ませておける程度の話。聞き流しておけばいい。でも、その男はじわりと囲い込まれていくような気持ちがしたのよ。その話は……」




