37 ぜひお力を
三条が鋭い声を出した。
「ということだったんですね」
生駒と三条とはすでに様々なことを話していた。言い忘れていることはないくらいに。
このふたりにしても、あの推理に自信を深めていることだろう。ここからは三条に任せるしかない。
それに瀬謡は、自分がこの会合をリードしていく自信もなかった。
三条がパーティの日の馨の不可解な言葉の意味を松任に問うた。
松任は少し間を取ったが、この質問が出ることを予期していたのだろう。淡々とした口調で再び話し始めた。
「海の家で母の姉、つまり私の実の母、美弥子を守れなかったことを許せないと言ったのだろうと思いました。そしてその男とは、立成さんのことだと思いました。二階で盗み聞きをしたとき、立成さんが深々と頭を下げたからです」
話は核心に近づいていた。
「でも、後になってよくよく考えると、とんでもないことに気がついたのです。母は、私たちの家族を、と言いました。そうです。バラバラになったのは私たちの家族です。美弥子が殺されたことで当時の井畑家がむちゃくちゃになった、ということは聞いたことがありません」
瀬謡は固唾を呑んで松任の言葉を待った。
「とうとう私は気がつきました。立成さんがあの交通事故の加害者なんだと」
「なんだって!」
瀬謡は思わず叫んでいた。
全く予想もしていなかったことだった。
生駒や、そしてさすがの三条も口をあんぐり開けている。
「最も憎むべきはあの事故の加害者なんです。私はその人物が男性だったことを覚えているだけですが、母はその名を記憶していたのです。それをあのパーティの日、思い出したのでしょう」
「それが立成さんだと?」
「確かめるすべはありません。母にはもう聞けません。父や祖父は私と同様、すでにその男の名を忘れてしまっていました。母だけが覚えてくれていたんです。私は……、本人を問い詰めようかとも思いました。しかし、それが分かったからといって、どうなるものでもありません……」
とんでもない話が展開されていた。
三条の推理にも、このくだりは全く含まれていなかった。
その仮説は、立成が松任の実の父親であるというものだったのだ。
仮説の根拠は……、ない。演繹的な理屈はある。立成が松任の父親だとして、なぜ、そんな事態になってからも立成が馨の友人とされていたのかという点だ。
三条はこう解説してくれていた。
美弥子は妹の馨の恋人を奪い、子をもうけた。しかし立成は認知しようとしない。怒りが極限にまで達していた美弥子の両親は、生まれてきた女の子の父親がこんな血も涙もない男だということさえ許せなくなっていた。
だから、美弥子が殺されたとき、立成が美弥子の恋人なんかではないと断言したのだ。
結果的に、馨の「かつての友人」というかすかな記憶だけが、周囲の人々の中に生き延びることになった。
松任は言葉を詰まらせている。嗚咽が漏れ出した。
瀬謡の頭に松任の言葉が沁みこんでいった。
腑に落ちた。
立成の馨へのあのプレゼント。贖罪のつもりだったのか。だから、公言するなと……。
三条がなにごとかを呟いた。
眉間に皺を寄せ、睫毛を撫でている。
この先の展開は……。
立成が父親だという仮説など、もはや松任に聞かせられるようなことではない。
松任の瞳に宿った怒り。
「私には見えてきそうで見えてきません。正直に申し上げると、もしあの人が交通事故の加害者だとしたらという気持ちが、母の事件の解決とはまったく違う方向へと思考を導いてしまっているのかもしれません。もう、うまく考えることができないのです。ですから、今お話したことをお含みいただいて、皆さんにお考えいただきたいのです。どうかよろしくお願いします」
松任の眼から涙が溢れ出していた。
頭を下げた拍子に、カウンターの上にポタポタと落ちた。
瀬謡は黙って頷いた。
「ありがとうございます」
松任はカウンターを拭い、安堵のため息をついた。
ところが、三条は松任にぴたりと険しい目を当てている。
そして、はっきりとした声でいった。
「いいんですか? 立成さんが交通事故の加害者だっていう前提で。こんなことに念を押すのも変ですけど」
なかなか言える台詞ではない。
三条はあの仮説にまだ自信を持っているのだろう。
「ちょっと待って。三条さん、あの話はなかったことに、ね」
と、瀬謡は思わず止めにかかった。
しかし三条はニコリと笑いかけると、今度はふんわりと言った。
「私はさあ、松任さんの実のお父さんが誰かってことに関心があったんですけどね」
ああ、言ってしまう気だ。
「えっ」
松任の顔がさっと厳しいものになった。
「そんなことを……。いったい……」
「今、議論したいのは、かわいそうに殺された伊知さんのこと。あなたの不幸な交通事故のことじゃないわ」
三条が諭すように、そして半ば怒ったように言う。
「あなたの人生にとっては、その事故が最も重要で、ずべてのことをそこに結び付けたい気持ちは分るけどね」
松任は黙っていた。
「さっき、ご自身でもおっしゃったように、あなた、見えなくなっているのよ」
三条は容赦ない。
瀬謡は自分まで責められているような気がしてきた。
しかし、聡い松任は三条が言わんとすることに気づいたようだ。あるいは、自分でもその可能性に、本当は気づいていたのかもしれない。
「つまり、それは……」
松任の顔がみるみるうちにこわばっていく。
瀬謡は迷っている自分を感じた。
三条の推理と、松任の発想。
三条の推理が当たっているのだろうとは思うが、それではその先にある答えは、松任にとって……。
「立成さんも、あの日、美弥子さんと海水浴に行ったのは自分だと認めましたよ」
と、生駒が落ち着いた声を出した。
「その……、やはりあの人が……私の本当のお父さんだと……」
三条はゆっくり息を吐き出すと、
「松任さん、いずれにしろあなたの交通事故のことは、伊知さんや金谷さんの事件とは無関係です」
と、確信に満ちた声で宣言したのだった。
「……」
松任の指先が震えていた。
しかし、気丈にもすっと顔を上げた。
「あの人とは先日も事務所でお会いしましたが、実の父親としての実感は全く沸きませんでした。これは本当です。父はやはり育てていただいた父ですし、母はやはり母です。今となっては両親に申し訳ない気持ちで一杯です。実の父親には……、ぜひ、罪を……、償わせたい。でも、根掘り葉掘り警察に母の過去や伯母の過去を暴かれることは好みません。決して私の保身からそう言っているのではありません。私たちの家族がこれ以上バラバラになることに耐えられないのです」
三条がすうっと目を細めた。
つまり松任は、やはりこれ以上、この事件に関心を持たないで欲しいと言うのだろうか。それでは馨が……。
「松任さん」
瀬謡が思わず口にした呼びかけに、松任の言葉が重なってくる。
「聞いてください。でも、犯人に間違いないということになれば、話は別です。それが私の実の父親だとしても。捕まえることが優先されるべきですし、父も母も、そして金谷さんも、それを望むと思います。長々とお話ししましたが、皆さんにしかこんなことをお願いできる人は私にはありません。ご迷惑なことだとは思いますが、母のご友人として、ぜひお力をお貸しください」
瀬謡は深く頷いた。
生駒は神妙な顔で松任を見つめ続け、三条はグラスに手を伸ばしてニコリとした。




