34 偵察
「そうか。やっぱり生駒さんも僕を疑っているんだ。いったいどういうこと? さっぱり分からない」
「疑っている? なにを?」
「伊知さんの事件のことに決まっているじゃありませんか。どんなふうにでたらめを考えたら、僕が怪しいってことになるのかな?」
興奮してきたのか、先ほどまでのおどおどしたところは影を潜め、けなげに睨みつけてくる。
「誰もそんなことは言ってないんでしょう?」
やんわりと返すと、案の定、目つきが険しくなった。
「じゃ、どういうこと? 芳川さんが来たことも不自然だし、瀬謡さんは訳の分からない昔のことを詮索している」
「そうかなあ」
「あなたは、ふたりがなにを考えているのか、知っているんじゃないですか?」
「なぜ僕が? 知りませんよ」
「知らないはずがないじゃない! あんた自身も、店までわざわざ偵察に来たじゃない!」
「偵察? それは心外だな」
「じゃ、なんなの!」
丸山が妙に女性っぽい言葉で一気にボルテージを上げたとき、玄関ドアが勢いよく開いた。
優だった。
「ただいま!」
一応は社員らしく入ってくるかと思ったら、違った。
顔がこわばっている。
「ちょっと! 聞いた?」
バタバタと駆け込んでくるなり、かばんを肩に掛けたまま、机の上にあった新聞をバサリと広げる。
テレビ欄とラジオ欄に目を凝らし、ニュースは六時までないわね、と放り出した。
丸山をまるで無視している。
「おい、何が起きたんだ。それに、丸山さんが来てくれているぞ」
それでも優は、丸山に目もくれない。
机に両手をつき、
「金谷さんが死んだって!」と、叫んだ。
「なんで!」
丸山が椅子を倒してガバッと立ち上がり、うわずった声をあげた。
「どういうこと!」
「ラジオニュースでやってた!」
今日の午後一時、須磨浦海岸で男の死体が打ち上げられているのが発見された。
腐乱が進み、半ば白骨化していたが、東大阪市に住む金谷謙吾であることが確認されたという。
さっき、須磨駅で警察官が集まっていたのはそれだったのだ。
生駒はめまいがするほど驚いていた。
しかし、今は思考停止になってはいけない。
目の前に、真っ青になり、血の気の引いた唇を震わせている男がいる。
「殺されていたのか?」
首を横に振る優。
詳しいことは不明だという。
「大変なことになりましたね」
生駒は丸山に声をかけた。
懸命の努力をして、おだやかに。
「あ、三条さん。ちょっと席をはずしてくれないか」
優が目を剥いた。
「ちょっ、ノ」「さ、すまないね」「どういう」「さ、さ」
あくまで部下への厳命として押し通す。
優はくるりと背を向けると、乱暴に玄関ドアを押し開けて出て行った。
ついに丸山に一瞥さえくれなかった。
「丸山さん、もう少しゆっくりしていってください。さ、座り直して。ちょっとメールを送る約束がありますので、少しだけ待っていてください」
生駒は丸山を椅子に座らせてパソコンに向かった。
優に、丸山がシラをきっていることを伝えておかなければならない。
丸山さんは同じ海の家で働いていたんですってね、生駒も例の元銀行員に聞いたそうなんですよ、なんて言われたらおもしろくない。二十分ほどしたら、様子を見に来たという感じで戻って来いと書き添えた。
優の携帯のメルアドを、パソコンに入れておいてよかった。
「すみません。それにしてもなんというか……、驚きましたね。伊知さんに続いて金谷さんまで」
丸山は眉間に皺を寄せて、机の縁を見つめている。
応えようとはしない。
「丸山さん、いいですか? 立ち入ったことをお聞きしますが、怒らないで聞いてください。パーティの日、金谷さんに絡まれていましたね。あれ、どういうことだったんです?」
丸山はいよいよ辛そうな表情を見せた。
どんな反応を見せるか、なかば楽しみにしていたが、予想外にも応え方はしっかりしていた。
「それは……、他愛もないことなんです。彼はどうやら、僕の妻と付き合っていたことがあるらしくて。彼が失礼な言い方をしたものですから、ちょっとカッとしまして」
こちらが下手に出るより、ビシリと聞いてやった方が自分の立場が安定して対応しやすいのだろう。どんな相手とでも必ず上下関係をはっきりさせておき、自分が下の方が楽、という人がいる。丸山はその部類に入るようだ。
「そういうことだったんですか。とんだ災難でしたね。死んでしまった人にそんな言い方をするのは、すまないような気がするけど」
「芳川さんや他の方にも申し訳ないことをしました。せっかくの雰囲気を台無しにしてしまって」
「あなたが気にすることじゃありませんよ」
生駒の心臓は平静を取り戻しつつあるが、丸山も落ち着いてきたようだ。
「金谷さんは殺されたんでしょうか。それとも自殺なんでしょうか」などと言い出した。
「すぐにはっきりするでしょう」
「殺された可能性もあるわけですよね。そうだとしたら、一体どうなんでしょう?」
言葉遣いも元に戻っている。そろそろ追求再開だ。
「さっき、あなた、疑われているとおっしゃってましたよね。どうしてそう思われるんです?」
今度は丸山も声を荒げることはない。
「実は先日、芳川さんがお見えになったとき、海の家のことを話題にされたんです。おかしいでしょう。瀬謡さんもそう。いつのことだったのかとか、なんていう屋号の店だったのかと。伊知さんが殺されたというのに、そんな昔の話を、まるで世間話でもするみたいに」
「単に、パーティの続きみたいな話じゃないですか?」
「でも、そのパーティの参加者が殺されたんですよ。なにか意図があって、おふたりはあんな話を僕に聞いたんだと思うんです。まったく見当もつきませんが」
生駒は小さく頷く。
丸山が居住まいを正した。
「さっきはすみませんでした。興奮してしまって」
「いいんですよ」
「なぜ僕が疑われているのか、生駒さんはご存知だと思ったものですから」
「警察にマークされているということはないんでしょ。だったら、いいじゃないですか」
「それはないと思いますけど」
丸山の顔にまた不安が浮かんだ。
「僕も、アリバイとか聞かれましたよ。丸山さんも聞かれたでしょ。どうでした?」
この問いには逡巡するかと思いきや、
「ああ、それは完璧なんですよ」と、ほっとした表情を見せた。
「ありがたいことに」
笑みまでこぼれた。
「三日から、妻と二泊三日で信州の別荘に行きまして」
生駒も合わせて、口元をほころばせた。
「二晩とも、夜は麓の料理屋で食事をしました。その店の方が証言してくれまして、事なきを得ています」
優が戻ってきた。当然のように険しい目つき。
それを恐れたように丸山は帰っていった。
金谷の死亡原因は不明だった。
死因が水死なのかどうかについても明らかになっていない。
長い間、大阪湾に浮かぶ大小さまざまなゴミと一緒に波に揉まれていたため、無数の傷に覆われていた。
かろうじて着ているものは身につけていたが、眼鏡はなかったし、靴さえも履いていなかった。
死亡日時は九月八日の午後八時以降と推定されていた。
根拠は、その時点で生駒の携帯にメールを入れていることによる。ただ、金谷の携帯は発見されていない。
入水した場所の特定も困難だった。
八日の午後から発見されるまでの十日間、瀬戸内海の潮流は様々な動きを見せていたためである。
ただし常識的に考えれば、大阪湾ないし播磨灘のどちらかであろう。友ヶ島水道や鳴門海峡以南の太平洋ないし直島諸島以西の瀬戸内海で入水した可能性は、ゼロではないが極めて小さいということだった。
また、死体が発見直前に打ち上げられたのであれば、大阪湾の内奥部から流れ着いた可能性が高いということだった。