30 中年OLの自慢
松任歩美。
要マーク人物ということで生駒と優の意見は一致した。犯人云々という意味ではなく、推理の糸口になるかもしれないという意味である。
ただ、気になるといえば、立成と芳川の関係にも不審が芽生えていた。
契約直前になって芳川は土地代金を大幅に下げたという。土地に瑕疵があったということを聞かされていないし、芳川は急に金が要るという様子でもない。
彼ら以外にも気になる人物はいる。
というより、容疑者候補一号は、雲隠れしてしまった金谷であることは変わらない。
丸山はいわば変なやつだが、現在進行形では伊知との接点がない。
瀬謡と瑠奈については白、というのが生駒と優の立てた仮説だった。
「金谷さんからのファックスは今日もなし」と、優がファックス機を確かめた。
「電話もメールもなし」
「じゃ、事務所に行ってみよ」
いくらなんでもおかしい、と思い始めていた。
相変わらず金谷の事務所の電話は留守電のままだし、携帯は電源が入っていない状態。
もともと、ルーズさがあの男のキャラクターだといっても、さすがに不安になっていた。
警察は関心を持っているはず。だからといって生駒の不安が治まるものでもなかった。
「行ってみるか」
金谷の事務所は近鉄奈良線の高架の近くにあった。
下町である。まだ商店街に活気があり、多くの人が密集して住むことを楽しんでいるような街だ。
小さな雑居ビルの三階。
「なんともいえないよ、ここ……。埃だらけ。汚い……」
「しっ、聞こえるぞ」
安普請の雑居ビルの中廊下。塗装の剥げかけた玄関ドアが並んでいる。
脂の浮いた蛍光灯に、イベントザラスという金谷の会社の表札が照らされていた。
ドアノブを回そうとしたが、動かない。
「予想通りか」
「これ見て」
郵便受けに大量の郵便物や新聞が突き刺さっていた。溢れてしまって、脇に転がっているビールケースの上にも積み重ねてある。
「そうとう長い間、お留守のようやね。あ、ノブ、なに見てるん?」
「電気メーター。ほとんど回っていない。でも少しだけ回っているということは、電気が止められているわけじゃない」
「お、探偵ごっこ」
「ケッ」
「ちょっと、あんたたち」
突然、声がした。
「ここの事務所の関係者?」
と、中年の女性が近づいてきた。
「いえ、違いますけど」
「そんじゃ、ここの社長の知り合い?」
「はあ、そんなもんです」
ぼさぼさ頭の中年女性は、一応はOLなのだろう。よれよれの事務服を着ている。
ポケットに片手を突っ込みながら、
「じゃ、これ、なんとかしておくれ」
と、ビールケースに積まれた新聞やチラシの山を指差した。
「困るんやがな。こういうことされちゃ。整理整頓」
中年OLは、威圧するように腰に手をやって、睨みつけてきた。
「見てみ、どこの会社も狭いのを我慢してやりくりしているっていうのに、ここの人はいつもこんな調子や。勝手に捨ててしまうわけにもいかんし」
「はぁ」
「だいたい、留守にするならするで、新聞を止めりゃあいいのに」
「はぁ」
「ところでさぁ」
中年OLの声がにわかに秘密ごとめいたかと思うと、すっと体を寄せてきた。
生駒は思わず後ずさり。
「ここの人、なんか事件に巻き込まれたんとちがう?」
「え?」
「こないだ、警察が来てな。私が聞かれたんだよ」という。
警察に質問されたからといって、自慢するほどのことではないが、ここは驚いてやらねば失礼にあたる。
「え、そうなんですか」
すごいですね、と言いそうになったが、さすがにそれは思いとどまった。
「なんでも、重要な事件の関係者らしいよ」
事務員は重要な、というところを強調する。殺人事件の捜査なのだから、それはそれはとても重要だろう。
「へえ、どんな事件なんです?」
生駒は興味溢れるもの言いで、事務員の滑らかな口を期待する。
「さあ、それは知らんけど」
「はぁ」
OLは、それだけでは受けないと思ったのか、
「ここの社長ね、社長といっても社員はいないんだけどね、いつから姿が見えないかってことをしつこく聞くんだよ。私が分からないと言うと、それでも何かを思い出せって。テレビの刑事とおんなじことを言うんだね。なんだかおかしくなってさ。それまでは緊張してたんだけど……」
そんなどうでもいい話を続けそうになる。
「ここの社長は金谷という人なんですけどね、僕も探しているんですよ」
「ふーん。でも、あんた、刑事や金貸しには見えないけどねぇ」
事務員は初めて優に目を向けた。ハハア、という顔だ。最近やたらと出てくる消費者金融のテレビコマーシャルの可愛いオペレータか何かと勘違いしているのかもしれない。
「違いますよ。仕事の関係で打ち合わせをしたくって電話を入れているんですが、一向に出ないもんで、見に来たんです」
事務員は、また「ふうん」だ。
今度は値踏みするような目を向けてきた。
さ、そろそろ教えてもらおうか。
「で、いつごろからこの事務所は留守になっているんでしょうか」
「だから、それは知らないって言ったやろ」
「そうですか……」
「新聞を調べたら、分かるやん」
優の提案だ。お、それだ。
「ダメダメ。台風が来たとき散らばってしまって、捨ててしまったから。今そこに溜まっているのは、それ以降のやつ」
事務員は大げさに手を振って、優の鼻をあかした喜びを表した。
「でも、私がここの社長を最後に見かけた日はいつか、ってことは言えるよ」
それを先に言えよ。
「警察の人にも教えてやった」
はいはい。
「九月一日さ。台風が来るっからってんで、回覧板を持ってきたとき」
回覧板? この雑居ビルに? 驚きだ。そんな所帯じみたものが回ってくる貸しビルって。なんと庶民的な。
「そうなんですか。回覧板を……」
「いつもは郵便受けに放り込んどくだけなんやけど、至急回覧やったからね」
至急回覧ねえ。なんともいいようのない響き。
「はぁ。で、それは何時ごろです?」
「朝のうちさ」
「それ以降は誰も、金谷さんを見かけられていないんですね」
「他の人のことは知らんさ」
成果はそれだけだった。
しかしまあ、大きな成果なのだろう。パーティの日の朝以降は見かけていない、というのだから。
「老人ホームも行ってみるか?」
金谷がいつもボランティアで絵を描いている特別養護老人ホームの名前は聞いていたし、だいたいの場所は調べてきていた。
こちらの方には警察の手も回っていないかもしれない。
「オーケー」
「とはいいながら、聞くのは電話でいいだろ。それともなにか? 金谷さんのお母さんにも話を聞こうってか?」
「あ、そうやね、グッドアイデア」
「おい、あまり気が進まないぞ。神戸の垂水区だ。遠い」
「ホントは右に同じ」
「ということで、電話で済まそう」
電話口に出た老人ホームの職員は、金谷は今月に入ってから顔を見せていないと教えてくれた。そして、母親はとても心配しているので、会うことがあればそう伝えて欲しいと熱望された。
「なんだか、忙しくなってきたなあ」
そんな言葉と裏腹に、優が大きく伸びをした。
「へそが見えてるぞ」




