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22 安全ピン


ーーーーー0708 芳川ブログインタビュー19

十九番目にご登場いただくのは立成清次さん。

不動産の仲介をされている方です。仲介といっても、アパートの入居を斡旋するというような身近な不動産屋さんではなく、都心の大規模な土地を動かすというようなお仕事です。

お題は「別れの曲」


私の好きな音は、ショパンの「別れの曲」。

音というテーマには、こういうのもありですかね。

ネットでちょいと調べてきたことを披露してもいいのですが、なにせ付け焼刃。底の浅さも一緒に暴露してしまいそうなので、本当のことを申します。


実はショパンというのが、どこの国の人かも知りませんし、別れの曲の原題が何というのかも知りません。クラシックにはトンと疎くて。

しかもピアノ曲でしょう。

なんたら行進曲とかベートーベンのなんとか交響曲なら耳にしたことはあっても、ピアノ曲はねえ。


で、じゃ、なぜこの曲が好きなのかということですが、ある映画の主題歌なんですね。

この映画がなかなかいいものでして。この曲も一緒に好きになってしまったということです。

大林信彦監督の尾道三部作の内の一編です。

「さびしんぼう」という映画。

思春期の少年少女たちの悩みとか恋とかを描いたものなんですが、観る人は自分のそのころはどうだったんだろうって、思い出そうとしてしまうわけです。


大学生の頃というのは、まだリアルに思い出せますよね。でも、中学生や高校生のときのことって、どうですか?

私は全くダメなクチですね。

記憶にある出来事もあるにはあります。でも、それはリアルな記憶ではありません。

記録による記憶というか、写真とか日記、あるいは流行り曲、また当時からの友人と話すことによって再生され続けている記憶。


実は、好きになったこの曲を聴き続けているうちに、単なる主題歌という枠を超えてきましてね。

メロディーを聴けば映画のシーンを思い出すというのではなく、自分自身の記憶を刺激するようになってきましてね。

いえ、これを聞いたら具体的な何かを思い出すということじゃないんです。

あのころの自分に少し戻ったような気がして、穏やかな気分になるといいますか。

いわゆる感傷に浸るということですかね。


映画の中では、この曲とシューマンの「トロイメライ」、マネスの「タイスの瞑想曲」っていうのが流れているのですが、この三曲は私にとっての尾道三部作ならぬクラシック三名曲になりました。


もうひとつ、クラシックに思い出の曲があるのですが、こちらの方は青春時代の本当に野暮な思い出ということで、これ以上は聞かないでください。


私、実は今だに日本のポップスも好きですし、ソウルミュージックも好き。ロックもジャズも。

要するに流行ったものが好きということなんですね。

たとえば、歌謡曲の中で一番好きなものを挙げろといわれれば、「あの日に帰りたい」や「渚に残した足跡」を挙げますね。

古いでしょ。ソウルと問われればヴァン・マッコイの「ハッスル」。これも古いですよね。

特に「渚に残した足跡」は、好きというより、しばらく耳から離れてくれなかった曲ですね。

それにしても当時、ディスコ、流行ってましたよね。

今の若者たち、どんなところで遊んでるんでしょう。今もディスコってあるんでしょうか。



「海水浴場の殺人事件ってなんやのん!」

 おでん屋から出て開口一番、優が詰め寄ってきた。

「そんな大事なこと、私に黙ってるやなんて。先が思いやられる。あの約束はどうしたん!」

「しかし、こんなことになるとは」

「ええい! どうでもいいからさっさと話さんかい! あ、どっちに行くねん。JRで帰るんとちがうん?」

 生駒は、すみよしを出て西へ向かった。

「伊知さんのマンション、近くだ」

「うおおっ! 現場検証や!」

「ちょっと気になるだろ」

「カメラ持ってきた?」

「アホ」

「で、さっきの海水浴場事件!」

 生駒は三十年前の事件のあらましを話してやった。


 八月のお盆までにはまだ少し間がある暑い盛り。

 海の家のバイトにも完全に慣れて、自分の身の置き場も分かり、生駒は潮風に吹かれながら落ち着いた時間を過ごすことができるようになっていた。


 ある平日。

 客も少なく、入口に立ってのんびりと渚に打ち寄せる波を見ていた。

 午前中の客の呼び込みも終わり、てんてこ舞いになる昼食時までまだ間がある。


 腕を組んだ。すでに真っ黒に日焼けしている。自分の劣等感の根源である細っこい腕もそれなりに逞しく見える。無数の砂粒が張り付いているが、そんなものはまったく気にもならない。

 充実感というほどの仕事はしていないし、給料も自転車を買えるかどうかさえ怪しいほど少ない。

 それでもここでの時間の過ごし方は気に入っていた。


 若い女性が砂浜を走ってきた。

 一目散に海の家に戻ってくる。

 鮮やかなオレンジ色のビキニに揺れる胸。


「すみません! ちょっとこれ」

と、生駒の目の前でパタリと止まると、くるりと背中を見せた。

「とめるもの、なーい? ボタン、ちぎれちゃって」

 女性は自分の背中に片手を回している。

 見ると、ブラのボタンがちぎれて失くなっていた。


「ちょっと待ってくださいよ。確か」

 安全ピンがどこかにあったはずだ。

「これでどうですか」

「ええ。じゃ、お願い」

と、女性はもう一方の手で長い髪を束ねて前に垂らし、心持ちうつむき加減になって、うなじを見せた。


 うぶな男子高校生にとって、刺激的な経験だった。

 安全ピンの針をブラの紐に突き刺そうとしたが、紐を押さえている女性の指を傷つけそうで怖い。

「指を離してもらえます?」

「はーい。いい? 離すわよ」

 女性の指に代わって、生駒の指がブラの紐をつまみ上げた。

 女性の背中に触れないように、注意してそっと。


「きつくないですか?」

 もたつきながらも手繰り合わせて、安全ピンで留めた。

 たったそれだけのことで、その日一日、生駒はその女性が気になって仕方がなくなった。

 つい目で追ってしまう。

 生駒がとめた安全ピンが、オレンジ色のブラの紐の上にとまった緑色の葉っぱのように、目について仕方がなかった。


 二十台半ばといったところ。

 恋人らしき男と来ていた。胸毛も脛毛も濃い男で、精悍な顔つきをしたたくましい男。

 生駒と比べるとすれば、強い大人の男性と弱っちい少年。

 もちろん生駒がかなうような相手ではない。なんとなく胸をときめかせながら眺めているだけ。


 昔のことである。

 今のように砂浜でいちゃついたりするようなカップルはいない。

 まるで少年少女のように、泳いだり、寝そべったり、時には海の家の座敷に上がってラムネを飲んだり、真っ赤なかき氷を食べたり。

 巨大なサメの浮き袋を砂浜に引き摺るような子供もいない。

 海の家備え付けの一日三百円の黒いゴムの浮き輪を借りる人が、日に十人もいればいい方だ。


 静かだった。

 昔の海水浴場は。

 聞こえるものは波の音と、カモメやトンビの鳴き声、そして子供たちの歓声。

 そして時折過ぎていく列車の音。


 いつの間にか、ビーチはいやになるほど騒々しくなってしまった。

 ごてごてした巨大な浮き袋の行進。

 間断なくスピーカーから流れるポップスと、客が持ち込んだラジカセ。

 キャンプ場もスキー場もそうだが、その場の空気を生のままで楽しむことのできない人たちが多すぎる。

 当時の生駒が働いていた海の家でも、BGMはあったが、かすかな潮風にさえかき消されるくらいに控えめな音量だった。

 風と波、そして太陽。空を舞うカモメやトンビ。砂の一粒一粒。乾いたクラゲやアオサ。釣り人が捨てたテンコチ。

 そういうものを静かに眺めて、穏やかな時間を楽しむことができた。昔は。


 五時ごろになると、まだ日は高いが、多くの客は早々に引き上げていった。

 誰もがまじめに帰宅し、夕食は自宅でというのが普通の時代だった。

 水着のまま砂浜に居座って夕焼けを眺めるなんて、酔狂な人はまずいない。夕焼けを楽しむのなら、ほてった肌をシャワーで流し、サッパリとしたものに着替えてからというのが洒落た楽しみ方だろうが、そんな人も滅多にいない。

 まして、この砂だらけの海の家の床で寛ごうにも雰囲気もなにもあったものじゃないだろうし、残念ながら須磨では太陽は海にではなく、鉢伏山の向こうに沈む。


 その日、ビキニの女性と胸毛の男は、夕方ぎりぎりまで楽しんでいた。

 男の方はさっさと着替えて、座敷に寝転び、片肘を突いて色味を増した海を眺めていた。

 他にも数組の客が帰り支度をしている。すでに誰もが着替えを済ませている。まだ遊び足りない子供たちが走り回っていた。


 生駒はカウンターの中で、客から返された網籠をタオルで拭いていた。

 大将は銀行に売上金を振り込みに出て行った。

 同僚の女子高生は、すでに上がっている。もうひとりのバイト君の姿は見えない。おおかた女子高生にまとわりついて、駅まで送っていったのだろう。

 大将の姿の見えないところで猛烈にアタックしているのだ。そういうこと疎い生駒でさえ、気がついていた。


 潮騒が聞こえている。

 昼間の、人と波と太陽が奏でた喧騒は消え、土間を吹き抜けていく風も、幾分湿り気を帯び始めていた。


 網籠を拭き終えた生駒は、海の家の窓を閉めにかかった。

 窓といっても、トタンを貼り付けた板を跳ね上げただけのものだが、まだ座敷にいる客に気を使って、裏側から閉じ始めるのが常だった。

 つっかい棒をはずしてバタンと閉じるだけの作業だ。


 長い汽笛が鳴った。

 すぐ脇を通るJRの線路を、貨物列車が通っていく。

 生駒は土間を抜けて更衣室の前を通り、裏の歩道に出た。

 男がひとり駆けていく。駅とは反対の方へ。小道を右に折れて姿を消した。

 地元の人だろう。海岸線に沿って走るJRの線路の下には、ところどころに人だけがくぐれる通路があって、北側の住宅街や国道に抜けることができる。そのどこかに消えたのだろう。生駒もたまに、気が向いたら利用するルートだ。


 海の家の裏側だけ窓を閉め、正面に回ってアイスクリームの冷蔵庫にブリキの蓋をしたり、散らかった椅子などを片付け始める。砂浜に取り残されたパラソルも片付けなくてはいけない。すでに料金をもらっているし、食べるものもすべて鍵をかけたので、客は放っておけばいい。

 生駒は折り畳んだ幾本かのパラソルをどさりと裏の小屋にしまい、海の家に戻って座敷を見渡した。

 最後の仕上げは座敷の清掃だ。

 しかし、まだ客がひとりいた。


 胸毛がそわそわしていた。

 腕時計に何度も目をやっている。

 彼の位置から更衣室の入口は見えないが、それでも気になるのか、ちらちらと土間の方を見やっている。

 目が合った。

 意を決したように立ち上がると、まっすぐこちらに歩いてきた。


「すまないが、女子更衣室を覗いてきてくれないか。あんまり遅いから」

「はぁ」

 返答に困った。

 いくらバイト生でも、女子更衣室に人がいることがわかっている限り、覗けるものではない。

「もう二十分にもなるんだ」

「はぁ」

 確かに遅い。

 渋っている生駒を諦めて、胸毛は女子更衣室の前まで行って、声をかけた。

 しかしビキニの女性は応えない。


「すまないが、見てきてくれ」

 胸毛は心配そうな顔で頼んできた。

 生駒は胸毛と並んで声をかけてみた。

「お客さーん」

 やはり返事はない。

「もう、入っているのは、ひとりだけだよな」

 胸毛が更衣室に入っていこうとする。

「あ、じゃ、僕が」

 いくら連れでも、男性客を女子更衣室に入れるわけにはいかない。

 生駒は更衣室の扉を開けた。

 温水シャワーの湯気がこもっていた。

 裸電球が蒸し暑い。折れ曲がった短い通路。ビニールのけばけばしい色の暖簾。


「お客さーん」

 生駒は、手触りの悪いそのピンク色の布をそっと手繰り上げた。


 濡れたベニヤ板に囲まれた狭い空間。

 砂にまみれたスノコが乱雑に敷き並べられ……。


「うぁ、ああぁっ!」


 全裸だった。


 崩れ落ちたように、スノコの床に倒れていた女性。


 長い黒髪が、顔から肩に掛けてべったりとまとわりついていた。

 転がった網籠。

 裏返しになって放り込んであるオレンジ色の水着……。

 出しっ放しのシャワーが裸体を打っていた。


 ひと目見て、彼女がすでに死んでいることがわかった。

 生駒は彼女を正視できなかった。

 シャワーは止めた。

 あの安全ピンは。そんなことが気になった。見当たらなかった。

 生駒はパニックになっていた。

 いつのまにか戻ってきていたもうひとりのバイト君が、警察に通報した。


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