21 携帯電話をまさぐる
「殺された女性は美弥子さんという人。当時の年齢は二十四。あの日、妹の馨、今の伊知さんだね、の友達と一緒に海水浴に行って」
「えっ!」
予想通り、生駒にとっては思いがけない話だったようだ。
「伊知さんのお姉さん!」
「覚えているのかい?」
生駒がますます眉を寄せた。
「とんでもない偶然……」と、三条が目を見開いている。
「そう。馨自身は、なにかの都合で海水浴に行けなくなったんだろうね。当時、あたしは大学四回生だったけど、そのときのことはもうあまり記憶にないんだ。馨自身は、その年に就職していたしね」
なぜか、三条が首をかしげて目尻で笑った。
瀬謡は構わず、今日の主題に向かっていく。
「海水浴に行った馨の友達、なんという名だったか、生駒さん、覚えてる?」
「いや……。その友達、男性……ですよね」
「そう。あたし、気になりだしてさ」
「男性か……」
三条がつぶやき、ギョッとするような名を口にした。
「もしかして、立成とか芳川とか、あるいは金谷とか?」
いいところを突いている。そんな予想がすっと出てくるとは、この子の頭の中はどんな構造になっているのだろう。
「おい!そんなあてずっぽうを!」
生駒が三条を責めている。
「でもさ、なにせ人の輪の魔女、瀬謡さんの話だもん」
「フフ、もちろん人違いかもしれないわね。でも、なにが起きたってもう不思議じゃない」
「ですよねー」
と、三条がすんなり受け入れる。
「あたしさ、お客とこんな話をしたことがあるのを思い出したんだ」
ずいぶん前のことになる。立成も芳川もまだ常連というほどではなく、互いに顔も知らない時期のことだ。
その客はテレビニュースに映った須磨の海水浴場を見て、ここは好きじゃない、嫌な思い出があるから、といった。
「溺れたの?」「知っている人が死んだ」「まあ」「殺された」「へえ、そうなの」
おでん屋で、それほど親しくもない客と交わすには重すぎる話で、男はそれきりその話題を持ち出すことはなかったし、瀬謡も聞くことはなかった。
「誰だったんです? 不動産屋? 税理士? そんな昔なら長髪のおっさんじゃないんだ」
「フフ。なんとなくそんな気がするだけで……。覚えてないんだよ。あのふたり以外の人かもしれないし」
瀬謡はそう応えた。
心の中の小さな声は具体的な名前をささやいていたが、まだどうにも自信がなかった。
三条が何度もうなずいた。
生駒が目を向けてくる。その男性の名を知っているのだろうか。
しかし生駒は、再び目を落としてしまう。
代わりに三条がニヤリと言った。
「瀬謡さん、歳、サバ読んでたでしょう。どうでもいいけど」
「えっ?」
「以前、生駒と同い年だって言ってらしたけど、さっき自分はあのとき大学四回生だって」
「ワハハ。ごめん。五十の大台というのはちょっとね」
「フフフッ」
三条優、変な娘だ。
真剣なのか、おちゃらけなのか。しかし、間違いなく頭は切れる。
沈黙が流れた。
自分の記憶はあいまい。生駒も覚えていないのか、隠しているのか、黙っている。
いずれにしろ、あの事件を紐解けば何かが見えてくるかもしれない、生駒が何かを知っているかもしれない、というもくろみは今のところあてが外れた格好だ。
ただ、馨の大昔の友達が誰だったか、ということが分かったからといって、どうなるものでもない。
真相は依然として霞の底に沈んだままだ。
「パーティで海の家のことが話題になったとき、伊知さんは昔の事件のことを思い出されていたんでしょうか。瀬謡さん、あれからなにか話されました?」
三条が先回りして聞いてくる。
「ううん。その話はしなかったよ」
ただ、馨は立成が昔の知人かもしれないといった。
瀬謡の心の中の小さな声は、立成が三十年前の、という言葉をささやいていたのだ。
ただ、おぼろな記憶が蘇りそうで形にならないという、腰の落ち着かない状態だったのだ。
そして、この声に従えば、とんでもない結論に至る可能性がある。
そう思うと胸が苦しかった。
「でも、なにか思い当たることはあるんですよね?」
三条に追い込まれて、瀬謡は腹を決めた。
「実は、パーティの日、馨がさ」
「そうなんですか。あのときの男性が立成さんだった、という可能性があるわけか……」
生駒が記憶をまさぐるように、両手をまぶたにあてがって、目を閉じた。
「それが今回の事件にどんな関連があるんでしょう」
三条が眉間に皺を寄せ、まつげの辺りを撫でながら聞いてくる。
「それがさ……」
瀬謡は自分の動悸を悟られまいと、ゆっくりと息を吐き、意識して穏やかに話した。
「ごめんね。こんなこと、なんの意味もないよね。たぶん」
努めて明るく言った。
「でもさ、こういう性分でしょ。気になると確かめずにおれないんだよ」
三条はにこやかに頷いて、言葉の続きを待っている。
「丸山さんに聞いてみようかな。生駒さんは同じ店でバイトしてたんだろ?」
「いや。そうかもしれないというだけで」
生駒は、まだ両手で頭を抱えている。
「ね、丸山さんのインタビューはここでしたんでしょ。そのとき、海の家の話は出てました?」
三条はさらりと視点を変えながら聞いてくる。冷徹、というほどに。
いや、冷徹というのではない。彼女の頭の中にはすでにストーリーができていて、それを単に確かめているかのように。
「してたよ。線路の音を聞いた場所のひとつが、須磨ってことでね」
「はい。じゃ、他にはどんな話を?」
「んーと、そうそう。周波数とか振動数とか、難しいことを。列車の轟音をなんだか難しい数値をあげて解説してたよ。そこんとこ、ブログでははしょってあるけど」
三条はそれで納得したのか、頷くだけだ。
「でも、どう聞き出せばいいのか……」
瀬謡は自分で言い出しておきながら、気が進まなかった。
あの神経質そうな丸山という男に、馨の姉と一緒に海水浴に行った男は……、などという質問をする理由を説明するのは億劫だった。
丸山があの事件が起きた海の家で働いていたかどうかもわからないのだ。
もしかすると、馨が殺されたことさえ、まだ知らないかもしれないのだ。
「もし同じ海の家でバイトしていた人なら、僕よりひとつ下ということになるけど……」と、生駒がいう。
「名前は覚えてない? 丸山さんだった? 海の家の名は?」
「覚えてない」
それはそうだろう。三十年前のことなのだ。
「瀬謡さん。丸山さんに聞くより、ふたりに直接聞いた方がいいんじゃないですか?」
三条の指摘はもっともだ。
しかし、立成にはなんとなく聞きにくい。芳川に対しては、切り出し方さえイメージできない。
いずれにしろ、三十年前の男であってもなくても、その後の話の展開に自信がなかった。
「誰やったと思う?」
三条が生駒に話しかけている。
「なんともいえない。胸毛の濃い人だったことくらいしか……」
「胸毛ねえ」と、三条が目を向けてきた。
「あたしは知らないよ」
「ですよねぇ」
ニッと笑ってから、三条が居住まいを正した。
「あの、ちょっとお聞きしてもよろしい?」
いいよ、と言う前に、三条が質問をぶつけてきた。いつのまにか主客が入れ替わってしまっている。
「あの日、伊知さん、喧嘩の仲裁をした後、金谷さんを連れて行って、どんなことを話したんでしょう。愚問かもしれませんけど」
瀬謡は知らない。
「きっと、みっともないからやめておきなさい、とでも言ったんじゃないのかな」
「じゃ、ふたつ目の質問ですけど、伊知さんのインタビューのとき、なにか気になる話は出ましたか」
「ううん、なにも。みんな上機嫌だったし」
「伊知さんを芳川さんに紹介された方、その方は?」
「東京の人でね。ここでインタビューはしたけど、パーティには来なかった。でも、事件とは関係ないんじゃないかな。今はイギリスに赴任して、日本にはいないらしいから」
「じゃ、三つめ。伊知さんの携帯電話の通信記録。瀬謡さんもご覧になりました?」
「は? あ、あれ? いや、見てないよ」
それにしても、生駒と話そうと思っていたのだが、相手はもっぱら三条だ。
それはそれでいい。生駒と三条は情報を共有しているらしいから。
「それを見せていただくことはできませんか?」
面食らった。
まるで探偵だ。悪い意味ではない。事件解決に情熱を燃やしている。そうでなければ、そこまで首を突っ込むことはない。
瀬謡はその場で美咲に電話を入れた。運よく、今からここへ向かおうとしていたところだという。
「持ってくるってさ。でも、通信記録を見てどうするんだい?」
お手数をお掛けしてすみません、と女探偵は微笑んだ。
美咲がやってきた。
早速、携帯を調べてみることにする。
目的のメールはすぐに見つかった。
「飛行機に乗り遅れました。明日の夜の便で帰ります」というだけの簡単な内容。発信日時は三日の二十二時四十三分。会社のパソコンにその受信記録もあるという。
他のメールを調べてみる。
フォルダには九月二日の送受信記録は削除されて残っていない。
三日の受信は六件、送信は乗り遅れたという連絡を含めて五件だ。
四日は受信三件だが送信はなし。その受信の中には金谷からのものも含まれている。
五日以降にも数件受信のみが入っている。
美咲によれば、馨は仕事のやり取りを携帯メールですることに抵抗はなかったものの、自分から使う方ではなかったという。
「で、どうだい?」
三条は微笑を返してきただけで、美咲に質問を投げかけた。
「この中で重要な仕事の連絡はどれですか? 絶対に返信するはず、というのは」
瀬謡も三条の意図に気がついた。
美咲が携帯を操作しながら答えていく。
三日の六件のうちの四件。これにはすべて返信している。四日以降も重要だと思われる受信があるが返信はなし……。
「つまり、送信は会社に送ったメールが最後のものだった、ということですね。ちょっと貸していただけます?」
三条が携帯電話をいじり始めた。
「なにしてるんだい?」
「ええ、まあ、いろいろ確かめておこうと。あれ?」
「ん?なに?」
「着信音量設定が、レベル0。電話もメールも」
三条は携帯を美咲にあっさり返し、きっぱりとした声で礼をいった。
瀬謡が頭の中を整理しようとしたとき、また質問が飛んできた。
まるで、ビシッと音をたてたような質問が。
「瀬謡さん。まだお話になっていないこと、ありません?」
さすがにぎくりとした。
「立成さんのこと。昔の知人かもしれないって、伊知さんがつぶやいたんですよね。たったそれだけで、今回の事件に結びつけるのはちょっと飛躍しすぎかな、と。きっとなにか、現在進行形の出来事もあるような。ちがいます?」
瀬謡は、封筒を突き出して来たときの立成の顔つきを思い出した。あのごろんとした封筒の中身の感触も蘇ってきた。
「それは……」
話せば立成との約束を破ることになる。
しかし、伊知が殺されてしまった今、そんな約束に意味は……、きっと、ない。
夫が厨房から出てきた。
「この人にお話ししたほうがいい」
もちろん夫は、立成との話を知っている。
「お客のプライバシーなので、抵抗があるのは分かりますが」
と、畳み掛けてくる三条。
瀬謡は兜を脱いだ。
聞き終えた三条が、あっさりと美咲に顔を向けた。
「伊知さんの机の中とかに、その贈り物、ありませんでした?」
「たぶん……」
ピアノの形をした陶器製のオルゴール。曲はショパンのノクターンとラベルにあったという。
「へえ。オルゴールだったのかい」
瀬謡は心に引っかかるものを感じた。
何かを思い出すような予感……。しかし、それはなかなかすっきりと蘇ってきてはくれない。
「カードや手紙は?」
「それは入ってなかったみたいです。社長が抜き取っていたら、わかりませんけど」
「事務所にあります? オルゴール、見てみたいんですが」
「いえ……」と、美咲はもじもじしている。
「美咲、どうしたんだい?」
「それが、そのオルゴール、私、捨てちゃった」
「え?」
「金槌で叩き割ったみたいに、粉々になって、ゴミ箱に放り込んであったので、そのまま……」
「いつだい?」
「二日の朝」
瀬謡はなんともいえない気持ちになって、がっくりと肩を落とした。
馨にとって、あれはうれしくないものだったのだ。
それどころか、彼女の平常心をぶち壊すものだったのだ。
「へえ、そうなんですか。で、他に気になったことは?」
三条はあっさりその話題から離れていくが、瀬謡は自分が果たした役割に、どうにもならない悔しさを味わっていた。
「はい……、社長の携帯電話、いつもストラップがついていたんです。それがついていない。それだけのことなんですけど……」
「ストラップ? 警察が別に保管していたんでは?」
「いいえ。聞いてみました
「はい」
「発見当時からついていなかったらしいです。あの、天神さんのお守りのストラップなんですけど……」
記憶に留めておこうとするかのように、三条が額の中央辺りを中指で叩いた。