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1 須磨

「懐かしいなあ」などと、隣に立っている優は、潮風になぶられた髪を押さえながら深呼吸までしているが、生駒は気乗りしない目で海を見ていた。

 台風が近い。時折、ビンッと音をたてて強い風が髪を乱す。

 濁った灰青の海原。

 無数の三角波が白い波頭を見せては消えていく。

 水平線は空と混じりあって判然とせず、行き交う大型船も動きを見せない。


「学生時代は毎年、海水浴に来てたんよ。須磨浦」

「焼けるのにか」

 大阪から西へ姫路方面に向かうJR西日本の電車は、神戸の中心街を過ぎた後、この駅の直前、水族館の辺りから海岸線を伝う。

 プラットホームに滑り込んだ電車のドアが開くやいなや、強い潮の香りが車内に流れ込んでくることで、いやでも、あ、須磨に着いたんだなということがわかる。

 残念ながら、ホームからは、線路際に連立する広告看板に遮られて海を見ることはできないが、改札口への階段を登るにつれて、瀬戸内の穏やかな海が視界に広がってくる。


 この駅に着けば、人によっては一種の郷愁に似た感覚を持つ。

 少なくとも生駒にとってはそうだ。

 遠い昔のことになるが、毎日何度となくこのコンコースを行き来したことがあった。

 それは、すばらしい思い出の日々、というジャンルに入れてよいものだった。

 たったひとつの出来事を除いては。


 その事件によって刻まれた生駒の心の中の小さな傷は、今でもかすかな痕跡を残している。

 もはや普段、その傷が疼くということはない。

 しかし、この駅に降り立つたびに思い出されてしまう。そんな傷だった。


「あのころは日焼けなんて、気にもしてなかったなあ」

 三条優。二十五歳。

 ここ十年ほどの間に、楽しい思い出をひとつふたつ、この海岸で作ったのだろう。


 生駒たちは駅のコンコースから突き出たテラス、砂浜へ通じる階段の降り口に立っていた。

 無粋なアルミの手すりには、塩と水分をたっぷり含んだ風に運ばれてきた、細かな砂が粘りついていた。

 階段の下では、制服姿の女子高生がふたり。しゃがみこんでタバコを吸っている。

 その脇には打ち捨てられ、裾が切れ切れになった緑色の幟。色あせ、フィルムという白抜きの文字がかろうじて読める。


「ね、あれ、もう撤去されたんやね。須磨浦のトレードマークやったのに」

 視線の先には、海に突き出た巨大な構造物の基礎が残されていた。

 埋め立てのために山から削り取った土砂を、平底の運搬船に積み込むためのベルトコンベア。

 神戸市はこの運転をすでに終了していた。


 生駒は砂浜を目でなぞっていった。

 波打ち際ではなく、砂浜の奥の辺りを。


 つい先日まで、多くの「海の家」が軒を連ねていたことだろう。

 毎年変わらぬ須磨浦の夏の風景。

 今日、九月二日。ちょうどそれらの建物が解体された直後だ。

 砂浜は無数のわだちで覆い尽くされている。

 ムーミンのような形をした青いゴミ箱が砂浜の中ほどにぽつんと設置されているが、その周りは溢れかえったゴミの山。


 九月の声を聞けば、波が、風が、雨が、ゴミやわだちを消し去り、青春や家族愛を謳歌した数十万人の喧騒の名残さえも、ばったり消え失せる。

 見た目だけは静まり返った秋の海岸へと装いを変えるのだ。

 思い出として、一旦は心の中に納められた幾千万の出来事。

 出会いやおしゃべりや、水の生暖かさや太陽のきらめき、波の音、砂の熱さ。

 それらはすぐに忘れ去られてしまうとしても、いくつかは記憶として、ラベルを貼られた小さな引き出しにしまい込まれるのだ。


 ルル、ルル……。

「金谷さん、出ないな」

「まだ、寝てるんとちがう?」

「いくら酔ったからって、もう昼過ぎだぞ」

 仕事仲間と、今夜会う約束になっていた。場所はいつもの店だが、時間を決めていなかった。

「ファックスした?」

「ああ」

 生駒の経歴書を送ってくれと言われていたのだ。


「見かけと違って、いい人なのかもね。仕事を紹介してくれるんやから」

「先々、自分も仕事になればって思ってるんだろ」

「暑苦しいから、私、あの人、好きじゃないけど」

 硬い髪を背中の真ん中あたりまで伸ばした金谷を、優はいい印象で受け止めていない。


「でもさ、金谷さん、それとは別に話したいことがあったみたいやね」

 そう。昨夜、金谷はパーティ会場でこう伝えてきたのだった。

「へへ、とんでもないことに気がついたぞ。あんたにも関係したことや。明日の晩、ゆっくり話そう。おもしろいことになるぞ」

 その陰気な酔った声が体に沁み込まないよう、生駒はひとつ肩を回した。


「よっ、待ったかな」と、上背のある中年男が現れた。

 ごつい体躯にふさわしく、声がやたら太く大きい。

 暑い中にもかかわらず、背広を着込んでいる。トレードマークのスキンヘッドにソフト帽までのせている。

 ただ、まさしく不動産ブローカーらしいダークスーツに派手なネクタイ、といういでたちではない。水色のラフな麻のスーツにノーネクタイだ。


「なんとか雨があがってくれてよかった。早速、行くか」

 立成清次は目の前の海岸を一瞥することもなく、くるりと背を向けた。

「昨夜のパーティは大成功でしたね。立成さん、大活躍でしたよ。あれから、どうでした?」

 生駒と優はパーティが中締めとなった後、早々に引き上げたのだった。

「いや、たいして」

 すでに立成は、コンコースを歩き始めている。


 橋上駅であるJR須磨駅の階段を、海岸と反対側に下りるとタクシー乗り場がある。

 立成は後部座席に生駒と優を座らせると、自分は窮屈そうに助手席に乗り込んだ。

「近くてすまんが、須磨寺の交差点を西へ」


 向かうのは、ある古い洋館である。

 所有者がこれを立成に売り、立成は賃貸マンションを建てようというのだ。

 そのマンションを立成自身が経営するわけではない。資産運用物件として、どこかの会社かファンドに丸ごと売却する予定なのだ。

 あの立地なら買い手はすぐに見つかる、とは立成の読みである。


 生駒はそのマンションの設計を立成から依頼されていた。

 今日は現地視察。立成が案内するというのだった。


「じゃ、私たちはここで失礼します」

 視察が終わり、当然のように一緒に大阪まで帰ろうとした立成に、生駒は断りをいった。

「ん?」

 立成の鋭い目にさらされると、たいていの人はいわれなき緊張を強いられる。

 立成は六十前後。本物の貫禄がつく年齢である。

 そしてその貫禄をさらに大きく見せているのが、迫力ある体に太い声。こわもての面構えにスキンヘッド。派手なスーツ姿で街を行けば、道を譲らないものはいない。


「寄りたいところがあるので」

 生駒は慣れているからそれほどではないが、一緒に帰ろうという申し出を断るという、ただそれだけのことでも、少々勇気がいることだ。

 ただ、立成は乱暴な男というわけではない。

 知り合って十年足らず。まだ生駒が本当の立成を知らず、恐れ入る体験をしていないからかもしれない。


「散策か。それなら須磨寺なんかが近い。源平一の谷合戦の銅像なんかもある」

 須磨には海水浴場や水族館があるだけではない。

 神戸の街を海際に追い立てている六甲山系の西端部にあたり、鉢伏山という小高い山が須磨の地で、その裾野を海に浸している。

 神戸や大阪に住む人なら、夕日を受けてシルエットとなったその稜線を、幾度となく目にしたことがあるだろう。

 鉢伏山は海岸から山頂まで公園として整備され、ロープウェイに乗ったことのある人も多いはずだ。

 遠来の客を集めるというほどの観光地ではないが、関西の行楽地のひとつとしてならリストに掲載される、というような街だ。


 立成が須磨寺の歴史を解説している。

「須磨によく来られたんですか? 詳しいですね」

「昔はな」

 生駒の言い方には、忘れられかけた行楽地というニュアンスがあったが、立成の応え方にも同じような響きがあった。

「若いころ、この近くに知人が住んでいた」

「へえ」とは言ったものの、とりたてて話題にすることでもない。

 立成も次回の打ち合わせ日時だけを確認すると、台風がまもなく九州に上陸するらしいと忠告を残して、ひとりで駅への細い道を下っていった。

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