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18 ミルクの匂い

 優が玄関ドアをガバと開けて入ってきた。食料品を買い込んできてくれたらしい。スーパーの袋を抱えている。

「どうやった? お葬式」

「瀬謡さんだけ。でも、驚くことが」

 優は早速、スーパーの袋から安いけどおいしい硬いドーナツを取り出した。

「へええ~、松任さんは伊知さんの娘なのか……」

 優がなにかを思い出そうとするかのように、睫毛に指を当てた。


「で、他は?」

 ミルクの紙パックにそのまま口をつけている優に、瀬謡と快速電車の中で話したことを伝えた。

「そか。丸山さんのインタビューは情報なしか」

 優は相変わらずのピンクのTシャツにジーンズ姿。しているのかしていないのか分からないほどの化粧。

 生駒はなんとなくほっとしてしまう。


「でも、続きをしたいらしい。できたら店に来てくれって」

「お、いいぞぉ」

 パンッと手を叩いてから、優はすっと腕を伸ばして、生駒を軽く抱きしめた。

「私からも情報があるよ~ん」

 優の唇が生駒の唇に一瞬だけ触れた。

「ルナは松任さんに家に来てもらうんやて。ピアノの調律に」

 ミルクの匂いが生駒の鼻に残った。

「へえ。で、それが?」

「今は情報収集の段階。結論を急いではダメですよ。助手君」

「はいはい」


 生駒は優を離すと、スーパーの袋を開けてみた。いつもの野菜ジュースの紙パックやおなじみの冷凍餃子に混じって、カルビやハラミのパックが入っていた。

「お、今日は焼肉をしてくれるのか」

「ノブのメタボに拍車をかけてあげようかと」

「アホ、僕はまだそんなのになってない」

「そうかな。でさ、悪徳税理士と松任さんの馴れ初めも分かったよん」

 優は、ノブはこれらすべて一切れだけだよ、などといいながら肉のパックを見せびらかした。

「松任さんがまだ独身だった頃、数年前ね、ふたりは同じ打ち放し場でゴルフレッスンを受けてた仲間なんやて」

「で、芳川事務所に」

「そう。引き抜かれた」

 優がにやりとした。


「あいつは松任さんをとても可愛がってるって。仲人やったんやって。すぐ別居したけど」

「ふうん別居ねえ。理由は?」

「さあ、それは聞かなかった」

「じゃ、芳川と瑠奈の馴れ初めは? さしずめ北新地か」

「ご推察のとおり。パッケージ化された打算的な恋」

「パッケージ化されるほど、よくあることかいな」

「さあね。案外、多かったりして」

 優は、物を口にして落ち着いたのか、買い物を冷蔵庫に入れ始めた。


「それにしても、人の付き合いってどんなことから始まるか、分からないよな。友達も恋人も、そして愛人さえも」

「人の輪の話? そういや私たちも」

「ん?」

「忘れもしない……」

「そんなことはどうでもいい」

「どうでもいい? そんなものなん?」

 ハハア。前振りだな。

 優の癖だ。大事なことを口にする前に、一旦、全く関係のない話に振り、関心を引きつけておいてからポンと目の前に出すというパターンだ。

「ところで、松任さんと瑠奈の仲はいいのかな。調律を頼むって。きっと違うよな」

 こんな感じの話だろうと、生駒は先回りする。

「ハハァ。さすが助手君。鋭いやん」

「芳川を巡って」

「張り合って」

「ああ」

「そう。ふたりは性格も違うし」

「気が合うってこともなさそうだし」

「あ、そうそう、あの店ね」

「やっぱり」

「うん。悪徳税理士の名義。表向きは瑠奈が経営者だけど、実質的にはスケベ親父がルナに生活費を渡すための仕掛け」

「愛人関係を目の当たりにして、どう?」

「あの子、その辺、あけっぴろげやからなあ。そんなことを聞くこっちがヒヤヒヤする」


「しかし、ちょっと変だな。たまたま何年振りかに会っただけのお前に、そんな話をするか?」

 優はキッチンを出て、ソファに腰をおろした。

「ううん。だからこそ、かな。自分は成功しつつあるって見せたいんや。あの子は自分のお店を持つことが夢やった」

「ふうん。で、おまえら、そんなことを競争してたんか?」

 優は思い切り伸びをすると、そのまま手を頭の後ろにやって、もたれ込んでいる。

「まさか」とは言ったものの、思い出すことでもあるのか、遠くを見る目をした。


 生駒はふと、優の夢って何だろう、と思った。

 今のこの生活が、優にとって夢だったはずがない。

 これから自分は、この娘に何かしてやれることがあるのだろうか、と思った。


「瑠奈は夢に近づきつつあるけど、それをもっと確かなものにするためには、パトロンの力がまだどうしても必要。つまりあの親父は絶対に手放せない男」

「当然、松任さんに芳川の関心が向くのはいやなんだ」

「だと思う」

「じゃ、なぜ、ピアノの調律をわざわざ松任さんに頼む?」

「立場の違いを強調したいから。そんなところやないかな」

「愛人対雇われ人の眼に見えないバトルってか」

「あいつ、松任さんの生年月日もきっちりチェックしてた。三十一歳。昭和四十九年九月生まれ。若さでは絶対に勝てるってね」

 生駒は小さくため息をついた。自分の経験の中にはない妙な人間関係を目の当たりにしたようで、げんなりしてきた。

「ところで彼女はどうだ?」

「どうって?」

 生駒は瑠奈の陰口のひとつでも出てくるかと思ったが、まったく違った答えが返ってきた。

「彼女は事件に関係ないんじゃないかな。今のところ、伊知さんとの接点が見えてこないし」

「もし瑠奈さんが、伊知さんが松任さんの母親だということを知っていたとしても?」

「おおー、ノブ、考えたやん。でも、まさかね」


「調律ってどんなことするか知ってる?」

「さあ。数年に一度くらいはやるんだろ」

「日常的に弾いている人は、きちんと年に一回するらしいよ。コンサート会場においてあるピアノなんかはその度に調律するし、ピアニストによっては専属の調律師を連れて行くんやて」

「詳しいな」

「へへ。歌手やから。ほんとは瑠奈から聞いてん」

「わかってる」

「料金は普通の調律師ならグランドピアノで一万三千円、アップアライトピアノで一万円くらいが相場」

「ふうん。そんなに儲かるものでもないんだな」

「特殊技能があるからって儲かるものじゃない。そういうことやね」

「特殊技能ねぇ」

「絶対音感」

「ああ、あれな。幼児のときにしか身につかないってやつ」

「そうでもないらしいけど。ノブも相対音感ならあるやろ」

「なんじゃそれ?」

「この音がラだとしたらこの音はなんでしょう、と聞かれたら?」

「なるほど」


 優の夢。

 それどころか、生駒は優の本当の暮らしさえ知らなかった。

 神戸生まれの大阪育ち。知っていることはそれだけ。

 神戸の女子大を出たことは聞いてはいた。松蔭か武庫川か女学院か、あるいは女子薬と聞いても、優は笑っているだけだった。両親が神戸に住んでいるのかどうかさえ知らなかった。

 また、優が歌手やコンパニオンやモデルをしながら食べているとは聞いてはいても、それがどれほどのランクなのかも知らなければ、それらのギャラがどれくらいなのかも知らなかった。

 そういったことを生駒は知りたくないかといえば嘘になる。ただ、それを聞いてどうする。いや、むしろ、自分にはそれを聞く資格がないと、思っていたのだ。それらを知ったからと言って、優を幸せにできるわけではない……。


「そういやブログインタビューの松任さんの話。(ラ)の音でコンサート前のチューニングはするって書いてあったな」

「うん。私も、ブログ、何度も読み返してるねんで。ミラーの方も」

 優はパソコンの前に座り、芳川ブログを開いた。

「ご苦労さんなことやなあ」

「当然やん。事件の鍵はここにあるってね」

 優が芳川のブログを開いた。

 そして楽しくてしかたがないという調子で、変なことを言い出した。


「ね、音ってさ。脅迫に使えないかな? 嫌いな音を四六時中聞かされたら、精神が徐々に参っていくって。一種の拷問みたいな」

「何の話?」

「思いつき。ルナも言ってたやん。あの音をずっと聞かされたら、気が狂うって」

「特定音階嫌悪症、だったかな」

「それ」

「そんな病気があるんかいな」

「瑠奈のケースを見て思ったんやけど、音にはそういう力があるけど、色にはそんな力はないかもって」

 優が生駒のときのインタビュー記事を開いた。

「いくら嫌いな色に囲まれていたからって、どうなるもんでもないし。臭いもきっとそう」

「まあな」

「音や臭いはインパクトが弱いんやと思う。花やお料理の匂いを嗅いでも、泣くことはできない。でも、歌を聴いて涙は流せる。少なくとも私は」

「そりゃ、メロディじゃなくて詩がいいからだろ」

「また理屈を言って」

「あのなあ、だから、なんなんだ、この話」

「私ならインタビューでそんなことを話したかなって」

「はあ? やめとけ。それこそ理屈っぽい話。誰が喜ぶ?」

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