17 女の勘
JR垂水駅から程近い寺院で伊知の告別式は行われた。
喪主は井端哲郎。父親だという。別居中の夫は、夫としての最後の勤めを放棄していた。あるいはすでに夫婦ではなかったのかもしれない。
阪神淡路大震災で被害を受けた大屋根の補修工事が終わったという掲示板の文面を見やってから、生駒は山門をくぐっていった。
砂利敷きの境内に人が固まって立っていた。
受付で名刺を渡し、遠慮がちにその集団に近寄っていく。
「暑い中をわざわざ……」
瀬謡に声をかけられた。
「どうも」
見知った顔は瀬謡ひとりだけだった。
「ありがとうございます。知らせていただいて」
「いいえ。伊知さんとお知りあいだとおっしゃってらしたから」
パパラッチでミラーサイトの話をしているときに、瀬謡の方から電話をもらったのだった。伊知の告別式の日取りが決まったと。
僧侶の読経が始まった。
日向に立ち尽くす生駒。
九月とはいえまだ強い日差し。背中に汗が流れ落ちていく。靴底を通じて伝わってくる熱を帯びた砂利の感触。死に遅れたツクツクボウシの細い声。
遺影を真正面に見ながら、生駒は時間が過ぎていくのを待った。
よく知りもしない伊知と、最後の別れをしに来ようという気になったのは、せっかく教えてくれた瀬謡の手前ということだけではなかった。連絡が取れない金谷と会えるかと思ったからだ。
そしてもうひとつ。ある考えが心に浮かび、確かめずにはおれない疑問となっていたからだった。
瀬謡は一心に口の中で呟いている。
南無妙法蓮華経。
あのざっくばらんな威勢の良さは消え、悲しみの影が全身を覆っている。
青春時代から続いている伊知との親交を、思い出として振り返るにはしばらく時間がかかるだろう。今はまだ悲しみに身を委ねるだけ。
生駒は改めて遺影の伊知を見つめた。
瀬謡に比べてどれほどの思い出もない。どうということもないトピックスがあるだけ。
悲しみや怒りなど、沸き起こる感情もさほどないまま、そのささやかな記憶を弄んだ。
「うあわ、涼しい」
快速電車は空いていた。
シャツに浸み込んだ汗が一気に気化し、ぐんぐん体温を奪っていく。この調子では大阪駅に着く頃にはガタガタ震えているかもしれない。
四人掛けシートの隣に座った瀬謡が、黙って窓の外を眺め始めた。
電車が動き出すと、たちまち窓に瀬戸内海の景色が広がった。次の停車駅である須磨まで九分だ。
「窓が開けられたら、潮風を吸えるのにね」
「開けたら?」
「じゃ、ちょっとだけ」
瀬謡が少女のようにチョロッと舌を出して、窓をわずかに押し上げた。生暖かい風が、ピュウと音をたてて流れ込んできた。
「いい香り」
右ひじを窓枠に乗せ、その上に顎を預けて窓外の景色を眺めている。できるだけ濃い潮風を吸おうとしているかのように。
「瀬謡さん。伊知さんの事件。どうなっているんだろ」
「さあ。まだ捕まっていないんだろ」
こちらを見ないでいう。
「金谷さんは来てなかったな。聞きたいことがあったんだけど」
瀬謡の髪が風にあおられてなびいている。
バラバラになった艶のない髪が、この女性の年齢をそのままに見せていた。
瀬謡は窓の外に顔を向けたまま。生駒の話に乗ってこない。
「大阪湾も案外広いんだ」
のんびりした言葉とは裏はらに、黒装束の疲れきった中年女の後ろ姿は、やけに小さく細く見えた。
生駒は重ねて聞いた。
「金谷さんのことをどう思う?」
「うん?」
「事件とは関係ないことなんだけど」
生駒は言い出しておきながらためらった。瀬謡にどうでもいい話だと思われそうで、言いにくかった。
やっと瀬謡が顔を向けた。
「なんでも知っていることは話しますよ。馨のためになるなら」
理不尽にも故人となってしまった友に対する哀悼の気持ちが、その言葉に滲んでいた。
「実は須磨の海の家のことで」
「は?」
瀬謡の瞳に不審の影が覆った。
「ごめん。つまらないことだね」
生駒はすぐに謝った。
やはり聞くべきではなかった。
この男はこんなときに、しかもいい歳をして、些細な思い出にふけっている、と思われてしまった。
車内放送が須磨駅に到着することを告げている。
「あれから金谷さんと連絡を取ろうとしているんだけど、ずっと留守電のままで」
今度も瀬謡は、また、それがどうしたというような顔をした。
悲しみの最中にいる人から、事件に関連したことを聞きだすのはむつかしい。そもそもなにを聞き出したいのかさえ、あやふやなのだから、なおさらだ。
「でも、えっと、こんな言い方はまずいかもしれないけど、伊知さんが殺されて、その交際相手の金谷さんが行方不明。その、つまり、なにかあるんじゃないかと」
「行方不明?」
「瀬謡さんは今日のこと、金谷さんに教えた?」
「ううん。芳川さんと生駒さんだけ。芳川さんは所用で参列できないから弔電を打っておくって」
「そう……。警察は金谷さんに事情聴取したんだろうか」
「そりゃ、そうだろ」
プラットホームに電車が滑り込んでいく。広告看板で海は見えなくなった。
またあの懐かしさが蘇ってくる。
「パーティの日、初めふたりは仲がいいようには見えなかった。むしろ他人を装っているような。伊知さんが連れて来ていた人が息子さんだとしたら、それも、ま、ふたりの関係からすれば分かるんだけど。それにしても……」
瀬謡の目が動いた。
やっと関心を持ってくれたようだ。
窓を下ろした。垂水駅で買った缶コーヒーのプルタブにゆっくりと指を掛けた。
なんでも話すとは言ったものの、迷っているのだ。
冷たい液体を口に含んで、ようやくその気になったらしい。すっと背を伸ばし、体を寄せてきた。
「あれはさ、私の娘」
一瞬、生駒はなんのことか、分からなかった。
「えっ?」
「驚くだろ。あれで、女なんだよ」
「娘?」
あれは瀬謡の娘? 女だったというのか。中性的で可愛い子だとは思ったが。
「す、すみません」
「いいのさ。本人がそう見られたいんだから。親としちゃ心配だったけど、もうひと安心さ。あんなのでも、もらってくれる人がいたからね」
「ご結婚されたんですか」
「そこを驚いちゃダメだよ」
「い、いや、そういう意味じゃ」
「ハハハ。馨の事務所で働いているんだよ。あたしから彼女に頼んでね。雇ってもらったのさ」
「あ、道理で、伊知さんがあの人を残して帰ったんだ」
「そういうこと」
瀬謡は今日始めてうれしそうに笑った。
「でね、うちの娘、美咲っていうんだけど、一昨日に新婚旅行から帰ってきてさ。驚いてたのってなんのって」
まさか娘自慢でも始まるのだろうか。しかし違った。
「今朝、聞いたんだけど、馨の携帯電話の履歴を調べたんだって。大切な仕事の連絡なんかが入っているといけないからって」
そう言う限りは、生駒が聞いて驚くような連絡が伊知の携帯に入っていたということなのだろう。
「それで?」
果たして、
「金谷さんからの連絡が入っていたそうだよ。仕事じゃないみたいな。四日の午後に会いたいっていう」
「四日の午後……」
「そう、馨が殺された日。もちろん警察もそれを確認してるだろうから、彼を、例の、ほら」
「重要参考人?」
「それ」
生駒は唸ってしまった。
犯人は金谷に決まったみたいなものではないか。
連絡が取れないと思っていたが、すでに警察に捕らえられているからだったのだ。生駒や優の素人探偵など、もう出る幕ではなかったのだ。
しかし瀬謡は眼を落として、小声で言った。
「でも、どうもあたしはしっくりこないんだよね。理由はないよ。勘みたいなもの」
「勘ですか……」
「女の勘をバカにしちゃだめだよ。生駒さんと三条さんの関係も私の勘によれば」
「もういいよ」
ばれているのは先刻承知だ。
「別にバカにしたわけじゃない。でも、女の勘といっても、その根拠は?」
「勘だから、根拠なんてないさ。ただ……」
瀬謡の心が揺れている。缶コーヒーを回して混ぜ合わせている。
「話してくれるかな」
「そうだね」
あっさり瀬謡は話し出す。
優のいうとおり、この女性は友の死を前にして、誰かに聞いて欲しいことが山ほどあるのかもしれない。
「実はさ、馨と金谷さんは幼馴染なんだって。この間は、みんなに誤解されるような言い方をしてしまったけどね」
瀬謡は、長田の巨大な鉄人28号を眺めてから、呟くように
「羽目をはずしすぎて馨に申し訳ないことをしたよ」と、うなだれた。
先日のおでん屋での噂話のことを言っているのだ。
「ああ、僕もね」
「でもさ、それが最近になって再会したのか、ずっと行き来があったのか、それは知らない。ただ、ここ数年、付き合っていたのは確か。でも今はきっちり別れていたはずなんだ。馨が愛想をつかして」
瀬謡が言葉を切った。
ん? でも……。
「それじゃ、金谷さんが犯人ではないという勘の根拠にはならないんじゃ……。愛想をつかされた金谷さんが自暴自棄になって……とか」
「別れた理由ってものがあるんだよ。丸山さんの奥さん、祥子さんっていったわね。金谷さんは彼女が好きだった。馨とは別に、祥子さんに気があったらしいんだね。どういう知り合いなのか、あたしは知らないよ。でも金谷さんは丸山さんに負けた」
生駒は暗澹たる気持ちになった。
十分に生きてきたはずの男と女。
そこに、くだらないメロドラマみたいなことがあって、それがこの事件の背景にあったというのは。
「祥子さんが丸山さんを選んだことがはっきりした日、金谷さんは飲みつぶれてさ」
しかし、瀬謡の言葉が正しいとするなら、パーティの日の金谷と丸山そして祥子の悶着の原因がわかった。
金谷は友といえるような付き合いではない。しかし、仕事を共にすることもあり、親しい仲の相手だとはいえた。その男が女性を巡って競い合い、挙句に……。
やりきれない思いがした。
「馨と一緒にうちの店に来たことがあるというのは、その日のことさ。馨は柄にもなく介抱してたよ。まるで子供だね。ふたりともいい歳して。青春ごっこさ」
瀬謡が、ため息をついた。
「ところが金谷さんは、他人の妻になっても祥子さんを忘れられなかったらしい。馨の性格を考えてみて。そんなうじうじした男なんて、彼女はあっさり愛想を尽かすだろ。だいたいそういうことさ」
「なるほどねえ。だから事件には関係ない、か……」
「そう。金谷さんが殺したい相手は、馨じゃなくて……。だからさ」
「警察に言っておいた方がいいかもよ。じゃなきゃ、金谷さんは踏んだり蹴ったりで」
「あたしはあの男には義理もないし、好きでもないね」
「そういう問題じゃないだろ」
「ま、そうだね。金谷さんが捕まったらね」
「ん? 捕まっているわけじゃないのか」
「誰がそう言ったんだい? まだ、捜査は目に見えた形では進展していないはずだよ。一応、馨の会社の方へは警察から、さわりだけは教えてくれるし、その情報は娘が知らせてくれるからね」
生駒はなぜか少しほっとした。
「それにしてもさ」
瀬謡がいきなり明るい声を出した。
「生駒さん、気づかなかった?」
「なにを?」
「松任さん、馨と親子だったんだね」
「えっ!」
「親族焼香のときに呼ばれただろ」
気がつかなかった。
「お焼香の順番からすると、どうも馨の娘ということになるね」
「ええっ、それは……」
また新しい人の輪か。
「あたしも知らなかったよ」
伊知には娘がひとりいた。
しかし高校生のときに家出してしまい、以降、伊知はその話を瀬謡にしなかったという。
「あたしもうっかりしててさ。いつの間にか忘れてしまってたんだ」
瀬謡はまた遠くを見る目をしていた。
「それに彼女、あの性格だろ……。あたしにも馨は……」
妙なことを口にしたと瀬謡は思ったのだろう。また、窓の外を眺め始めた。
そして、
「死んでしまった人に恨みがましく言うつもりはないけど」と、言い添えた。
なんでも言い合える友だからこそ、傷つけてしまうこともある。伊知とはそういう仲だと思っていたのに。
瀬謡はそう言いたかったのだろう。
神戸駅に着いて、乗客がどっと乗り込んできた。
向かいの席に背広姿の若い男が座り、マクドナルドの紙袋を開けた。その傍若無人な臭いに瀬謡と生駒の情報交換はお預けになった。