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14 ミラーサイト

 生駒の回想。伊知馨との思い出。


 伊知はぽっちゃりとした体格で、声の大きい女性だった。

 派手な装いにオーバーなアクション。のんびりしたような感じに見えて、実際は現場の中をキリキリと動き回る。するどく指示を飛ばし、存在感も相当のものだ。

 数年前に趣味の食器集めが高じた店を開き、それを一気に店舗ディスプレイ業にまで広げた手腕を考えれば、彼女の迫力にも納得がいく。


 しかし大雑把な性格かといえばそうではない。

 金のことをあいまいにはできないらしく、一円単位まできっちり話をつける折衝を目の当たりにしたこともあった。ものを買って売る、あるいは作って売る商売は原価の割合が大きいから、うかうかしていると利益が取れなくなる、と諭されたものだ。

 一旦失うと決して取り返せないもの、それは時間、というのが口癖で、伊知は常に動き回っていた。

 仕事と楽しみのためには費用も時間も掛けることを惜しまないが、世間体や付き合いのために時間を費やすことは嫌い。ウィンドウショッピングは楽しむが、日常の買い物なんてまず行かない。経理作業なんてしない。すべてカード払いで省力化。通勤こそ最大の無駄。という具合だ。


 厳しくてとっつきにくい人、という印象を持たれることも多かっただろう。

 そして、激昂すると手がつけられなくなるという性格。扱いにくいとも思われていただろう。実は、生駒もそう感じていた。


 ただ、ドライ一点張りの人だったかというと違う。

 こんなこともあった。伊知からバレンタインのチョコレートを渡された。お返しにと、居酒屋で食事をしようということになったが、その夜、伊知はエスニック調のワンピースをゆったりと羽織って現れた。本当はこういうリラックスできる服が好きなのよ、といいながら。

 思えば、あれが伊知との最初で最後の食事になったのだ。


 そんなときの話題は、とりあえずは仕事のこと、今どきの社会問題、景気のことなどへと流れていって、最後は今関心を持っていることや趣味の話に行き着くのが通常だが、その日、伊知はそんな冗長な前振りなどなしに、こんなことをいった。

「伊知っていう名前、旧姓の井端に戻そうかと思っているんだけど、どう思う?」


 生駒は、名前が商売に与える影響はなにもないだろうという正直な意見を吐いたのだが、変えなかったということは、結局は改姓の面倒さが伊知を思いとどまらせていたのかもしれない。ただ、伊知が夫と別居状態にあり離婚が近い、ということを生駒はそのとき知った。そして彼女のがむしゃらなパワーの源にも、勝手な納得をしたのだった。


 賑やかな安居酒屋で、打ち合わせ机よりはるかに小さいテーブルを挟んで、間近に見る伊知の顔。

 今まで気づいていなかったことが見えてきたものだった。艶のある肌。五十を超えているとは思えない張りのある頬。ころころと笑う、みずみずしい唇。

「名前を変えようかなと思ったのは、私の人生を取り戻すため」

 生駒は頷くだけだった。

「あなたのいうとおり、本当は仕事のことなんか関係ないのよ。誰にでも、何かを犠牲にして何かを手に入れる、という場面があるでしょう。私の場合は……、あっ、ごめん。こんな話、するつもりじゃなかったのに。どうしちゃったのかな、私」

 伊知はそういって、話題を、始めたばかりのパラグライダーに向けたのだった。


「事情聴取、どんな感じやった?」

 塊田瑠奈のイタリア料理店「パパラッチ」である。

 伊知馨がマンションの植え込みで発見された日から三日、パーティから数えるとほぼ十日が経っていた。


「どうって、なにも」

 優はようやく席に着いた瑠奈に聞いたのだが、あまり楽しい出来事ではなかったのか、瑠奈は気乗りしない応えを返してきた。

「伊知さんってあまり記憶にないのよね。あの人がお帰りになるとき、一階までお送りしたんだけど、ずっと黙り込んでおられてさ」

「ふうん。生駒の場合は仕事上の付き合いもあるから、伊知さんの会社のことなんかも聞かれてた。ねえねえ、なんていう刑事が来た? 私達のところは藤堂という人」

「ああ、たぶんそんな名前の人。忘れちゃった」


 パパラッチはレストランだというのに、とてもクールな内装だった。

 ステンレスメッシュのスクリーンが客席を仕切り、テーブルは強化ガラス。カフェとしての利用も多いのだろう。


 瑠奈が生駒の方をちらちらと見ている。久しぶりに会って昔話でもしようというのに、優がなぜ自分の上司を連れて来たのだろうといぶかしんでいるのだ。

 優もそれに気づき、

「あ、私ね、ホントはさ、生駒の会社の社員でもなんでもないだ。仕事は手伝ったりしてるけど、無給やし」

と、舌を出す。


 生駒は優に連れられて来たわけだが、気は進まなかった。

 美女ふたりとの食事なのだが、なんとなく所在がない。

 伊知のニュースからまだ三日。これもある。そして最大の理由は、芳川のブログにあった。


 ミラーサイト。

 優が見つけ出していた。

 同じブログサービスを利用し、デザインやタイトルなど見かけは全く一緒。微妙に違うのは固有名詞。そして内容。


 メインのサイトが芳川の素直な善の心で記されているとすれば、ミラーの方は妬みや悪意の心で書かれたものだった。

 ニュアンスが違う。誇張されていた。そして文章の最後には、あざ笑うかのようなコメント。

 生駒や優の、芳川に対する評価は一変してしまっていた。


 例えば、こんな調子である。


0508 吉皮ブログ17

十七番目にご登場いただくのは金屋犬吾さん。

大阪で活躍中のイベントプロデューサー。

お題は「潮騒」


生家が海岸にあったものですから、常に潮騒に包まれている暮らしでした。

二十四時間ずっと波の音が聞こえていたわけです。今にして思えば、なんと贅沢な環境だったのだろうと思います。


せせらぎの音に囲まれた暮らしという少々みみちいお話もありましたが、せせらぎであれ波の音であれ、水の音というのは興奮した心を沈静化させる効果があると聞きます。

実際、のんびりした毎日をたんたんと過ごしていく、という暮らしだったように記憶しています。


四六時中包まれている自然の音には、ほかにどんな音があるでしょう。

風が吹き渡る丘陵部の尾根筋に屋敷があるというのもあるでしょうし、野鳥がいつも庭に来ているという家庭もあるでしょう。

でも、そんなものは一瞬でも止むことがありますよね。

海の波の音というのは止むことはないのです。たとえべた凪のときでも、海岸には小さな波は打ち寄せています。

想像してみてください。あなたの故郷に比べて、あるいは原風景と比べて、いかがですか。

私はそんなすばらしい環境で育ってきたのです。


でも、本当のことをいうと、今や、あまり実感はないのです。

常に潮騒が聞こえているという環境があまりに当たり前のこと過ぎて、どんな気持ちだったか、なにを感じていたかというと、もう表現のしようがありません。身近すぎたものの思い出がえてして希薄なのと同じですね。


実は最も記憶にあるというか、生々しい感覚が残っているのは、台風のときなのです。

そのときは潮騒なんて生易しいものではありません。

まるで地響き。

といっても地響きがどんなものか聞いたことがありませんから、たとえとしては不適切なのでしょうが、それ以外に形容のしようがありません。


時々、雪崩が起きたときとか土砂崩れが起きたときに「ドン!」という音がしたとテレビのニュースで言ってますでしょう。ああいう音が間断なく聞こえるわけです。

もちろん地面も家もそれにつれて振動します。強い風で、近所のあばら屋全体がギシギシ、屋根や板を張っただけの壁なんか、バタバタと音をたてどおしです。

そんな音に混じって、ドン!ドン!という波の音が聞こえてくるのです。

それはそれは恐ろしい体験です。


金屋さんのお話、いかがでした?

潮騒でしたね。

単に海の波の音を、潮騒というところからして、凝った話だろうと想像はしていましたが、ま、漁師の息子としてはこんなものかな、という程度に上手くまとめられていましたね。

でも、後半部分は私の判断で割愛させていただいています。でも、基調は同じですから、金屋さんのおっしゃりたいことは十分伝わると思います。

ああいう音を聞きながら育った金屋さんが、ご自身で、自分は冷静沈着と自画自賛されているところが、なんともぴったりで笑ってしまいましたね。


「ノブは……、なんというか、友達。芳川さんには内緒やで」

 芳川にさん付けすること自体が胸糞悪いと優は言っていたが、瑠奈の手前、しかたがない。

「やっぱりぃ。そうじゃないかと思ってた」

 やっと瑠奈が、はしゃいだ声を出した。

「なんでそう思ったん?」

「だってさ、ユウが会社勤めするなんて、想像できないじゃない」

「そうかなあ。建築設計の仕事って、私は好きやけど」

「へえ、数年間会わないうちに、大人になったんじゃない?」

「なんだ生意気な。でも、ルナもね。まさかレストランを経営するなんて、思ってもみなかったな。案外、肉体労働とちがうん?」

「そう。格好いいかと思ったんだけどさ。きついのよねぇ。立ちっぱなしだし。あ、そういやさ、福娘をしてたとき……」

 ふたりは昔話に移行していった。


 実はミラーサイトの内容に、生駒以上に激昂したのは優である。

 芳川の本性を暴くと息巻いてここへ来た、という意味もあるのだ。

 瑠奈を突破口に。あるいは瑠奈自身がミラーサイトの担当だったりして、という仮説まで持って。


 しかし生駒は怒りはしたが、だからといってどうでもいいという気持ちもあった。

 所詮、その程度の男だったのだ。それが早く分かってよかった。そう思って付き合えば腹も立たない。騙された、という悔しさはあるとしても。


 生駒の耳は優と瑠奈の声を聞いていたし、ミラーサイトの件にも関心はあったが、気持ちの大半は伊知の殺人事件に向いていった。

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