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13 小さな棘

 目が覚めた。いつのまにか眠っていた。ビーンという唸り音が聞こえていた。

 松任は自嘲気味に笑った。


 廊下で人の声がした。

「しっかりしてよ。みっともない」

 母の声だ!

 松任はあわてて体を起こした。

「すまない」

 これは金谷の声!

 母と金谷が話している!

 部屋の扉が薄く開いていた。ふたりきりのようだ。慣れた関係のような口ぶり…。いったいこれは……。


 松任はベッドの縁に座り直した。

 いまさら扉を閉めるわけにはいかない。それにふたりの秘め事を盗み見たいという衝動。意識も急速に戻ってくる。


「なんなのよ。あれは」

「本当にすまない」

「もしかして、祥子というのは」

「……」

 バシッ。

 いきなり、平手打ちの音。

 母が金谷をぶったのだ。

 びっくりして立ち上がった拍子にベッドが軋んだ。息を殺す。

 しかし、もうなんの音も声も聞こえない。廊下には深いじゅうたんが敷かれている。足音は聞こえない。

 松任は混乱した。なにかが起きている。母と金谷は……。


 ドアの隙間から、金谷が通り過ぎるのがちらりと見えた。その目が部屋の中を見ていた。一瞬、目が合ったように感じた。

 しかしその後は、静まり返っている。

 母は? 螺旋階段からバーに下りたのだろうか。


 松任はドアに近寄ったが、その前で躊躇した。

 母がまだ廊下にいるのではないか。いや、それならそれで……。


 ドアノブに手を伸ばす。

 と、再び声が聞こえてきた。今度は芳川の声だった。


「すみませんでした。いやな思いをさせてしまいました。お手数もおかけして。すぐに上がってこようとしたのですが、丸山さんにもお詫びしていて」

 丁寧な口ぶりだが、どことなく緊張した響きがある。

「いいえ、お気になさらずに。あんなことは中年女性の役でしょ。私なら角が立たないし」

 母がすました顔で応えているのが分かる。

 いったい、なにがあったというのだろう。

 母と金谷が、二階の廊下で短い密会をしたということではないようだ。


「それで金谷さんは?」

「娯楽室です。バルコニーで頭でも冷やしておられるんじゃないでしょうか」

 やはり母は、金谷がどの部屋に入るのかを見届けていたのだ。

「すみません」

 芳川は母に平謝りだ。

「では失礼して金谷さんを見てきます」

「あの、伊知さん」

 あっ、立成もいる。


「突然こんなことをお聞きするのは失礼かと思いますが、旧姓は井端さんとおっしゃるんじゃありませんか?」

「はぁ、そうですが」

 少し間が開いた。

 松任は耐えられなくなってきた。

 ここでいつまでも聞き耳を立てているより、知らぬ顔をして外に出て行ったほうがましだ。芳川はこの部屋のどこかに自分がいることを知っている。盗み聞きをしていると思っているかもしれない。


 そっとドアの隙間に目を当てた。

 全員が背中を向けておれば、そっと扉を開けて、反対側から下に降りよう。しかし、そうはいかなかった。

 芳川がすぐ傍に立っていた。娯楽室に行こうとしていたのだろう。しかし、立成が母にかけた言葉に振り返ったという構図だ。しかも、母はこちらに顔を向けている。

 出て行く勇気がなくなった。

「やはりそうでしたか……」

 突然、立成が深々と頭を下げた。


 母が立成を見つめた。

 そして困惑したように、立成と芳川の間に視線をさまよわせた。

「あの、もしかしてあの……」

 と、ようやく母が反応する。

「はい。お忘れでしょうか。立成です。美弥子さんのことでは……」

 まだ頭を下げ続けている。


「あれ、受け取っていただきましたでしょうか」

 立成がようやく頭を上げた。


「ああ……はい……」と、母が絶句した。

「よかった。ブログの二回目を読んだとき、そんな気がして。それからというもの、気になってまして」

「はぁ」

「またこうしてお会いすることになろうとは」

 立成の表情は見えない。

 しかし今は両手を上げて喜びを表している。

 ところが母は、恐怖を感じたときのように両腕を体に巻きつけた。


 芳川が微動だにせず、ふたりを見つめていた。

 と、母はなにも言わずに芳川に向かって会釈すると、くるりと背を向けて足早に螺旋階段を下りていった。

「また後ほど。いろいろお話ししたいことが」

 立成が母の背中に声を掛けた。

 松任は、芳川と立成が娯楽室に入っていったことを見届けてから、階下に降りていった。


 九時を回っていた。

 室内にいても、激しい雨音が聞こえていた。

 そして、あの音が雨音に被さっている。金属的で甲高い唸り音……。

 ゲストハウスそのものを微妙に震わせる音。

 打っては返す波のように、途切れることなく大きくなり小さくなり、鳴り続けている。

 目に見えない小さな棘を、空気中にばら撒いているかのような音。


 人々の胸の中には、その棘が少しずつ溜まり始めていたのかもしれない。

 全体として、まだパーティはゆるゆると進行していた。しかし、手持ち無沙汰な様子で窓際に立ち、恨めしそうに空を見上げている姿がある。携帯電話で小声で話しこんでいる客もいる。

 手のつけられていないアイスクリームは半ば溶けかかり、それを横目で見やる芳川事務所の社員たちの目にも疲れが滲んでいた。


 リビングの微妙な変化を感じ取って、松任は無理やり笑顔を作った。

 しかし、体はまだいうことをきかない。入口に立つ尽くす。そして目は、母の姿を探す。

 その母は瀬謡と部屋の隅で話し込んでいた。


 芳川と立成がリビングに戻ってきた。

 何人かの目がふたりに集まった。同時に時計を気にするものもいた。


 立成がすぐに歓談中のゲストに混じっていった。芳川が社員たちになにやら指示を出した。

 塊田の姿はない。

 松任の体はこわばっていた。まだ動けなかった。しかし、顔には自然と笑みが浮かんできた。


 やがて熱い日本茶と昆布茶が用意され、芳川自ら盆に載せてゲストの談笑の輪に入っていった。彼らを中心とするホストたちの動きによって、パーティが再び引き締まったものになっていく。

 それでもまだ松任は突っ立ったまま、部屋の中の様子を見ていた。

 塊田がどこからか姿を現した。その動きを目で追った。


「お気分は良くなりましたか?」

 突然声を掛けられて、松任はぎょっとして振り返った。


 生駒と三条が笑っていた。

「す、すみません。もう大丈夫です」

「人酔いされたんでしょう」

と、生駒は無難な回答を用意していた。

「ええ、そのようです。みっともないところをお見せしてしまいました」

 松任は頭を下げ、その隙に笑顔を作った。

「お気づきになっておられたんですね。恥ずかしいです」

 生駒はニッと笑っただけで立ち去った。


 ゲストたちに再び動きが出てきた。笑い声も出始める。ただ、折り返し点はとうに過ぎたという感触はある。松任は母に近づいていった。瀬謡の娘はケーキを選ぶのに余念がない。

 と、松任は思わず足を止めた。

「あいつ、許せない」

 母の声。

「なんのこと? 金谷さんのこと?」と、瀬謡がおうように返す。

「私たち家族をむちゃくちゃにして。一日たりとも忘れたことはない」

「え? だれのこと?」

 母の視線がリビングに流れる。つられて瀬謡も。

 眼が合った。


「ちょっと、馨! 独りでなにブツクサ言ってるのよ」

 瀬謡があわてて母の袖を引いた。ハッとする母。

「なに? 私、なにか言った?」

「あんたねえ」

 芳川と立成が通りかかり、

「熱い昆布茶はいかがですか?」

 そんな声にも、母はビクッとして振り返る。

 しかし、声の主が芳川だと知るや、眉間に寄せていた皺をさっと消し、微笑を浮かべた。芳川は、湯呑を受け取りやすいように盆ごと差し出す。

 ただ、芳川を含め、その場に居合わせた誰もが、母が見せた表情の変化とは無関係な、心の中から染み出ていたなんらかの感情の動きを読み取ったことだろう。


 母は、では遠慮なく、と湯呑をつまみあげた。

「瀬謡さんもいかがです? お口直しに」

「はい。でも、あれの味見をさせていただいてから」

 瀬謡がにっこりして、その娘が今まさに挑戦しようとしているプリンに眼をやった。

「はい。どんどん召し上がってくださいよ。なんだか、今日は皆さん、食が進みませんねえ。大雨に気もそぞろで」

「それにしても土砂降りになりましたなあ」

 立成が、さあ、やるぞ、というように腕を伸ばしたり縮めたりしながら、リビングを出て行った。


 松任は芳川の盆を取り上げた。

「私がします」

「もう気分はいいのか?」

「はい。申し訳ありませんでした」

 そういって松任は、芳川を母から引き離した。

 再び母の顔には、パーティを楽しんでいない、というメッセージがありありと表れていた。目は吊り上がり、眉間に皺を寄せ、唇を引き結んでいた。こういう表情のときの母は、何かの拍子で怒りを爆発させる。芳川に対してさえ、どやしつけかねなかった。


「先生こそ、お疲れのようですね。お顔の色が良くないですよ」

 松任は親しみをこめて芳川にいった。現に、芳川の表情は暗かった。疲れているようにも見えたし、イラついているようにも見えた。

「そんなことはない」

 顔色が気になったのか、返事の声音が厳しすぎると感じたからなのか、芳川は顔を両手で擦ると、

「早め目に切り上げた方がいいかもしれないな。雨脚も強いし」

と、独り言のようにいった。

 この男流の相談である。松任はにこりと頷いた。


 松任はテンポの良い曲をかけた。ちょっと懐メロのディスコミュージック。

 誰ひとり踊ろうというものはいないが、それでも、ゲストたちの動きに弾みがついたようだ。芳川がゲストたちの間に姿を消し、松任は再び昆布茶を配り始めた。

 事務所の社員の大声がリビングに響いた。

 スライドショーをバーで上映するという。ゲストのひとりが南米を旅したときに撮影したものを持参してきたという。どれ、じゃ、見てやるか、とゲストたちの興味半分、義理だて半分の大移動が始まった。


 ぼんやりとバーの入口の脇に立って、スクリーンに映し出される殺風景な景色を眺めた。痩せた男性がこれはどこそこでと、どうでもいい解説をしている。金谷の姿はない。母ら三人組は用意された椅子には座らず、壁際に立っている。


 スライドが終盤に差し掛かり、母が近寄ってきた。瀬謡が心配そうな目で追っているが、母はもう落ち着いた表情に戻っていた。

「歩美、いい事務所で働いているようで、おかあさん、安心したよ」

 そうささやかれて、松任は胸にこみ上げてくるものを感じた。ただ残念なことに、口から出た言葉はそっけないものだった。

「うん」

「今日はありがと。楽しかったよ。歩美がしっかり働いている姿も見られたしね」

「おかあさん。話が」

「うん。私もね。でも、今日はもう帰るよ。明日、早いから。また、近いうちに。芳川さんや司会の方によろしくね。姿が見えないから、挨拶せずに帰るけど」

 そういうと、母は瀬謡のところに一旦戻り、二言三言交わすと、今度は会釈しただけでひとりでバーを出て行った。


 そう、近いうちに母と大切な話をしよう。

 いや、今、一言だけでも。見送りがてら一階まで一緒に。

 松任は追いかけようとしたが、リビングでは母が塊田に挨拶をしていた。塊田が、ではタクシーをお呼びします、と母の世話を焼き始める。それを見て、松任はバーに戻った。

 入れ替わりに今度は丸山夫妻がそっとバーを抜け出していった。


 生駒は、スライドにはいささかうんざりしていた。

 携帯が鳴ったのを機に、バーを抜け出した。

「どうしたんです?」

 金谷からだった。

「ん、ま、な。見ての通り。散々や」

 生駒はなんといって慰めたらいいのか分からなかったが、とりあえず、気を取り直して降りてきたらどうかといった。

「ああ、そうする。でも、少し考えたいことがある。へへ、とんでもないことに気がついたんや。あんたにも関係したことや」

「なに?」

「明日の夜、時間あいてるか? ゆっくり話そう。おもしろいことになるぞ」


 それからしばらく後、ひとつの命が絶たれた。

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