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10 回想…海の家

 当たり障りのない話題だった。

 しかし、なかなか、どうだというのだ。

 生駒は丸山の言葉の続きを待ったが、相手も反応を待っているのだろう。子供っぽく光る眼をこちらに向けて黙っている。ドレスの美女が夫の腕にしがみつき、これまた生駒を見つめている。

 それなりのことを言わないと釈放してもらえそうにないが、ここで彼ら相手に、建築家としての芳川邸の批評を聞かせるわけにはいかない。それに優の醜態を見られたからには、早々に退散したい。


 よく練られたプランですね、とかわして、ではまた、というように会釈したのだが、丸山は離してくれない。

「僕は専門家ではありませんので、ピントがずれているかもしれませんが、ここは抑制の効いた冒険心というのかな、設計者のそんな意思を感じますね。しかし一般人の僕には、やはりこれ見よがしのように映る部分が……」

と、辛口の持論を展開し始めた。


 初対面だというのに、自分の意見をずばりと人にぶつけてくる人物はあまりいない。

 生駒はダンマリ派よりこの方が好きだが、こと建築や設計に関しては勘弁願いたいと思っていた。

 自分の専門分野であり、口下手な自分が安易な気持ちで表現した言葉が、相手にどのように受けとられるか、自信がなかったからである。


 ピアノの音が響いてきた。

 それを機にようやく丸山の熱弁は収まり、揃って階下に降り、生駒は再びバーに、丸山たちはテラスに向かっていった。


 なんと驚いたことに、立成がピアノを弾いていた。

 腕に自信があるのだろう。音に釣られて三々五々集まってきた客を前にしても物怖じするところがない。

 もちろん暗譜。

 太い指の動きは滑らかで、日ごろから弾き慣れている様子。

 芳川も、会が盛り上がってご満悦の表情だ。


 曲目はショパンの別れの曲。

 立成は呟くように歌っている。

 「さよなら~、貴方に出会えてうれしかった~」


「へえ、この曲、こんな詩なんかついてたん?」

 生駒はもちろん、優も知らなかったらしい。

「これね、映画の主題歌なんですよ。大林信彦監督のさびしんぼうという映画。主演女優が歌ってたんですって」

 説明してくれたのは瀬謡佐知子だ。

「うちの店でも、酔うと、すぐあれをやりたがるんだから」

「カラオケ?」

「いえ、カラオケはないんですよ。ふふ、はた迷惑なのにねぇ」


 このおでん屋のママは、そんなふうに言いながら、実は嫌いではないのだ。立成にあわせて小声で口ずさんでいる。

「おかげであたしまで覚えてしまいましたよ」

 次に立成が引き始めたのは「渚に残した足跡」。

 かつて3人組のアイドルが歌って大ブームとなった曲だが、リバイバルで再びヒットしている。ちょっと懐メロ風の歌詞が、今の若者たちに受けているらしい。

 立成の指がピアノの鍵盤をリズミカルに叩いている。

 懐かしいメロディー。

 生駒の胸に、夏の砂浜の情景が浮かんだ。


 そろそろジャグジーが気になるのか、優が螺旋階段にちらちらと眼をやっている。

 もちろん生駒にそんな気はない。

「テラスに出てみよう」


 デッキチェアに、丸山夫婦が座っていた。

 芳川が金谷を伴って、プールサイドを一回りしている。

 残念ながらプールに入っているものはいない。


 丸山が立ち上がって頭を下げてくる。生駒はやり過ごそうとしたが声を掛けられてしまった。

「雨、なんとかもっているみたいですね」

 金谷が驚いたように振り返った。こわばった表情をしていた。

 飲み過ぎたにしては、顔が険しい。

 この男は、いわゆる愚痴上戸だ。目尻に笑い皺を作りながら、ありとあらゆることをぼやくのだ。

 しかし今は少し様子が違う。


「ん? 生駒さん、この人らと知り合いか?」

 粘りつくような言葉を寄越してきた。


「さっき知り合った」

「ふん」

 やれやれ、今日は怒り上戸に変身か。妙な酒でも飲んだんじゃないか?


 生駒はプールサイドの手すりにもたれた。

 傍らで芳川が水温を確かめるように手を水に浸したりしている。

 ふとある光景が心に浮かんだ。


「プールかぁ。実は昔、海の家でアルバイトをしていたことがありましてね」

 おかしなことに、今の芳川の姿が、昔毎日のように眼にした光景、海の家の大将が海に手をつけていた姿とダブって見えた。

 明日、須磨の現場に行くという予定が、脳になんらかの作用をもたらしたのかもしれない。

 生駒はついそれを口にしていた。

「須磨浦で。高校二年生のとき。かれこれ三十年ほど前」

 過ぎ去っていく夏の思い出、というような軽い話題。


「へえ!」

 その程度の話に、芳川ではなく、丸山が大きく反応した。

「奇遇だな! 僕もそれ、したんですよ。須磨で。高一のとき」

 今度は生駒が驚く番だった。

「え、じゃ、同じ夏かもしれない」

「生駒さんは、なんというところで働いていたんですか? えっと僕は、うーん、忘れてしまったな。駅から西へ数件目のところで、少し大きめの店でした」

 ますます驚いた。生駒もそのあたりだったのだ。

 しかし生駒も、店の屋号は覚えていない。


「懐かしいなあ!」

 顔も名前も覚えていないのだから、懐かしいと言われてもぴんとこないが、なんとなくうれしい気分になるのは、それがいい思い出だからだろう。

 丸山にとってもそうだったに違いない。

「安い給料でしたね」などと言いながら、しきりに店の名を思い出そうとしている。

 生駒も丸山という名を、かすかに残された記憶の引き出しの中に転がしてみた。


 一九七五年、高校二年の夏、生駒は欲しかったドロップハンドルの自転車を購入する金を得るため、バイトをすることに決めていた。

 しかし当時は、現在のようにいたるところでコンビニエンスストアやロードサイドレストランのバイトがあったわけではない。親や知人のつてを頼ってバイト先を見つけなければならなかった時代だ。


 生駒にとってラッキーだったのは、相談した叔父がそれならと、付き合いのある銀行員の紹介で海の家のバイトの話を持ち込んでくれたことだ。

 大阪市内に生まれ育った生駒にとって、そのバイトは魅力的に映った。

 太陽溢れる海水浴場でのバイト。きっと楽しいことも多いに違いない。

 何度も泊りがけで遊びに行ったことのある叔父の家に泊り込んで通えばいいという。

 生駒は喜んでその話に飛びついたのだった。


 一学期の終業式が終わるや否や、ボストンバッグに下着や着替えを詰め込んで須磨に向かった。

 駅に着くと早速、コンコースのテラスに立って海岸を眺め渡した。

 潮の香りを吸い込む。

 頬を撫でる海の風。

 痛いほどの光を放っている太陽。

 止むことのない波の音。

 子供たちの歓声。

 はためく幟。


 すでに百軒ほどの海の家が営業を始めていた。

 どの店で働くことになるのかわからないが、どの店も活気があって、今年の夏の最高の楽しみが目の前に用意されているような気がした。


 須磨浦海岸はJRの線路沿いに数キロにわたって続いている。

 海水浴客は、駅のコンコースのテラスから、さてどのあたりで泳ごうかと、まず浜を眺め渡す。

 そして、階段を西へ下りるか東へ降りるかと悩む。西へ降りれば、海水浴場の端部の比較的混雑の少ないところで楽しむことになるし、東に下りれば水族館に近い広い浜で遊ぶことになるのだ。


 階段を西へ下りた客が、目の前の海の家の呼び込みをやり過ごして、とりあえずは少し先まで行ってみようと歩き始める。

 そのまま浜に出て、足を取られる砂の上を歩く人も多いが、それが嫌な人は、線路と海の家の間に設けられた幅一メートルほどの海岸管理用通路を行くことになる。

 砂の上を歩くにしろ、歩道を行くにしろ、二軒目、三軒目とやり過ごし、もうどこでも一緒だなと思い始めるような位置に、その海の家はあった。


 その日の夕方、叔父と紹介してくれた銀行員に連れられてコンクリート歩道を伝っていった。

 最後まで粘って真っ赤に日焼けした海水浴客とすれ違いながら、その日の営業を終えようとしている海の家に向かった。

 そのときの踊る気持ちの名残は、今も心の隅に残っている。


 積み上げられた魚網。

 フジツボがこびりついた赤い浮きの山。

 漁船のものらしき錆びたさまざまな鉄の道具などが立てかけられていた。

 それらを横目で見ながら、湿った緑色のマットを踏んで、薄暗くなりかけたその仮設の建物に足を踏み入れたのだった。


 出迎えたのは、無愛想な角刈りの大きな男だった。

 白いランニングシャツに腹巻。

 受付カウンターの中でその日の売り上げを数えているのか、まともに顔もあげずに銀行員に挨拶を返すと、生駒をちらりと見やった。

 大声で、

「千五百円だ。日曜は千八百円。雨の日は休み」

 それだけ言うと、今度はすでに働き始めている他のバイト生の動きに眼をやり、女の子に土間を掃除しろ、箒はそこだ、と床下にあごをしゃくる。


 千五百円?

 安いとは聞いていたが、一日働いてわずか千五百円とは。

 しかし、ここまで来て、やっぱりやめだとはいえない。

 叔父の顔が少し心配そうになった。

 生駒が黙っていると、銀行員が念を押してきた。生駒君、それでどうだい。

 間髪をいれずに海の家の大将。

「それ以上は出せんぞ」


 生駒は、よろしくお願いします、と頭を下げた。

 大将はフンと鼻を鳴らし、初めて顔をほころばせた。

「あいつを手伝ってやってくれ」

 浜の方をあごでしゃくった。


 見ると、暗くなりかけた砂浜で、何本ものパラソルを抱えてよろけている男がいた。

 パラソルを畳んで小屋になおそうとしているところらしい。

 生駒は叔父に、もう帰ってもらっていいと目で合図してから、砂浜に駆け出していった。


 こうして生駒の海の家暮らしは始まった。

 単調だが、おもしろく充実しているともいえた。

 出勤は八時半。帰りは六時ごろ。

 することといえば、朝一番に海の家や周辺の掃除、おでん鍋に火を入れること、パラソルを浜に立てること……。

 それからの時間は終日、呼び込みや料金の受け取り、引き換えにプラスチックの籠を渡すこと、うどんやカキ氷の注文を取り、自分で作ってサービスすること。そして打ち水、浮き輪の空気入れ、などなど……。


 指示されことはなく、気がついたことをやるというスタイル。

 時には買い出しに行かされることもあるが、概ね自分で動いてゆるゆると時間が過ぎていく一日。

 休憩時間などはない。昼食は適当に店にあるものを食べる……。


 時には、朝早く誰もまだ来ない海で泳ぐこともあった。

 水は冷たいが、鳥肌が立つというほどでもない。

 大阪湾内ということで、透き通った水とはお世辞にもいえないが、それでも緑がかった海水を通してカレイやコチなどが泳いでいるのを見ることもできた。

 深いところだけきゅんと冷たい水の中で足を動かし、沖合から振り返ると、ずらりと並んだ海の家……。

 背景には低い山々が緑の峰を連ねていた。

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