九
「部屋に新しいお札貼ってもろたし、御守りも首にかけた。前に貰た白いお札もブラの中に挟んだるしな。これで準備万端やで」
香織は自信満々で寝る準備を終えた。部屋の四方の壁には真新しい白い札が貼られている。簡単な結界みたいモノが出来ると聞いた。
御守りと前に貰った白い札も身につけているのでもう怖いものはない。
本当に悪霊が来れば、それはそれでめちゃくちゃ怖いことに変わりはないのたが。
兎に角、昨日までとは安心感が段違いなのは間違いない。
香織はそう思い部屋の照明を落とした。真っ暗闇は怖かったので豆電球だけはつけておくことにした。
今日あった事や、皆んなのこと、これからの事を考えながらベットに横たわっているうちに
彼女は気づけば眠りに落ちていた。
香織は夢をみていた。夢の中では山田はまだ生きていて、奈美はもちろん早希も草野も健在だった。あの林間学校が始まる前の教室での楽しい時間の夢だった。
今の現実こそが夢であればどれだけ幸せだっただろう。香織はとても楽しいひと時を夢の中で過ごしていた。
しかし、香織は夢の中で嫌な気配を感じた。空気が変わる、温度が急激に下がり、背筋にゾゾゾと悪寒が走る。全身が総毛立つような、胸に何かこみあげるような嫌な感覚。
夢なのでそう感じているような気がするだけかもしれないが、何か嫌な感じがした。
「なんや、この気持ち悪いの…。なんや? 水の音が聞こえる…」
教室の外にはいつしか雨が降っていた。気がつくと山田の姿がどこにもなかった。周囲を見回すと教室の入口で長い髪の毛に絡めとられ廊下に広がる闇の中に吸い込まれていく山田の姿が見えた。山田の手脚はだらりと下がり顔中の穴からは体液が噴出している。
香織が「山田くん!」と手を伸ばした時にはもう山田の姿はどこにもなかった。
どうしようと振り返ると早希の身体にも黒い髪が絡まっていた。
「早希ーーーーー!」
香織がそう叫んだ頃には早希は身動きが取れない状態になっていて床に転がっていた。彼女は恐怖に染まった瞳でこちらを見ながら右手を伸ばしたが、全身に黒い髪が絡みついた途端そのまま床に吸い込まれていった。
「いやーーーーーーー!」
叫ぶ香織の隣では草野にも長い黒髪が襲いかかっていた。香織が草野を見ると彼は髪に押し倒されたままどんどん髪の毛に身体を包まれていった。最後に覆われていく頭部を香織は直視する事が出来ない。
鼻と耳の穴や口の中にどんどん入っていく大量の髪の毛。草野の目からは涙が流れ、その瞳は白目を剥いていた。
そして、全身が髪の毛で出来た繭のようになったところで彼は床の中に消えていった…。
「いや…、なんなんこれ…。これって、皆んなに起きたことなん?」
香織は恐怖と涙で視界が歪む。もう教室には香織以外は誰もいない。
「あいつと奈美ちゃんはどこ行ったんや? 襲われたとこがないって事は、あの二人はまだ無事って事なんやろか」
香織は涙を拭うと三人が消えた場所を見る。もうそこには変わったところは何もない。普通の廊下と教室の床だ。
しかし、このまま何もなく終わるとは到底思えなかった。
香織は自分の首と胸元を触る。
「あれ? ないやん…。あぁ、夢の中やからか。これどうなるん? 夢の中やからあかんの?」
そこにあって欲しかった感触がなく。とてつもない不安が彼女を襲う。唯一の頼みの綱がそこになかったのだから致し方ない。
「ちょっと待ってや…。廊下おかしない?」
先程まで何の変哲もない廊下だったはずが、いつの間にやら黒一色に染まっている。
何がという訳ではないが、嫌悪感を感じることだけは確かだ。
目を凝らすとその黒は蠢いているように見える。じっくり観察すると香織にはそれが何であるのがはっきりとわかった。
「あれ…、髪の毛やん…」
廊下を蠢いていたモノ。それは廊下を埋め尽くすほどの大量の長い髪の毛だった。
見ているだけで吐き気を催すほどの不気味さがそこにあった。
「えぇーっとー。これって、そういうことやんね?」
彼女の視界には大量の髪の毛が廊下から教室へと侵入を試みる様子が見て取れた。髪の毛の先端がにゅるにゅると蠢き、廊下の壁や床を這っている。
「気持ち悪いし、怖いし、最悪や。入ってこんといて! さっさと帰ってーや!」
香織が精一杯声を張り上げた瞬間、髪の毛が一斉に廊下から教室内目掛けて飛び込んだ。入口や窓に向かって大量の髪の毛が束となって飛ぶ。
「いやーーーーーーー!」
香織が悲鳴をあげるのと同時に教室と廊下の境界に眩い閃光が走る。視界を埋め尽くす白い光が世界を覆い尽くし、香織は白い世界に立つ。
そこには、髪の毛の怪異はどこにもいなかった。
夢の中の香織が「良かった…」と呟き目を閉じると、現実世界の香織が目を覚ました。
「夢か…。そらそやんな…、そや!」
香織は飛び起き急いで首と胸を触る。そこには確かな感触があった。ホッと胸を撫で下ろし、ベッドから立ち上がると照明の電気をつける。
「あれ? 破れてるやん…」
香織の目に飛び込んできたのは四方の壁で破れた白い札と部屋に幕を張ったような白く淡い光だった。
◇
僕は何故かいつもより早く目が覚めた。毎朝目覚めが悪い僕が何の苦労もなくすっと起きた。時計を見るとまだ午前5時を過ぎたくらい。僕は嫌な予感がし、スマフォを手に取るが画面には着信などの通知はない。
僕が取り越し苦労だったかと安堵しスマフォを机に置こうとしたその時、スマフォの着信音が部屋に鳴り響いた。
「びっくりした! 誰や、香織?」
僕は急いでスマフォを操作し通話を開始した。香織からこんな朝早くに電話がかかってくることなどない。僕の心は焦りでいっぱいだ。
「もしもし、香織か?」
「おはよー。朝早くにごめんな。まだ寝てた?」
「おはよ。大丈夫や、ちょうど起きたとこやで。で、何かあったんか? 怪我とかないか?」
「落ち着いて! 私は大丈夫や。怪我一つあらへんで。ただ、結界やっけ、あのお札は破れてもたけどな」
「破れたて、アレに襲われたんか?」
「そういうことになるんやろか。厳密には襲われそうになったけど助かった、やな」
僕はそれを聞いて脚の力が抜け、ベッドにストンと腰をおろした。電話の向こうで香織が何か言っているがよく聞こえていない。
香織が無事だった事に心の底から安堵した。
「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
「あぁ、ごめん。香織が無事やった辺りから全然聞いてへんかった」
「ほとんど聞いてへんやないの!」
「ごめんて。で、何やったっけ?」
「もうー。襲われた時の事やったけど後で話すわ。今から準備して、そっちに行くさかいに」
「今から? まだ6時にもなってへんで?」
「ええやん、もう二人とも起きてるんやし。あっ、朝ごはんもそっちで食べるんでよろしくやで」
「何となくそんな気はしてた…。了解」
「じゃあ。またあとで」と言い香織は通話を切った。僕は香織に色々と言いたい事があったが、取り敢えず彼女の無事を喜ぶことにした。
30分ほど経った頃、香織は合鍵を使い玄関を開けて勝手に入ってきた。僕はキッチンで二人分の朝食を作っている。
「おはよーございまーす」
ドアを開ける音と共に彼女のよく通る声がリビングの奥にあるキッチンまで届く。今日は休日なので私服での登場。ラフなTシャツ、スウェット姿とほぼ部屋着のまま来たに違いない。
僕より早く起きて活動していた母が笑顔で香織を出迎える。
「おはよう、香織ちゃん。今日も元気やねぇー。ご飯もうすぐで出来るから座って待ってて」
「ありがとうございます。でも、私も手伝います」
香織は母にそう言うとキッチンに入ってくる。調理する僕の身体を避けながらスルスルと移動し棚からコップを、冷蔵庫から牛乳、マーガリンを取り出す。そして、それをお盆にのせてテーブルへと運んでいった。
勝手知ったる何とやらとはこのことだ。彼女はまるで自分の家かのように準備を進めていく。
「サラダ持っていくで?」
「お願いー」
「はいよー」
僕はポーチドエッグ、ウインナーをお皿に盛り付け、ちょうど焼き上がったロールパンをカゴに入れるとテーブルに向かった。
香織はその間にテーブルの上を整えてくれていた。
僕が料理を並べ終わると二人並んで椅子に座り、一緒に手を合わせ「いただきます」と食前の挨拶をする。
「今日はいつものやつじゃないんやね?」
「お前の分も作るなら変えなあかんやろ。こっちのが好きやろ?」
「私あれはあれで好きやで。これも好きやけど。まぁ、色々考えてくれたんやな。ありがと」
「おう」
そして、僕たちは朝食を済ませると本題に入る。忘れそうになるが彼女は朝食を一緒に摂るために朝早くからうちに来た訳ではない。
「怪異に襲われた事を話す」ためにうちに来たのだから。
僕は用意しておいたノートを開きペンを握ると香織の顔を見る。襲われた割には香織の表情は意外と落ち着いていた。
「じゃあ、話してくれるか?」
「うん。まずな、襲われたんは夢の中やねん」
「夢の中…、なんかどっかで聞いた事あるような気がするけど…。まぁ、今はええか。それで?」
「最初、教室の夢を見てたんや。そこには、山田くん、早希、草野くんがいた。あんたと奈美ちゃんはおらんかったと思う。もしくは、最初はいたけど途中からおらんくなったんかもしれん。その辺は良く覚えてへん」
「うん。大丈夫や」
「でな、窓の外に雨が降り出したんやけど、その辺りから教室の空気が一変するんや。まず、山田が全身を髪の毛で絡め取られた状態で廊下に引き摺り込まれていった。山田は窒息死してた…。目、鼻、耳、口からどばって何か出てたように見えたわ…」
「えぐいな…」
「思い出すだけでも吐きそうになるで。でも、まだ続きがあるねん。山田が廊下に消えて早希に相談しよ思て横見たら、早希の身体にも髪の毛が絡まってたんや。床に倒れててすごい怖そうな目で私に助けを求めてた。でも、身体中に髪の毛が絡まったら床に吸い込まれていったんや…」
「ちょっと待ってや。まさか、その状況って」
「たぶん、そういう事やと思う。で、次は草野くんや。彼は大量の髪の毛に押し倒されて、どんどん髪の毛に包まれていった。最後、顔やったんやけど鼻、耳、口いっぱいに髪の毛がどんどん入っていった。白目剥いて涙を流す顔が今でもはっきり思い出せてまう。で、髪の毛の繭が完成したら草野くんも床の中に消えてった…」
「気持ち悪すぎるやろ…。朝ごはん吐きそうや…。で、その後が香織てことか?」
「うん。おそらく、私もそうなるはずやったんやろ。廊下が髪の毛でいっぱいになって、じわじわ教室に近づいて来たんやけど襲いかかってきた瞬間に目の前が真っ白に光って、私の周りは白い世界になったんや。で、怪異もどっかいったんや」
「そうか。そんな事になっとったんか。兎にも角にも、お前が無事でホンマに良かったわ。お前にもしものことがあったら…」
「あったら…?」
そう言い香織が僕の瞳を見つめてくる。僕はその瞳にドギマギし直視できず目を逸らし、咄嗟にはぐらかした。
「ん?」
「ん、じゃないわ。そこは、嘘でも何かええこと言うてや」
「そんな恥ずかしいこと出来るかいな」
「ちぇー、ノリ悪いなぁー」
「ホンマ、お前は上手いこと場の雰囲気ぶっ壊すな」
「私、すごい?」
「褒めてへんわ!」
香織は「えへへ」と笑う。僕はそんな彼女にはやっぱり敵わないなと思った。
「で、今日どうするん?」
「どうするかねぇ…。状況がわからんと動けんで何も考えてなかったんよ。だから、今から考える」
「そうなんや。ほんなら、ちょっと私に付き合ってくれん?」
「それは構わへんけど、どこ行くん?」
「それは着いてからのお楽しみや!」
そう言う彼女の瞳は子どものような無邪気な輝きを放っていた。
僕はその瞳に嫌な予感しかしなかった。




