1 野良猫アビー
アビーは野良猫だった。
どこで生まれたのか、何故一匹でいるのか、名前も年令もわからない。
ただ母の温もりは覚えていた。
温かい母親の体温を感じ、兄弟たちと体を寄せあっていたのを覚えている。
アビーは母親に守られ兄弟たちと安心して眠ることができた。
アビーの体は汚れていた。
雨風にさらされ、道行く人間からはゴミを避けるように蹴られ鬱陶しがられていた。
彼らは眉間に皺を寄せ怪訝な顔で見下ろしていた。
毛繕いしようと思っていても安心して休める場所など無い。
人間の子どもに出会せば追いかけられ石を投げつけられることもある。
常にお腹が空いていて目つきは鋭くなるばかりで可愛げはない。
自分の存在を消すのに鳴き声をあげることさえしばらくなかった。
川の水をたくさん飲んでもお腹を満たすことはなく、逆にお腹を壊し苦しむ日もあった。
なんのために生きているのだろうか。
生を受けたのには意味があるはず。
知らぬ間に見馴れぬ大きな屋敷に迷い込んでしまったアビーは、死ぬことを覚悟した。
逃げる体力も残っていなかった。
このまま人間に排除され酷い目に遇うのだろう。
それが定められていることならば逆らわずに受け入れるしかない。
「こちらへいらっしゃい」
差しのべられた優しそうな手を無意識にひっ掻いてしまった。
逃げる気力や体力も残っていなかった俺は呆気なく人間に捕まってしまった。
いい匂いのする柔らかくて温かい大きな人間に抱き抱えられ仕方なく諦め身を委ねた。
それは母の温もりに似ていた。
温かいお湯の入った桶に入れられ、花の香りに似た泡で全身を洗われていた。
大きなタオルにくるみ優しく体の水を拭き取ってくれている。
俺には抵抗する力も残っていなかった。
薄い塩味のスープに焼いた魚の身がほぐしてある皿を目の前に出されて匂いを嗅いだ。
恐る恐るスープを舐めゆっくりと魚の身を口に入れた。
全身にしみ渡るように少しずつ力が甦ってくる。
「にゃーん」
嬉しさのあまり鳴き声をあげる。
目の前にいた人間は天使のようだった。
銀髪に深い青色の瞳の華奢な女性は俺に温かい微笑みを向けてくれていた。
俺を助けてくれた人間の女性の名はリリアージュというらしい。
側にいる人間からリリアージュ様とか奥様とか呼ばれていた。
リリアージュの部屋は一階にあり、テラスからは低い階段で庭に出られるようになっていた。
人間にしては小さな部屋で隅に仮眠用のベッドがあったが寝室は別で二階にあるようだった。
ああ、そうか。俺はこの庭に迷い込んでいたんだな。
リリアージュは砂を敷き詰めた用を足す木箱を用意してくれ、しばらく俺はこの部屋で過ごすことになった。
リリアージュは俺のことをアビーと名付けた。
この名前になんの意味があるのかはわからないが、俺は彼女がつけてくれた名前を気に入っている。
彼女が俺の名前を呼んでくれる度に温かい気持ちになった。
テラスから入ってくる優しい風と柔らかい日差しの午後、僕はリリアージュの膝の上に座り頭を撫でてもらっている。
「アビーはずっとここにいてね。あっ、もし帰る場所があったら遠慮しなくてもいいんだけど···私は貴方と一緒に居たいわ」
僕に帰る場所などない。リリアージュと一緒に居たいのは僕の方だ。とは言えず、
「にゃん」と鳴いた。
この国では女性が進んで勉強する事を良しとせず、妻が夫よりも多くの知識を身に付ける事など非常識とされている。
リリアージュは好奇心旺盛で、小説の中に出てくる動物や植物などに興味を持ち、動植物の専門書を読みいろいろな事を調べていた。
実家から持ってきた専門書は他にも種類があり、夫に知られると捨てられてしまうので、こっそりと見ているようだった。
僕を助けたのも動物の専門書に書いてある通りにやってみたらしい。
猫の食べるものや行動、排泄の事までよく知っていた。彼女のお陰で不自由なく暮らしている。
僕は生きてきた中で1番幸せを感じ、平和で穏やかな生活を送っているうちに、ずっと前からリリアージュと一緒にいるような感覚になり、辛くてひもじい野良猫だった記憶でさえ薄れていくようだった。
器用なリリアージュは僕にバンダナを作ってくれた。もちろん僕の宝物だ。
リリアージュの瞳の色に似た青色のバンダナを首に巻き、僕は尻尾をピンと立て胸を張って歩いている。
僕はリリアージュといるだけで幸せなんだ。
旦那様と呼ばれているリリアージュの夫エクウスは、最初は彼女に優しくしていたようだが、結婚して一年を過ぎた頃から暴言や暴力を振るうようになった。
僕の顔を見る度に眉根を寄せるエクウスが嫌いだ。僕を疎ましく見ていた街の人間たちと同じ目をしている。
自分の妻であるリリアージュを幸せにできないエクウスが夫を名乗ってもよいものなのか?
僕はリリアージュに暴言や暴力を振るわないし、優しくする自信がある。
猫の僕でも優しくできる。
僕はリリアージュを泣かせるようなことは絶対にしない。
僕はリリアージュの笑顔が一番好きで、泣いている顔や困っている顔は見たくないんだ。
最近のリリアージュは暗い顔をすることが増えてきた。
僕は二階の寝室には入れないので、夜にエクウスと何かあったようだった。
リリアージュに涙の痕と頬の腫れがあったのを僕は見逃さなかった。
僕はとても腹が立った。
人間は番に暴力を振るう生き物なのか?