おまけ② とある魔術師の話
売られた奴隷がどんな扱いをうけるかなんて、馬鹿でもわかる。だから死に物狂いで逃げて、逃げて、逃げて。
薄暗くて汚い路地裏で這いつくばって生きていた。そうして、このまま、自分はゴミのように死んでいくのだと。ずっとそう思っていた。
そんな俺を、君だけが見つけてくれた。
「卑怯者…! ルーカスなんてだいっきらい…!」
涙を流しながらこちらを睨むエルーシアに、思わず口角が上がる。その表情も、言葉も、この場ではただ煽るだけだということを、彼女は知らない。
それにしても、まだ抵抗するだけの理性があるとは驚いた。やはり、彼女にはもう少し強めに術をかけた方がいいようだ。
「エルーシア、ちょっと大人しくしてて?」
自身の唇を噛み、血を滲ませる。そして、そのまま唇を合わせ、口内に溜めた血を流し込む。
「──んぐっ?!」
血の味が気持ち悪いのだろう、激しく抵抗する彼女の手足を押さえつける。そして、彼女の喉が上下するのを確認してから、ゆっくりと唇を離した。
「──ん、飲めた?」
「ごほっ、なにして…」
「エルーシアが素直になるお呪い」
そう言って微笑めば、目の前の彼女の表情が分かりやすいぐらいに引き攣る。何をされるのか分からなくて、怖いのだろう。
震える彼女の身体を抱きしめ、落ち着かせるようにそっと背中を撫でる。
「お願い…やめて、」
「大丈夫。次に目が覚めたときには、怖いことなんてなんにもないよ」
「なに、やだ、ルーカス…!」
呪文を唱え始めれば、エルーシアが拒絶するかのように首を横に振る。そんな彼女の目元をそっと手で塞いでやれば、そのまま意識を手放した。
「おやすみ、エルーシア」
腕の中で規則正しい寝息をたてるエルーシア。汗で張り付いた彼女の前髪をそっとすいてやっていれば、突如、胸に激しい痛みが走る。
「………チッ」
魔力の酷使による反動だろう。口の端から伝う血を乱暴に拭っていれば、腕の中のエルーシアの身体が少しだけ動いた。
「……どんな夢、見てるのかな」
昔から変わらないその寝顔に、ひどく安心する。
怖くて眠れないと泣きついてきた夜、こっそりと彼女の様子を見に行ったことがあった。彼女の涙の跡をそっと拭って、落ち着くように魔法をかけたことを思い出す。
「エルーシアったら、人の気も知らないで「一緒に寝よう」だなんて言うものだからさ、本当困ったよ。
……あの頃からエルーシアは俺のこと、弟としか思ってなかったよね」
いつまで経っても家族の枠から外れられないのが、嫌で嫌で仕方なかった。
だから、君に相応しい男になれるよう、ローゼ家では勉学や作法に励んだ。君を守れる強い男になれるよう、魔術の特訓も欠かさなかった。
醜いこの身体を消すことはできないけど、それでも君の隣に並べるためならばと、何だってやったし、君が望むならどんな事でも叶えようと思っていた。
だけど、エルーシアは俺を選んでくれなかった。
「素敵な耳飾りをくれても、離れないでとは言ってくれなかったよね」
エルーシアの耳で光る金色の飾りをそっと撫でる。初めて出会った日、彼女が綺麗だと褒めてくれた、俺の瞳と同じ輝き。
醜いこの身体も、君が褒めてくれるなら悪くないと思えた。
「エルーシア」
名前を呼んで、エルーシアの額に触れる。彼女にここまで大規模な精神操作の魔術をかけるのは初めてだ。
「………俺は君だけがいればいいんだ」
こんな事は許されない、許されるはずがない。
それでも、俺は君を愛してる。
俺だけを見て、俺だけに縋って。他の何を犠牲にしようと、君を、君だけを守ってみせるから。
だからお願い。
「──ずっとそばにいて」
遠い記憶の中、エルーシアが無邪気に笑った気がした。もう二度と見ることのないその笑顔を、俺はきっとずっと忘れない。