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ヘリオス  作者: みおいち
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外伝 第7話

平日の夜の時間帯に、川崎家に寄った。外は弱いのに顔に刺さるような冷たい風が吹いている。この時間、凪先生は稽古が終わり演奏をしていることが多い。到着次第凪先生の稽古場まで行くと、やはりそこでギャラリーを前に箏を弾いていた。


「山田君じゃん、久しぶり」


菅野さんが小声で話しかけて来た。他のギャラリーも俺に気づいて、手を振って来る。


「優成、こんな時間にどうした」


昴が俺の隣に寄る。俺が凪先生の弟子だった頃、稽古していた時間だ。かつての仲間がそこには揃っている。


「ちょっと確かめたい事があって」


「確かめたい事?」


昴の怪訝な顔に頷いただけで言葉は返さず、俺は凪先生の演奏に聴き入った。凪先生の、柔らかく澄んだ海のような、この神々しいまでの演奏が好きだ。


俺は長い間この人を見て来た。この人だけを、時に幸せに、時に悲痛な想いを抱えて。この、心を掴んで離さない演奏が、今でも確かに俺を満たして、俺の全てを揺さぶる。


演奏が終わって拍手が止むと、昴が大声で言う。


「先生、暇人優成が来てます」


そこで凪先生は俺に気づいて、微笑んで言った。


「あれ本当だ。優成くんどうしたの」


いつもの凪先生だった。綺麗で可愛くて、手を伸ばしても届かない高みにいて、無茶だと思うほどの努力をする人で、何とか力になりたいと思わせる、大事な人。



それでも、今までとは違うことに、俺は気づいた。



大切なことに変わりはない。この人のために芸をもって尽くしたいと思うことに変わりはない。



だけど俺の心臓は、もう凪先生を見て動かない。




「確かめたい事があって寄りましたが、気がつきました。もう大丈夫です」


俺は笑って返事をした。


「確かめたいこと?何だかよく分からないけど、嬉しそうだね優成くん」


「お陰様で」


早く帰って伝えなければ。一刻も早くこの想いを、一華に。


「あ、おい、もう帰るのか優成」


昴が俺を呼ぶ。


「昴、また今度」


返事もそこそこに廊下に出ると、川崎さんが向こうから切羽詰まった真剣な顔をしてやって来た。


「山田君、来ていたのか。ちょうど良い。凪はいるか」


立ち止まりもせず大股で稽古場に向かうと、凪先生を呼んだ。


「凪、すまない緊急事態だ。帰りが遅くなって対応が遅れた。山田君も、悪いが事務室に来てくれ」


俺は大事な用があると言いたかったが、川崎さんの表情が只事ではなかったので話を聞くことにした。




「一体どうしたの、晃輝さん」


三人で事務室に入ると、難しそうな顔をして家元が革張りのソファーに座っていた。


「2人ともこれを見て欲しい」


言われてパソコンの画面を見て、絶句した。


「酷い、何これ」


凪先生が呟く。雑誌の記事のような2ページを表示したカラーの画面中央に俺のennuiの広告の写真、左に一華の、右に凪先生の写真が写っている。上部に美しさの欠片も無い、下品なフォントで書かれた文面に、俺は言葉を失った。



「スクープ!箏会のプリンス 禁断の二股発覚」




「プリントアウトしたのがこれだ。読んでみてくれ」


川崎さんから凪先生と同じものを渡されたそれは4ページほどあり、3〜4ページ目にも写真があった。3ページの右上に、俺が凪先生を舞台袖で抱きしめている写真。左下に、川沿いを俺が一華と手を繋いで散歩している写真。4ページ目には凪先生と川崎さんのツーショットの写真が載っている。


「これは明後日発売の、週刊現状に出る予定の記事だ」


内容はこうだ。俺と凪先生は熱愛中で、それは川崎流の中では暗黙の了解である。だが俺は一華とのデートもたびたび目撃されており、人妻である恩師と、共演したモデルに二股をかけている。川崎流のプリンスは、とんでもないプレイボーイだ、ということだ。


門下生のインタビューも出ている。


「次代家元と山田さんが愛し合っているのは、門下生にとっては周知の事実ですよ。いつも熱い目で見つめ合っていますし、どんな時でも一緒に行動しています。給湯室でキスしているところも何人もの門下生が目撃しています。山田さんが次代との師弟関係を解消したのも、恋仲を隠すためでしょう。次代家元は最近結婚しましたが、お相手とはお見合い結婚のようですし、恋人関係を隠すために誂えられたお飾りの夫なんじゃないでしょうか」




「どうしてこんなタイミングで」


俺は放心してコピーをテーブルに放り投げた。これでは一華に想いを伝えても、この記事の言い訳のようになってしまい信じてもらえない。


「私、優成くんとキスしたことなんてない!」


凪先生が傷ついたような、必死な叫んだ。


「正確に言うと、俺は凪先生の額にキスしたことはありますが、それも一度だけです。それ以上のことは何もありません」


川崎さんの目を見つめて弁解すると、その堂々たる男は言った。


「俺はこの記事を読んで2人の仲を疑った訳じゃない。そもそもこの家に給湯室なんてものは存在しない。万が一、俺が凪と再度婚約をする前に山田君と凪の間に何かあったとしても、それは俺の自業自得だ。君たちが責められる理由は何もない」


「ただ、世間は信じる者も少なくないだろうね」


側で聞いていた家元が言った。


「大方、このご時世で売上部数が伸びないために、人気が急上昇している山田君の記事を捏造したんだろう。写真集の話が何処かから漏れたのかもしれないな」


家元は俺に向かい、神妙な顔つきで続ける。


「山田君、すまない。君を守ってやりたいが、川崎流にはこの週刊誌発行を止めるほどの財力がないんだ」


「やめて下さい家元。家元が謝る必要など少しもありません」


慌てて止めると、川崎さんが言った。


「山田君、先程家元と話していたんだが、俺達は会見を開いて抗議しようと思う。だがこの件で一番被害を被るのは君だろうから、君の意見を聞きたい」


真面目な顔で俺をみつめて来る。


「このまま何もせずに放っておくことも出来る。ただし君の名に傷がついたままになるだろう。会見を開いて説明すれば、騒ぎは多少大きくなるが、味方を増やすことも出来る。どちらにせよ、君とこの記事に出ている岸さんは、暫く報道陣に囲まれるだろうね。家や勤務先、親御さんにまで記者が押し寄せるだろう。事と次第によっては出勤も出来なくなる恐れがある。どうする」


これは俺だけの問題じゃない。このまま何もせずに放っておけば、一華も遊ばれた人間として嘲笑の種にされるんだろう。親や友人は、悪者の関係者として後ろ指を指される。これ以上の侮辱行為は、断じて許せない。


「俺は、会見を開く方に賛成です」


「そうか」


川崎さんが言うと同時に、家元も大きく頷いた。


「会見は、誰が出るの」


凪先生が質問する。


「俺と家元で考えている」


「私も出ます。こんなこと、私、許せない」


「分かった」


川崎さんと家元が頷いた。


「俺も出ます。この記事の主役は俺でしょう」


俺の意見を聞いて、川崎さんの動きが止まる。


「だが君の立場は曖昧だ。俺達は川崎流として何とでもなるが、君が出ると仕事にも支障が出るだろう。それでも良いのか」


「川崎さんも、楽器店の仕事を退職された訳じゃないので同じでしょう」


「俺はクビになっても後があるが、山田君は困るだろう」


「山田君ならいつでも、川崎流の職業演奏家として迎えるよ」


家元が俺を安心させるような表情で言ってくれる。俺は川崎さんを真っ直ぐ見た。


「俺は、この記事が出ることで困らせることになる多くの人に、俺の口から謝罪と真実を伝える義務があります」


川崎さんはふーっとため息を吐いた。


「雑誌の発売は明後日だ。会見は早い方が良いから、発売日に合わせたい。仕事は休めるか」


「交渉します」


「分かった」


「だけど、人数が4人だと大袈裟じゃない?」


凪先生が記事のコピーを強く握ったまま尋ねた。


「そうだな。それなら私は若い者に任せることにしよう。三人とも、川崎流の名誉のために、頼んだぞ」


「はい」


俺達の真剣な眼を見て、家元は事務室を出て行った。これは、責任重大だ。2人に許可を得てすぐさま課長に連絡した上で状況を説明し、明後日の休暇の許可を貰った。




「山田君、戦略を考える前に一つ聞きたい。この岸さんは、君にとってどんな人だ」


「岸一華さんは、俺の恋人です」


「それは彼女に気持ちがあるということか?嫌なことを聞いてすまないが、会見で君を守るためにも本音を教えてくれ。つまり君は長く凪を」


「それは本当です」


俺はことばを被せた。


「俺は凪先生を忘れられずにいるまま、岸さんと恋人になりました。勿論、彼女には真実を話した上でのことです。でも俺は今は、俺を支え癒し続けてくれた彼女を愛しています」


ここで息をついてから続ける。


「自分のこの想いに気づいたのは、つい最近です。仮に勘違いだと困るので、それで今日は凪先生に会って確かめに来ました。俺は、一華を愛しています」


「そうか」


真摯に語った俺に、川崎さんは安堵したように笑った。


「優成くん、大事な人を見つけたんだね。おめでとう!なんかでも、少しだけ複雑」


眼を輝かせて笑ってくれた凪先生に、俺も微笑んで返した。


「凪は俺だけを見ていなさい。山田君から貝を貰ってはいけないよ」


「はーい」


凪先生は嬉しそうに川崎さんに返事をした。カイって何だ。




一華には電話して1週間分程度の荷物をまとめておくように伝えた。今から車ですぐ行くから、と。当然困惑しているようだったが、了承してくれた。俺は一華のマンションに急いだ。


「優成、どうしたの」


玄関口に出て来た一華を、鍵を閉めるなり強く抱きしめて言った。


「遅くなってごめん」


「まだそれほど遅くないよ」


「そうじゃないんだ。一華、こんなに待たせて、最悪のタイミングでごめん」


「優成、本当にどうしたの」


身体が熱い。俺に回した細い手の温もりが、魔法のように優しく感じる。



「一華、今日はとても悪いニュースを持って来た。一華、愛してる。本当なんだ。気づくのが遅くなってごめん」


声が震える。俺は本当に、いつだって情けない。


「え、それ、全然悪いニュースじゃないよ」


一華の華奢な柔らかい手が、俺の髪に触れる。この優しい手を無くしたくない。


「違うんだ。今日、自分の想いが本当か確かめるために、川崎流に行って凪先生に会って来た。確かに俺は一華を愛してる。嘘じゃない」


会話が支離滅裂だ。俺は身体を離して、一華の手を俺の胸に持って行った。この鼓動を感じて、どうか信じて欲しい。


「俺は、間に合った?」


許しを請うように一華を見つめた。胸に一華の手を当てなくても、心臓の音が伝わってしまいそうなほど大きく脈打っている。これからの話をして、一華を幻滅させるのが怖い。


「うん。嬉しい優成。私本当は、私じゃ優成を振り向かせられないんじゃないかって思ってた。私……大好き」


一華は今にも涙を溢しそうな笑顔を見せるも、俺の様子から、何か只ならぬことが起こったと察したようだ。


「とにかく中に入って」


入るなり一華はコーヒーを淹れてくれた。俺は即座に記事のコピーを見せて、説明した。


「このマンションも、恐らく報道陣で囲まれる。だから今のうちに、俺のマンションに来て欲しい。一華が一人でここで耐えるより、二人でいた方がいい」


「うん、分かった」


「悪いけど明日会社に行ったら、説明した方がいい。一華の会社も囲まれるかもしれない」


「分かった」


「それと、一華のご両親に謝りたいんだ。ご両親の方にも報道陣が行くかもしれない。今のうちに、謝罪しておきたい。本当にごめん」


「優成が謝ることじゃないよ。むしろ、そんなに気を回してくれたことに感謝してる」




一華は俺を全く否定しなかった。即座にご両親に電話をかけて、俺に取り次いでくれた。お母さんは酷く驚いていたが、無理もない。会ったこともない見ず知らずの男に、急に娘の恋人だと言われて、これから一華が遭遇するであろう困難を聞かされたのだから。俺は誠心誠意、説明と謝罪をした。


「一華をよろしくね。落ち着いたら会いに来てね」


「はい、必ず」



それから俺の両親に電話して事情を説明し、謝罪した。やることがたくさんある。一華の荷物を2人でまとめて車に運び、遅くまでやっているスーパーに寄り食材を買い込んでから、ようやく俺のマンションに辿り着いたのは、日が変わる頃だった。


「一華、疲れただろう。嫌なことに巻き込んで本当にごめん」


「疲れてるのは私じゃなくて優成だよ。細かいところまで気を回してくれて、本当にありがとう。優成、心から、大好きだよ」


俺は一華にキスをした。


「明日もきっと大変だと思う。帰りは本当に気をつけて。今日は早く寝よう」


長い長い1日が終わった。


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