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ヘリオス  作者: みおいち
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第2部 第7話

3月20日。


晃輝さん、私、自分のことばかり考えていたけれど、もしかしたら貴方も辛いの。私ね、今はすぐに熱も出るし、どうしようもない人間だけど、野々宮さんに言われたように自分を大切にしてみる。ちゃんと身体に良い食事をして、規則正しい生活をするね。だから晃輝さん、お願いだから晃輝さんも、元気でいて下さい。




5月6日。


晃輝さん、貴方と出逢って一年以上が経ってしまいました。私はいまだに演奏が出来ないし、野々宮さんに言われて期待していた貴方も戻らない。視界はまだ霧がかかったままで、心の痛みは私に完全に巣食ってしまいました。


昨年貴方が来てくれた6月の演奏会は、優成くんにソロで出てもらうことにしたよ。優成くん、この1年でまた、すごく上手になったの。






演奏力が戻らないまま、稽古場で滅茶苦茶に弾いている。以前は力を失ってしまった演奏をするときは、門下生さんのいない時間を狙って弾いていた。今はもう気にしない。こんな酷い私が、本当の私だもの。


「お嬢、そんな風に弾いたら指を痛めます」


家元の直弟子である中島さんが、見かねたのか止めに入る。


「放っておけ、中島」


「家元、ですがあれでは......」


「これは凪の試練だ。何かを掴もうとしているんだ」



私は酷い演奏を、毎日何時間も繰り返した。そんな私を門下生さん達が何度も見に来た。


「......マジかよ」


「お嬢はもうダメだな。川崎流の恥だ」


最初はそんな声が耳に届いた。今は誰も、何も言わない。ただ哀れんだ顔で私の演奏姿を見ている。でもいいの。それでいい。私の演奏力が戻らなかったら、あなた達の誰かが次期家元になって。実力がある者が家を継いだ方が、ずっといい。


特に私の直弟子さん達は、辛かったんだろう。演奏途中で何人もいなくなった。だけど、優成くんだけはずっと側にいてくれた。私が聴くに耐えない演奏をしても、耳を塞がず目を逸らさず、逃げずにただずっと近くにいて、私がようやく演奏を止めると、泣きそうな表情で綺麗に微笑むのが常だった。




あるポカポカと暖かい日だった。私はまた気が触れたような演奏をしていた。ギャラリーのあちこちから啜り泣くような声がする。私の演奏は、そこまで地に堕ちたんだろうか。


演奏を止めると、家元が近づいて来て言った。


「凪、予定通り8月の演奏会に出なさい。えむしい、も、他の曲もやめて、第一部のトリだけ務めなさい」


家元は能力の戻らない私に、恥をかかせるつもりだろうか。そうして公に、次期家元の交代を披露するんだろうか。それでもいい。私は力を失ってしまった。過去の栄光は、今や単なる亡霊だ。


家元がいなくなっても、誰もその場を動かなかった。話を始める人もいなかった。ただ、嗚咽やしゃくり上げる声だけが、私の耳に届いた。





この年の梅雨は蒸し暑かった。ジメジメと陰鬱になる雨が降っている中、6月の演奏会も満員御礼だった。YouTubeをやっていないのに、若いお客様も定着した。


私の直弟子さんで出られるのは6人。どうしてだろう、皆上手だったけど、この一年で急に飛躍した。講師がこんな心許ない状態だから、不安な気持ちが反作用したのだろうか。


第一部のトリは優成くん。堂々と、優成くんにしか出来ない演奏をしている。優しさと、慈愛と、哀しみの深い演奏。もう、優成くんの外見だけで聴きに来る人はいない。これは本物の、高みに立つ者だけが出来る、高尚な演奏だ。


私は舞台袖で演奏を聴きながら思う。優成くん、もし貴方が次期家元になるのなら、私は喜んで譲ろう。優成くんになら川崎流を任せられる。きっと貴方なら、私よりずっと上手く、川崎流を盛り上げてくれる。今の私は、貴方が今いるその舞台に立つことさえ怖い。私の中身は何もかも、変わってしまった。





晃輝さん、こんな私の姿を見たら、幻滅するの。





曲が終わって割れんばかりの拍手の中、緞帳が降り、優成くんが引き上げて来た。


「お疲れ様でした。感動したよ、優成くん。何て伝えたらいいか...本当に素晴らしかった」


優成くんは関係者がたくさん周りにいる中、無言で私を抱きしめて離さなかった。





その日の我が家での打ち上げ中、優成くんに廊下に呼ばれた。


「俺、また挑戦していいですか」


「うん?」


「俺は長年、箏の能力が貴女に認められるようになるまで、この想いを伝えることはやめようと思っていました。結局は東雲さんが来て、状況が変わってしまいましたけど」


そこでかすかに笑ってから続けた。


「俺、少しは上手になったでしょう?だからもう一度言います。俺をあなたの恋人にしてください」


「優成くん……」


この人の手を取れたら、どんなに良いだろう。きっと川崎流を広めるために、何の障害もなく熱心に邁進することが出来る。もしこの人と結婚出来たら、私の能力が戻らなくても、川崎流は安泰だ。お箏のことだけじゃない。優しく楽しい毎日を、笑って過ごすことが出来る。


「まだ駄目ですか。俺は東雲さんの亡霊に、まだ勝てませんか」








8月21日。


晃輝さん、いよいよこの日が来ました。昨年貴方が来てくれた会場と同じ場所で、ようやく私は復活します。




昨年は、晃輝さんのためだけに「陽光」を演奏して、幸せの絶頂だった。今、3列目の中央の席に、貴方はいない。


「緊張する」


私のソロで第1部が終わる。いつもそうだった。だけど、こんなに緊張したことはない。


「大丈夫です。俺はずっとここにいますから。凪先生は凪先生の演奏をしてください」


優成くんに言われて舞台へ出る。本当は、自分の能力が戻ったのか、まだ分からない。この舞台が滅茶苦茶になるのかもしれない。お客様には申し訳ないけれど、もう逃げることは出来ない。私は私の出来る演奏を精一杯して、運命を待つことしか出来ない。



演奏の位置について、暫く動かなかった。曲目は「恋情」


手運びの多い現代曲の中でも最難関と言われるこの曲だけど、技術的には問題ない。毎日の基礎練習が功を奏したんだ。だけど、技術だけではお箏で生きていけない。


この曲は門下生の誰にも弾いて聴かせたことはない。優成くんにでさえも。ただ家元に確認してもらって了承を得た。だから、演奏の評価がどうなのか、全く分からない。


それでも、こんなに大変な恋情を、多くの人に聴かせたくて。世界中でたくさんの人が恋をして、そんなのありふれたお話なのに、一人一人が酷く傷ついて、醜くなって、ほんの小さなことに喜んで。あなただけじゃないって、独りじゃないって、そう伝えたい。


自然と指が動く。透明な世界。いろんなことが浮いては消えて、まるで自分がどこか遠くにいるように演奏している。


般若のように醜い嫉妬心が、引き止められなかった自分の小ささを呪う痛みが、抱きしめられたときの高揚感が、心が粉々になったことへの狂気じみた苦しみが、痛みに壊れてしまいたくなっていたときでも側にいてくれたことへの喜びが、浮かび上がっては消える。何も分からない。ただ全感覚がお箏に自然と集中し、自分の頬に涙が次から次へと伝わっていることだけを感じている。





最後の一音を弾き終えて、手を膝に戻す。音がしない。終わったんだ。と思うと同時に、大きな拍手を頂いた。ああ、お客様は優しいな。私の演奏に拍手をしてくれるなんて。お辞儀をしたまま、緞帳が降りていった。

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