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ヘリオス  作者: みおいち
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第2部 第4話

2月8日。


心がめちゃくちゃに壊されたみたい。辛うじて残った心臓のかけらで生きている。昼も夜も曖昧だ。家元に言われて仕事を休んだ。食事もろくに取らずに、部屋にこもって呆然としている。


お箏の基礎練習だけは執念で続けた。だってこれを無くしたら、私にはもう何も残らない。ベッドにいるラッコが、素知らぬ顔で笑っている。貴方は何か知っていたの。


どうして。どうして何も相談してくれなかったの。話し合えば何か、解決策が見つかるかもしれないと思わなかったの。それとも演奏能力が無くなった私が、本当は嫌だったの。私の演奏に救われたって、何。私、そんなこと全然聞いていない。




私が今まで見ていた世界が、覆る。この家のために、お箏のために、それだけを真摯に、心の底から思っていたはずなのに、私のこの想いを優先させた晃輝さんが許せなくなる。私は跡取りだから、外国には連れて行けない。何も相談せずに、私の信念通りの道を進んだ晃輝さん。私のことを想ってそうしたはずなのに怒るなんて、私は酷く身勝手だ。



引き止められなかった、相談さえ出来る相手になれなかった、魅力のない私が惨めで、情けなくて、今までの信念が崩れ去る。ただひとりの男性のためだけに生きていたいと思ってしまう心が大きくなって、踏みにじられて汚くなった東京の雪のように、心が痛い。




失恋だけでボロボロになるなんて。前はそう思っていた。本当の恋を知らなかった頃は。


家元には言われ続けている。


「休みなさい。余計悪くなってしまうぞ」


だけど、私にはもう何もない。演奏力が戻らない私は、そのうち次期家元から降ろされる。痛みを感じないように支え続けてくれた人は、もういない。早く仕事に戻らないと。





2月中旬。


晃輝さん、いつになったらこの痛みは取れるの。もう壊れてしまいたい。


寒い日だった。しんと静まりかえった稽古場で基礎練習を続けていた。自然と指が滑り出す。めちゃくちゃで、耳障りで、気でも触れたような私の演奏。


「凪先生?」


入口にふと人が立ったのが分かる。ああ、優成くん、今日も自主練に来ていたんだ、偉いね。


弾き続けたまま声に出さずに思う。私ね、こんなに下手なんだよ。もう貴方に敵わない。私にはもう、何も残っていないの。泣きながら弾き続ける。きっと狂気じみた恐ろしい光景に見えている。これが本当の私。醜いでしょう。お箏の正統な血を継いだ訳じゃない貴方に、もう何も、敵わない。


ふと影が動いたかと思うと、急に後ろから抱きしめられた。


「凪先生。一体......どうしたんですか」


まるで自分自身が重傷を負ったような苦しそうな声で、優成くんが言う。


この優しい人を困らせたら駄目だ。一度は結婚の申し出をお断りしたこの人に、甘えたら駄目だ。だけど涙が止まらない。


「言うだけでも少しは楽になれるはずです。俺に教えてください」


氾濫しながらも何とか支えていたはずの堤防が、崩れ去る音が聞こえた気がした。大粒の涙が溢れて、大切な楽器に落ちる。


「こっちへ」


優成くんは私を向き直らせて、正面からまた私を抱きしめた。


「話してください、俺に」


もう止まらなかった。


「晃輝さんに婚約を、破棄されたの」


泣きながら酷い声で優成くんに告げる。


「そんな、まさかあの人が」


「海外で働くから、連れて行けないって」


優成くんはしゃくり上げる私の髪を撫でながら、釈然としない声色で言った。


「それは東雲さん本人が言ったんですか」


「違うの。家元が。だけど連絡がもう通じないの」


優成くんはそれ以上は何も言わずに、ずっと私が泣き止むまで背中をさすっていてくれた。




「凪先生、無理にでも今は休んだ方がいいです。このままだと壊れてしまいますよ」


ようやく落ち着いて来た私の背をまだ柔らかにさすったまま、優成くんが言った。


本当は、そうなってしまいたい。気が触れて何もかも、分からなくなってしまいたい。


「でも、部屋にいると思い出して辛いの」


「今はそれでも、思い出してめちゃくちゃになっても、仕事や他の何かで気を逸らさずに、全てを吐き出した方がいいです。心のうちに痛みを溜めていたら、そのうち膿んで酷くなってしまいますよ。心が痛むならちゃんと痛めて、その分身体を休めないと」


「そうかな。そうかもしれない」


優成くんに言われるとそんな気がして来る。


「そうです。凪先生がいないと寂しいですが、俺たちは大丈夫なので、ゆっくり休んでください」


「分かった」


そういうとようやく身体を話して、優成くんは綺麗に微笑む。


「また聞いて欲しいときがあったら、いつでも言ってください」


「優成くん、ありがとう」


ひとりきりになったと思っていた私の心が、ほんの少し楽になった気がする。


「いつも助けてもらっているのは、俺の方ですから。......あ、凪先生、ちょっと待っていて下さい」


そう言うと優成くんはどこかへ行って、すぐに可愛いパッケージの箱を持って来て手渡した。


「これ、チョコレート?」


「たくさん貰ったから、あげます」


そうだ、今日はバレンタインデーだった。


「ちょっと待って!これ私が食べちゃいけないものでしょう?ダメだよ優成くん」


そういうと決まりの悪そうな顔をして笑った。


「俺は食べきれないから、捨てるかあげるしかないんです。それに、今甘いものが必要なのは、俺より凪先生でしょう?」


そう言って優成くんは帰って行った。


貰ったチョコレートはヒヨコ形をしているミルクチョコレートで、甘く優しい味がした。

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