第2部 第2話
トンテン、トテトテ......。
指がなまらないための練習曲だけは、弾くことを欠かさないようにしている。この際基本に立ち返り、基礎をしっかり身につけて骨太にしておきたい。家元は完全に箏から離れるように言ったけど、長年毎日弾いていたのにそんなことは出来ない。
晃輝さんはいろいろな所へ連れて行ってくれた。映画、花道展、歌舞伎やミュージカルを見て、M響も聴きに行った。
「凪は俺の演奏を聴いても大丈夫か?」
「どうして?YouTubeなら毎日聴いてるよ」
「毎日?」
そう言って晃輝さんは笑った。
「俺の箏を聴いてから、凪は辛くなったんだろう?」
晃輝さんは相変わらず鋭い。嘘をつける相手じゃない。
「確かに晃輝さんの演奏にはすごく感動したし嫉妬もしたけど、お箏が弾けなくなった原因は分からないの。それに、バイオリンの演奏はお箏と違うから、嫉妬心が湧いて来ないし」
それなら、と演奏会にも誘ってくれた。晃輝さんの演奏会には、私が三列目の中央の席に座った。さすが著名なゆうちゅうばあ、満員御礼だ。
「あのう、川崎凪さんですよね。YouTube見てました。体調不良って聞きましたが、大丈夫なんですか」
げっ!こんなところでもYouTube効果!
「ありがとうございます。体調は、今日はおかげさまで調子が良くて、おーほほほほほ」
無理やり笑って何とか誤魔化した。YouTubeでは優成くんしか見られていないと思っていた。まさか私の素性がバレるとは。
晃輝さんに話したら、「凪もMIBグラサンを買え」と言われた。私もマフィアみたいになれるかな。
想いが通じてから、晃輝さんは全身に愛情を与えるように、私を甘く抱くようになった。このキラキラした金平糖みたいな幸せの波に、意識を手放してしまいそうになる。お箏が弾けなくても、幸せを感じることはある。
気分が良いからお箏を弾いてみると、駄目だった。諦めてはやってみて、また落ち込む。その繰り返しだ。
「私、確かに幸せなのに、お箏が弾けないのはどうしてかな」
光輝さんの腕の中で呟いた。
「人間の気持ちは複雑だから、そう簡単に明確な結果が出るものじゃない。弾けないのは精神的な理由以外にもあるかもしれないし、焦らないことだ」
髪を優しく撫でながら、晃輝さんが答える。
「8月の演奏会まではまだまだ時間がある。それで戻らなかったら、延長すれば良いだけの話だ」
10月28日は、晃輝さんの誕生日。盛大にお祝いしたいけど、何をあげたらいいだろう。マンションに遊びに行ったとき、聞いてみた。
「俺は凪が欲しい」
想像していた王道の答えをする。
「私はとっくに晃輝さんのものだよ」
そう答えるとまたニヤリとMIBみたいに笑い、「それは知らなかった」と言うなり、ペロリと食べられてしまった。
誕生日プレゼントは、男性向けのバングルを買った。ゴールドだとますますマフィアに見えるから、品の良いシンプルなプラチナを奮発して。普段からお金を貯めておいて良かった。
五線譜を買って、しばらくピアノの前に座り込む日が続いた。お箏の演奏は出来なくても、やることがあるのは精神的に有難い。
当日は料理を作ってお祝いした後、バングルを腕にはめてあげた。このくらい上品ならマフィアに見えない。
「大切にする。毎日つけるよ」
「実はもう一つあるの」
そう言って五線譜を渡す。
「晃輝さんに曲を作ったの」
驚いた顔をして、晃輝さんはそれを眺める。
「これを凪が?すごいな......美しくて、ダイナミックだ......ピアノがあるから弾いてみてくれるか」
そうやって別室に連れて行ってくれた。あのラフマニノフを撮影した、私にとっても特別な部屋。
ピアノはあまり上手じゃないけど、情感を込めて弾こう。大好きな晃輝さんの、特別なこの日のために。
演奏が終わると、晃輝さんは後ろから私を抱きしめて囁いた。
「凪、凪。こんなに幸せなことは無いよ、本当に。ありがとう」
「あのね、晃輝さん。これには歌詞もあるの」
「歌詞?書いてないぞ」
「それはね、今日、生で聴かせたくて」
そう言うととろけるような笑顔になって、ピアノを弾くようにすすめた。
伴奏の旋律は甘く美しく、我ながらよく出来たと思う。姿勢を正して歌い始める。気持ちを込めて、貴方のために。
晃輝さんはぁ〜♪MIBだ〜♪うおうお〜♪
「ち、ちょっと待て!MIBはまだ分かるが、なんで魚魚なんだ!」
「嫌だなあ、魚魚じゃなくて、wowowです!」
「……そうか......とにかく......続けてくれ」
イタリアの〜マフィアだ〜♪いえ〜♪
晃輝さんは身体を震わせている。
「......マフィアはどこから出てきた......」
「ちょっと、人が一生懸命に歌っているんだから、真面目に聴いてください」
「それは......大変失礼致しました......仰せのままに。凪先生」
「分かればよろしくってよ」
晃輝さんはぁ〜♪背が高いから〜♪
顔が見えないのぉ〜♪うおうお♪
でもでも〜♪うおうお♪素敵なのよ〜♪
える〜お〜♪うお♪ぶい〜いい〜♪うおうお♪
晃輝さん〜♪うおうおうおうお〜♪
晃輝さんは〜♪うおうお〜♪......
愛情を込めて歌い終わってみると、晃輝さんは笑い転げて瀕死の状態になっていた。
この人は全く、よく笑う人だ。
次の日、晃輝さんからLINEが来た。
「魚の大群に襲われる夢を見たよ」




