55 最期
深山奏多の葬儀は東京の実家で、近親者のみで執り行われた。悪虚によって侵食されていたことを秘匿するため、親族には遺体が見せられず遺灰の状態で帰された。
加えて委員会の中でも、人に寄生した悪虚は存在を伏せられた。組織内で疑心暗鬼になる混乱を招く恐れがあったからだ。
ただ和涅だけは唯一悪虚の気配を見抜けるので、支部の全国行脚に駆り出された。そしてその結果、この組織で悪虚に乗っ取られた人間は奏多を除いては一人もいなかった。
和歌山支部では大悪虚の上昇に備えて他支部から人員を増やした。支部を歩いているだけでも見知らぬ人とすれ違うことも多い。さらに巡視頻度も強化され、特に竜骨岩付近は最重要特異点に指定され、戦闘員が交代で常駐することになる。
今日の当番は特機班だった。
「観光客がいないな」
満潮干潮で岩に近付ける時間も限られているので、近くの駐車場が待機拠点だ。しかし回りを見渡しても委員会職員ばかり。朔がかじかむ手で紙カップのホットストレートティーを握り締めている。
「しばらく道路工事の名目で交通規制を敷いてるんだって」
竜骨岩は海岸沿いの道路ならどこからでも見ることができる。逆にそこを封鎖してしまえばなかなか立ち入ることはできない。この組織が行政と強い結び付きがあることを実感した。
ふと、今駐車場に入ってきた黒いセダンから背の高い男が降りてきた。黒基だった。その手には献花用の花が抱えられている。春彦に気付いたが、そのまま行ってしまう。
なんとなく追いかけたくて朔を顧みる。
「朔、ここ任せていいか」
「おっけー」
朔は寒さに震えながら親指を立てた。
今は干潮の時間だ、この時しか竜骨岩に近付けない。狙ってこの時間に来たに違いない。そして春彦の予想通り、黒基は真ん中の竜骨岩の傍に花を供える。
黒基は振り返った。春彦に驚いた様子もない。春彦はゆっくりと黒基に近付いた。
「室長、ここは……」
以前八城に聞いた、ここで大悪虚の前兆と呼ばれる戦いがあり、多くの戦闘員が死んだと。
「ここで正嗣は死んだ。ちょうど桜が咲き始めた頃だった」
黒基はかつての組織上層部を思い、複雑そうな表情を見せた。
「当時の儀長は人体実験を厭わない人間で、内部からも批判の声が多くあがっていた。それでも戦闘員への悪虚移植を強行した」
「それに選ばれたのが和涅さんだったのか」
「和涅には組織に多額の借金があった。言うことを聞かせる材料としては十分だった。だが今までどんな命令に従順だった和涅が、その時初めて抵抗した」
「大人は誰も救ってやらなかったのか?誰だってそれが間違っているって分かっていたんだろ。自分が嫌だから、弱い立場の人間に押し付けたんだろ。恥ずかしくないのかよ!」
「私も救ってやれなかった大人の一人だ。嫌がる気持ちは誰もが痛いほど理解して、そしてどうすることもできないと諦めていた。それは病気に近いものなんだ。組織という病魔に徐々に侵され、抵抗する力をなくさせる。そういう病気なんだ」
それはかつて菜緒子が言っていたことと同じだった。でもそれを自由の無い子供に押し付けていい理由にはならない。なっていいはずがない。
「ある日、和涅が失踪した。それまでも自己犠牲的な戦いはしていたのに、失踪までするとは思わなかった。多分死ぬつもりだったんだろう。ただ先に和涅を見つけた正嗣が、秘密裏に私に居場所を報告していたから探すことはしなかった。戻ってきた日、とうとう覚悟を決めたのかと思った。でも今思えばきっと正嗣を死なせない為に帰ってきたんだ。そして自分一人で死ねる機会を伺っていた」
「一人で……」
「その機会は和歌山にあった。今までにない強敵、移植手術間近、きっとそこで死ぬ気だった。ただ予想外のことが起こったーーー妊娠の発覚だ」
十六年前の大悪虚との戦闘中、和涅の脇腹の皮膚が裂けるような怪我を負う。かなりの血が溢れ、急激に血圧が低下し命の危機にすら陥った。モニターで監視していた黒基は和涅に指示を出した。
『撤退しろ和涅!その怪我ではもう戦えない!いくら霊気治療があっても、すぐに対処しなければ取り返しのつかないことになる!』
和涅はその場から動かなかった。命令を拒んだのだと思い、もう一度呼びかけた。
『和涅!』
すると和涅は掠れるような声で応答する。
『黒基さん、私の怪我を……』
『どうした!?聞こえない!』
『私の怪我を誰かが止血したんです』
『何だと!』
和涅もまるで何事もなかったかのように戦闘に戻った。
「最初は妄想の類いかと思った。不安や緊張からあるはずのないことを現実のように思い込むことはよくある。しかし実際に血圧は戻って、出血も止まっていた。それがどういうことか分かるのはもう少し先だった」
和涅は戦闘には戻ったものの、その後格段に動きが悪くなっていた。足がもつれて尻餅をついた和涅の隙を突いて、大悪虚は触手を伸ばした。本当なら和涅が致命傷を負っていた。しかし正嗣が庇ったお陰で右腕の負傷で済んだ。血にまみれた右腕は刀を落としたが、しっかりと腹部を庇っている。
触手に心臓を貫かれた正嗣の口から血が溢れ出た。
『正、嗣……』
声を震わせる和涅。しかし正嗣は笑っていた。触手を抜かれ、正嗣は和涅にもたれかかるように倒れる。和涅は左腕で支えた。
『右腕は、大丈夫か』
正嗣は声を絞り出す。
『ごめんなさい、ごめんなさい……』
和涅からは謝罪の言葉しか出てこなかった。何が起こったのか分からなくてパニックになっていた。
正嗣は安心させようとして和涅に手を当てる。
『どうして謝る。君が初めて、何かを守ろうとした。こんなに嬉しいことはないよ』
最後の力を振り絞り、精一杯和涅を抱き締めた。
『生きろ、和涅……頼んだ……』
『正嗣……!いやぁあああ!!』
事切れた正嗣を抱き締めながら、和涅は絶叫した。
それから支部へ搬送され、処置を終えた和涅は茫然自失状態だった。それでも半ば無意識に立ち上がって、治療員の反対を押しきって黒基の元へ訪れた。一人現れた和涅に、黒基は我を忘れ怒り狂い、彼女の頬を叩いた。床に倒れ込む和涅は傷が痛むのか呻いて身体を縮ませる。
『今まで目をかけてきてやったのに、どうして勝手なことをした!移植手術が嫌だったとしても、少なくとも今日の出動要請は断れたんだ!お前が戦わなければ正嗣が死ぬこともなかった!!』
ぶつけるような叫びに、和涅は左腕だけでゆっくりと起き上がった。三角巾で首から吊るした右腕は動かなくなっていた。
『……何があったって、全力で戦うはずでした。でもいざ刀を握り直した時、頭では戦わなきゃって思ってるのに、無意識に敵を避けようとするんです。自分が他の誰かを守ろうとするなんて、知らなかったんです』
和涅の頬にとめどなく溢れる涙。彼女が初めて見せた涙を見ていられずに、黒基は顔を背ける。
『お前は私から大事な部下を奪った。だが上層部はまだ腹の子供に気付いていない。子供だけ逃がしてやる。その代わり私に絶対服従を誓うんだ』
移植手術は右腕の負傷のリハビリと療養を理由に延期された。半年後、和涅は秘密裏に男子を出産した。その為に当時一課長だった栄と長期出張の偽装工作に及ぶ。栄は人体実験に反対していた一人で、何も言わずに和涅を助けた。
出産は茨城県の医院で無痛分娩にて行われた。そして和涅は生まれた子供を一目も見ることなく、子供は二課課長杉澤の知人家庭に引き取られることになる。
黒基から自身の出生の秘密を伝えられた春彦は、ようやく和涅と正嗣が親だったのだという実感を得た。そして自分が決して望まれなかった子供ではないと知って、心に突っかかっていたものが取れた気がした。
今日の冷たい気候に目の前に供えられた花が寒そうに見え、春彦はしゃがんで手を合わせた。
「神崎家はお前にはあまり良い家庭じゃなかっただろう」
「……辛いことはあったよ。でもきっとあの家じゃなくてもそうだったと思う。それならきっと俺はあの家で、母さんに育てられてよかった。でも、そう思えたのはこの組織に入ってからなんだ。だから今は何も恨んでないよ」
春彦は生まれてきたことも、無理やりでもこの組織に入ったことも全て、何もかもを受け入れていた。
立ち上がった春彦が振り返ると、黒基は複雑そうに微笑していた。
「まさか、あの赤ん坊からそんな言葉を聞く日がくるとは思わなかった。時の流れは速いものだ……」
「話を聞けてよかった。それに今腑に落ちたことがあるんだ。俺の霊力探知って、他の人と感覚が違うみたいなんだ」
和涅は悪虚の気配を感じるだけという。そこに何がいる、という感覚だけで、対して春先は悪寒や戦慄、恐怖を感じる。この徹底的な嫌悪感は決して近付こうとは思わせない。
「これは和涅さんがその時感じた『感覚の遺伝』かもしれない。お陰で悪虚を察知しても何か分からずとりあえず危機感を感じて近寄らずに無事に暮らしてこれた」
でもきっと和涅は今もこの感覚をもって戦ってるに違いない。身体に、精神に刻まれたこの感覚。それなのに右腕には悪虚を植え付けている。
明日から十二月に差し掛かる。今まで悩んでいた答えがようやく出た。
「室長、俺をもう少しここへ置いて欲しい」
「大悪虚との戦いに出るつもりか」
「きっと俺が生き残った理由はその為だと思うから」
竜骨岩での見張りを終えた春彦は支部に戻る。すると昼休憩で人の少ないオフィスで、珍しく和涅が春彦に声をかけてきた。
「ここに残るのね」
春彦は頷いた。
「悪虚は沢山の人の人生を歪めてきた。俺はその終止符を打つ」
和涅は何を言うでもなく黙った。もしや声をかけてきたのは反対する為だったのかと思い、おそるおそる聞いた。
「反対なのか?」
和涅は首を横に振った。
「あなたの好きにすればいい。ただ、生きていてくれたらそれでいい」
通りすぎていく和涅に、春彦は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
きっと大悪虚が出現するまで長くはない。そして必ず生きて、やり遂げてみせる。そのためにずっと戦ってきたのだ。
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