53 雪解け
古い壁に囲まれた非常階段に春彦の足音が響く。嫌な予感がした。階を上がり、病室へ近づくごとに悪虚の気配が濃くなる。何故支部の中で悪虚の気配がするのか。いつもこの気配は春彦に恐怖と不安を覚えさせる。
指示された病室に端末を当てロックを解除する。自動ドアが開くと、鳴り止まない心拍数モニターのアラームが耳に突き刺さった。何かを見つめて立つ黒基と、ベッドに横たわる和涅。奥にある彼女の右手にはあの結界が張られている。
近付くと、酸素マスクをした和涅の手が徐々に開かれた。一見するとただ虹色の光沢のある欠片、しかしその気配は悪虚そのもの。
突然延珠の声がした。
ーーーあの女、欠片に霊力を注ぎ続けている。このままだと霊力が尽き果てるぞ。
ハッとして和涅の顔を見た。
(俺の霊力を和涅さんに渡せば)
確か朔も同じことをしてくれたことがあった。
「おい」
その春彦の行動を先読みしたように、黒基が待ったをかける。
「恐らく結界が限界だ。和涅へ霊力を渡すのはその後だ」
その言葉に黒基からの悪意を感じないことに驚きながらも、今は欠片に集中することにした。
「この欠片に何かあるんだな」
「もうすぐ分かる。できるな?」
「はい」
その時はすぐに訪れた。空気が揺れるような気配がして、春彦は回り込んで右手の結界に指先を触れた。瞬間結界が粉々になり光が弾けた。そして欠片の裏側に何か小さな蠢くものが見えて心臓が止まりそうになった。触手だった。欠片から徐々に生き物が形成され、やがて悪虚が生まれてくる。
「悪虚……!?」
「まだだ」
黒基は殲滅の許可を出さない。
悪虚は和涅腕と首に纏わりついて、残りの霊力も吸い付くそうとする。
「今だ!」
黒基の合図で、春彦は刀を抜き悪虚の頭部に突き刺した。刀は炎を纏い触手を全て焼き尽くす。やがて悪虚は霧散し、残った欠片も弾け散って消えてしまった。
春彦は自分の手が緊張で震えているのに気付き、ぎゅっと拳を握る。
(今のは何だったんだ)
次の瞬間、和涅の心拍数が止まった。先程までけたたましいアラームを発していた心拍数メーターは一転、静かに一定の音を発していた。
「和涅さん!!」
すぐさま和涅の胸に手を当て心臓マッサージをしながら霊力を流し込む。春彦はそれを今まで実際にやったことはなかったが、霊力固定の応用から、霊力の感じ、流れを操れようになっていた。霊力から心臓と血流を感じ気がした。いける。この人はまだ、生きている。
「和涅さん!!」
春彦は叫んだ。
突然自分の中からかなりの霊力を持っていかれる気配がした。心拍数メーターが正常に戻る。心拍が戻ったのだ。
「はぁ、はぁ……」
尋常じゃない疲れを感じた。息が上がって肩で呼吸をする。延珠だけならまだしも、もう一人に霊力を与えるのは身体への負担が大きいのだと知った。
和涅の長い睫毛が揺れ、目蓋がゆっくりと押し上げられた。その瞳は黒基を見て、次いで春彦に視線を移した。何を言うでもなく、静かに身体を起こそうとしているのに気付き、春彦が肩を貸した。
黒基が和涅に声をかける。
「目的は果たせたか」
「……はい」
和涅は頭痛がするのか額を押さえた。
状況を理解できていない春彦に、代わりに黒基が説明した。
「あの欠片はアンモライトだ。そして和涅が霊力を注いだ結果、あの欠片から悪虚が生まれた。つまりこの欠片は悪虚の核となる」
「悪虚の核に?そんな存在今までありませんでしたよね」
「そうだ。だからこそ命を懸けて証明しなければならなかった。そしてもし命尽き果て結界が壊れた時、代わりに結界を張れる霊力量の持ち主が来なければならなかった。だからお前を呼んだ。結果的にそうはならなかったが、お前が霊力治療をしなければ和涅は死んでいた」
先程の行為で霊力治療をしていたらしい。ひとまず峠は越えたようで春彦は安堵した。
「今の録画データ、至急研究班に提出しろ。あと和涅が倒れた当日、周辺の防犯カメラと、支部が設置している霊力測定器のデータも全て洗わせろ」
春彦含む全ての戦闘員が目線カメラを付けている。それに今の出来事全てが映っているはずだ。それは分かるが、もう一つは何だ。
「防犯カメラ?」
「最近あった悪虚の突発的出没は、誰かが意図的に仕組んだ可能性がある」
春彦は息を飲む。
「それってつまり、『人間』に裏切り者がいるってことですか」
不意に和涅が布団から滑り出て立ち上がった。
「和涅さん!まだ万全じゃーーー」
そう言った春彦自身が目眩を感じた。ふらついた春彦を和涅が受け止める。和涅は春彦を抱き締め囁いた。
「ありがとう」
その香りには覚えがあった。幼い頃、迷子になって助けられた時、一度だけ和涅に抱き上げられた。あの時の記憶が脳裏を駆け巡った。
和涅は春彦を黒基に預け、入院服に刀を携えるベルトを回し、委員会の黒いコートを着こむ。
「行ってきます」
和涅は微笑んで、病室を後にした。
乱闘状態の廊下に、突如現れた和涅を見て九係は悲鳴を上げた。対して支部の人間は、和涅の目が覚めたことに歓喜した。
久世がひきつった笑みを浮かべる。音無は気絶中。他の九係は妙なプライドを出して暁にボロボロの状態。しかも久世以外全員防具を外して無防備な格好。明らかに不利。
「マズイマズイ」
すると騒ぎで意識を覚醒させた音無が突然起き上がった。
「え、冬馬和涅!?」
「起きた!音無!戦えるか!?」
「いや撤退しよう!和涅さんが出てきたのはヤバい!」
音無の決定に九係戦闘員は驚愕する。
「撤退ですか!?」
「嫌ならそこでやられてろ!」
突然その戦闘員は後ろから和涅の膝蹴りをくらって床に倒れた。さらに他の戦闘員を捕まえて久世に投げつける。久世は潰れたカエルのように床に突っ伏した。
逃げようとする音無も捕まって刀の切っ先を喉元に突きつけられた。
「全員引かせなさい」
「勿論です」
音無は両手を上げ即刻降参した。不意に音無の無線が繋がる。
「あ、和涅さん」
「何」
「ちょうど和解もできそうですよ」
同時刻、監禁されていた栄儀長が椿と八城に救出された。助け出した二人は満身創痍になりながらも、なんとか神奈川支部最上階までたどり着いた。
栄儀長は儀長権限を取り戻し、九係に即時撤退命令を出す。そして全職員に向けて緊急通達を発信し、クーデターを企てた足尾副儀長と神奈川支部長以下関係者全てを拘束するよう伝えた。史上類を見ないクーデターに各支部が混乱を見せたものの、本部の速やかな対応と、関東圏からの応援で事態は次の昼までに収拾した。
そして和歌山支部も建造物には大きな損害を被ったが、死者は一人も出なかった。一番重症の怪我人も二週間以内には復帰できる見込みだ。結局九係も本気を出さず、実力試しが目的だったことが幸いした。ちなみに九係所有のヘリと和歌山支部修繕費は本部が特別予算で賄った。
特別機動調査室の室長室に、和涅はノックをして足を踏み入れた。その部屋の主はもう和涅ではない。
「戻ってきてくれたんですね」
相変わらず表情の薄い和涅。黒基は目をそらした。
「お前と息子を不幸にした私によく言えたものだな」
子供を取り上げ親から離させた。それはかつての和涅や正嗣と同じ人生を歩ませることになった。実の親から離され、組織に翻弄された人生。
しかし和涅は真っ直ぐに黒基を見据えた。
「黒基さん、あの子は正嗣ではありません。そしてあの子は、確かに自身の人生を歩んでいる。そうさせてくれたのはあなたです。私はあなたを憎んだことなんてない。だからあなたに忠誠を誓ったんです」
黒基の目から熱い何かがこぼれる。
「これまで守って下さって、ありがとうございました」
ようやく、自分の中で雁字搦めになっていた鎖がほどけた気がした。
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