52 憎しみ
慌ただしい一階フロアに比べて、五階の療養フロアでは静けさに包まれていた。非戦闘員の治療員が簡易武装し見回りをしてると、行方不明とされていた黒基が平然と前を歩いてきたことに驚きを隠せなかった。廊下の端に寄って、通り過ぎた後も振り向いて彼の行き先を見つめていた。
黒基が立ち止まったのは部屋番号を外された病室。端末をタッチすると自動でドアが開く。薄暗い月明かりに照らされた個室の真ん中で、和涅は一人ベッドに横たわっていた。
部屋の窓は特殊なガラスで完全遮音。心拍数モニターは平常だが、顔には酸素マスクが着けられている。ずっと手元の結界に霊力を注いで、生命活動もままならない状態だ。
ゆっくりと近付いて、彼女の頬に手の甲を当てる。ひどく冷たかった。まるで死んでいるようだとさえ思った。
静寂に満ちた部屋。ここには黒基と和涅だけ。こんなに近くにいるのに、二人の間にはずっと、暗くて深い溝があった。
「もうすぐここに九係が来る。みんなお前を守る為に戦ってる。このままでは全員死ぬぞ」
和涅の右手には結界が張られている。何かを握り締める手は決して緩まない。この結界を張り続ける限り、彼女は目覚めないだろう。
入院着の袖をまくると、二の腕まで肌が青黒くに変色して脈打っている。変色が前より広がっている。和涅の腕は日に日に人のものではなくなっていく。
「その右腕、さぞ私を恨んでいるだろう。お前を人でなくしたのは私だ。そして息子を引き離したことも……」
今でも目蓋の裏に焼き付いている、正嗣が死んだ時の和涅の涙。あの時からずっと黒基を支配するのは怒りと憎しみだけ。
「私も子供を作ったお前が憎かった。私から遠ざかったばかりか、正嗣さえも奪った。私を私でなくさせたのはお前だ……!!」
かつて黒基は部下の正嗣を信頼していた。まだ新人であった自分を兄のように慕ってくれ、時には友のように語らった。心の安らぎの場所だった。
そして一番年少だった和涅のことは、上司として気にかけてやらなければと思っていた。身内も無く、世俗から切り離された彼女に寄り添ってやりたかった。
しかし彼女に子供がいると知った時、自分の抱いていた感情が慈愛ではなく醜い感情であることに気付いた。同時に心の拠り所であった正嗣が死んだ。何もかもを失った。
聖人でありたかった。二人の一番でありたかった。和涅さえいなければ、自分がこんなにも醜い化け物だと知らなかったのに。
「お前の変わらない姿は呪いのようだ。私に罪を忘れるなと語りかけてくる。分かっていたさ、私がいなくともお前は生きていけると。私がいなければ何もできないと思い込んでいただけだ。そう思いたかったんだ」
変わらない和涅の容姿、でも周囲の人間は変わった。皆和涅を愛した。彼女は孤独ではなくなり、もう自分だけの存在ではなくなった。
黒基がその場から離れようと裾を翻した時、上着の袖を掴まれハッと振り返る。和涅の左手だった。意識はないはずだ。それなのに何故。
そういえば昔もこんなことがあった。あの時は生まれたての赤ん坊の手だった。まだ目も開かない子が黒基を引き留めた。
和涅に生まれた子は一目も見させなかった。子供は巨大な霊力を持って生まれてきた。親の素質を考えれば当然のことだが、生まれながらに酷な運命を背負わされた子供には同情せざるを得なかった。せめてもう二度と出会わないようにと願い、自らの手で里親に引き渡した。
しかし宿命からはそう簡単に逃れられなかった。また委員会に舞い戻ってきてしまった。
「あの子はお前に本当によく似ている。だが、どこか正嗣を彷彿とさせる瞬間がある。ここで死なせるには惜しい」
黒基は和涅の冷たい手を握り、膝を折って祈った。
「頼む、その右手を離してくれ。これ以上過ちを犯す訳にはいかない。正嗣を殺さないでくれ……頼む……」
消え入るような声は、静寂の中に消えていった。
和涅は夢を見ていた。夢の中は真っ白な空間に包まれ、後ろに気配を感じて振り返った。濁った黒い炎が揺らめいて、生理的に嫌悪感を抱いた。存在を目にしたのは初めてだが、その正体が何かはすぐに分かった。
炎が話しかけてくる。
ーーー『私』と、その『核』の両方を抑えるのはさすがに難しいか。
せせら笑うような声だった。
ーーーこのままだと死ぬぞ。
和涅は炎を睨み付けた。
「『お前』からはいつも悪意を感じる。恐らく延珠安綱と違い、大悪虚へと戻りたいのだろう」
これは和涅の腕に移植された悪虚の思念だ。時折この悪虚の感情を感じることがあった。和涅はこの悪虚をナイリと呼んでいた。泥梨、つまり地獄という意味だ。
ナイリは独立型だ。しかし人類に対して協力的ではない。独立した精神を持ち合わせ、なおかつ分身型のように大悪虚への帰巣本能もある。それを和涅が力づくで組み伏しているに過ぎない。
ただ今回は自分の依り代の生死の危機とあって、こうして姿まで現したのだろう。和涅が死ねばナイリも同様に死に至る。
ーーー死んでもいいのか。
和涅はナイリの必死さに思わず笑いそうになった。なんと憐れな存在なのだろうか。
「お前は私に死なれると困るでしょう。それもいいけれど、今回は安心しなさい。私もまだ死ぬ訳にはいかない」
世界にヒビが入る。闇が侵食してくる。やがて闇は和涅とナイリを飲み込み、世界は消えてしまった。
突然病室に、心拍数モニターのアラートがけたたましく鳴り響く。
「和涅!」
黒基は和涅の顔を覗き込んだ。苦しそうに顔を歪めながら、酸素マスクの下で何かを呟いている。
「黒、基さん……」
和涅は自らマスクを外した。黒基はその言葉を聞き取ろうとする。
「……を……呼んで……悪虚……」
不意に彼女の右手に蠢くものを見た。その片鱗を目にした時、黒基は言葉を失った。
※※※
春彦達は攻防戦の末、正面玄関を制圧されてエレベーター前の廊下まで後退していた。霊力の防壁を張って籠城状態となる。
九係はたった一時間で最終ボーダーラインまで襲撃してきた。むしろよく一時間も保ったと言っても良いかもしれない。互いに法を抜けたり抜けなかったり、それなりの犠牲者も出した。電気系統もやられ、非常用電源に切り替えられ周りは薄暗いうえに、建物も何度も爆破されそろそろ限界だった。
(これ以上はもう、無理だ)
春彦は菱岡に叫ぶ。
「だめだ!やっぱり対人戦闘じゃ歯が立たない!」
「このエレベーターは使えなくしてあるから、まだ非常階段まで下がれる!諦めるな!」
「でも建物が保たない!」
「ワシが出る!」
周りの支部所属員が驚き目を剥いた。
「支部長が行ったら本当に死人が出ますよ!!」
「正気ですか!?」
爆音が響きながらも必死で引き留められる熊倉。
(この非常時にでも出動を止められるこのオッサンはどうなってるんだ本当に)
不意に朔が耳元の無線に集中し、目を見開いた。
「え!室長!?」
「なんだって!」
「春彦くん、室長が和涅さんの病室に呼んでる!」
「え、僕には何も来てないよ!?なんで宇化乃さん!?」
菱岡がショックそうに叫ぶ。
突然黒基が出てきたことも驚いたが、病室へ呼び出すのはどういうことなのか。
(何かあったのか!?)
また爆音が響き、天井から砂埃が大量に降ってくる。覚悟を決めた朔は刀を抜く。他の戦闘員や事務員も立ち上がった。
「行って!ここは私達が食い止めるから!」
「朔」
「行って!早く!」
朔は春彦の背中を押して、菱岡と目を合わせた。
熊倉が腹から声を出してフロアいっぱいに響かせた。
「お前ら行くぞぉ!!合図したら目と耳を塞げ!三、二、一!」
防壁が解かれ、閃光弾が投げられた。爆発の後、朔と菱岡が先頭に出て同時に地面を蹴った。九係と和歌山支部最後の総攻撃が始まる。
春彦は後ろ髪を引かれながらも、必死に階段を飛ばしながら駆け上がった。
残っていた精鋭相手に九係が怯んでいた。朔が相手の防具を砕くも、体重が軽いせいで軽々跳ね返された。今まで悪虚相手ではこんなことはなかった。
(悪虚相手じゃないと上手く動けない!)
それに心のどこかで相手は人だとブレーキをかけてしまう。それは他の戦闘員も同じだろう。唯一熊倉だけが雄叫びをあげながら勢いを落とさず、一番体格の良い戦闘員と格闘している。普段熊相手に相撲を取っている噂は本当なのだろう。
不意に背後を取られ地面を転がり避けた。相手の手にはサバイバルナイフ。切られると痛そうと思ったのは余裕からか、もしくは走馬灯に近いものか。
朔はこれまでの人生で人から刃物を向けられたことは一度も無かった。
(でも、私がここで怯んでどうする!)
朔は必死に抵抗し、刀でナイフの先を切り落とす。相手はすかさず折れたナイフを投げ、朔は叩き落とす。しかしその間に反対の手で腰から予備のナイフを取っていた。今朔の胸元はがら空きだった。確実に仕留められる距離。朔は思わず目を瞑って痛みに備えた。
「ーーーがぁっ!」
呻いたのは朔ではなかった。驚いて目を見開く。目の前に立ちはだかったのは、見知った背格好の男。彼は朔に向けられていたナイフを反対にして押し返し打ちのめした。その背中からはひどく懐かしい煙草の香りがした。
「テメー!うちの朔ちゃんに何してくれてんだこのヤロー!」
暁は振り返って、あの頃のように微笑んだ。
「よっ、元気か?」
「ーーー暁さん!」
状況も考えずに朔は心から喜んでしまった。この人はいつもここぞという時に助けてくれる。
「どうやってここに」
「防壁解除のどさくさで紛れ込んだ」
「でもここ和歌山ーーー」
「ーーーおいおい、まさかこんな所で会えるなんて!」
嬉々とした声に暁は突然表情を消した。防護ヘルメットで素顔は見えないが、暁にはピンときた。
「その声は音無だな」
音無はヘルメットを外すとニヤニヤ笑っていた。何を考えているのか、防具も全て外してしまう。
「とうとうウチに加入してくれる、って訳じゃあないよな」
「まだ言ってんのかテメェ」
そういえば鋳瀬村でも暁のことを勧誘していた。暁を九係に引き込むことは諦めていないらしい。
「どんな理由があれ、ウチの大事な仲間に手ぇ出したんだ、覚悟しろよ」
それが合図だった。武器も霊力も無し。シンプルに素手の取っ組み合いが始まる。
「音無!」
久世が叫ぶ。
「お前ら手ぇ出すなよ!俺とコイツの真剣勝負だ!」
やがて周りの戦闘員も二人の様子に気付いて手が止まった。異様な空気が漂う。先程まで総力戦の戦場だったこの場が、突然二人だけの独壇場となった。
「なんで三課の宍戸がここにおるんや」
九係二人の首を脇で抱えて絞める熊倉。
「僕が連れて来たんですよ」
「入相!?お前なんしとんねん!」
絞めていた二人が泡を吹き始めたので、解放して床に落とした。入相は落とされた二人に憐れみの目を向けていた。
「元々出張で大阪支部に来てたんです。不在の間本部が手薄になっていたのを狙われたのは不覚でしたが、GPSを見たら暁が近くにいたので、引き連れて加勢に来ました」
「アホか!本部はどうした!」
「今戻っても栄儀長の二の舞ですから」
二人のところへ朔が近寄る。
「久しぶり宇化乃さん」
「課長、どうして暁さんが和歌山に?」
「君と春彦くんを驚かせたかったみたい。まあ結果的にそうなったからよかったよ」
「勝手なこと言うなクソ課長!」
「よそ見なんて余裕だな!」
隙を突いて音無が暁の腹に蹴りを入れる。
「暁さん!」
飛ばされた暁だが数メートル後ろで踏みとどまり、一呼吸おいて獰猛な獣のような目を見せた。
「言っとくが、この後俺は謝らねーからな」
次の瞬間即座に間合いを詰め、数回ジャブを入れた後、頭に回し蹴りをしてKOとなった。
「音無!!」
久世が気絶した音無に駆け寄った。その場に謎の歓声が沸き上がる。
熊倉は暁の肩を力強く叩くと痛そうにさすっている。
「宍戸、一回ヤニ入れるか?」
「いい。さっき最後の一本吸ってきた」
そう言って暁は手の骨を鳴らして不敵に笑ってみせ、ちょいちょいと手招きして挑発する。
「残りもかかってこいよ」
すると残りの九係が次々と防具を外して、暁に戦いを挑んでいく。その異様な光景に朔は目を丸くした。
「どうしてみんな装備無しで……」
「男はアホなんだよ」
朔の疑問に入相は肩をすくめて笑った。
暁のお陰ですっかり場の空気は変わってしまい、殺気は掻き消え、格闘場になってしまった。
(時間稼ぎには十分だ)
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