4 許嫁の転校生
日が暮れ始めた。辺りが暗くなり、部屋の電気が明るさを増したような錯覚に陥る。菜緒子はまだ帰ってこない。
コーヒーがすっかり空になったマグカップを傍らに、窓際の椅子に座り外を眺め、咥えタバコをする暁に声をかける。
「俺いつ帰っていいの?明日テストなんだけど」
「うわー久しぶりに聞いたその響き。俺も昔は真面目にテスト勉強してたわ」
「そんな風には見えないけど」
「人は見た目で判断するもんじゃねーぞ」
部屋に居た数人の職員は皆定時だと言って帰ってしまった。意外とワークライフバランスの整った職場だ。
すると部屋の電子錠を開けて誰か入ってきた。一度しか会っていないのに、彼女のことは見間違いようがないほど脳に焼き付いていた。
「あれっ、暁さんと春彦くんがいる。どういう組み合わせですか?」
明るい声で小走りに入ってきたのは朔だった。
「菜緒子が連れてきた。んで二人で留守番」
「へー!」
ふと、さっきの記憶確認のテストを思い出した。
「本当に会わせてくれるんだな」
「ん?」
「いや何でも」
でも、あの時誰に会わせてくれたとしても、タブレットで彼女を選んでいて後悔は無かった。
「さっきは助けてくれてありがとう」
朔にこれを伝えておきたかった。すると朔は「いやいや!」と恐縮したように首を横に振る。
「こちらこそ、助けてくれてありがとう。春彦くんが刀を振るってくれてなかったら私死んでたよ」
「ああ、あれは別に勝手に刀が燃えただけだ」
春彦は手のひらを見る。手から離れないばかりに刀を奮ったが、怪我の功名とはこのことかもしれない。
ふとあの時聞こえた声が記憶によみがえった。
(そういえばあの時、声が聞こえたような)
パニックで幻聴でも聞こえたのだろうか。
「おっ、来たぞ」
窓の外を見ていた暁が親指でクイクイと指す。外を見ると菜緒子が車を猛スピードで飛ばして戻ってきたところだった。よく警察に捕まらないなという荒々しい運転だが、うまく歩行者を避けて駐車した。
菜緒子が車からこの部屋に車で三分もかからなかった。
「このままでは三課解散!私は降格の危機の為!作戦会議です!!」
春彦は首をかしげる。
「部外者の俺も含めてか?」
「記憶が消せないならあなたを殺すと言われたわ」
「普通それ言うのが先だろ」
朔が息を飲む。
「そんな!春彦くんが悪い訳じゃないですか!」
「朔ちゃんは優しいね。ても組織は春彦に責任をなすって、一係の任務失敗をうやむやにしたいんだろ。なにせ天下の第一課一係様だからな」
暁の声は、まるで自嘲のように沈んでいた。
春彦は椅子の背もたれに重心を預ける。
「五十億か。途方もない金額だな」
思わず笑ってしまった。笑っているのに、春彦は虚ろな目をしていた。得体の知れない組織だ。そういうことを言ってくることも、この部屋で待っている内に予想していた。
「委員会を庇う訳じゃないけど、悪虚の存在や私達の活動は完全に秘匿されているわ。秘匿しなければ世間が混乱に陥る。記憶を消せないならあなたを消すというのは理にかなっている。でも起死回生のチャンスがまだある。ーーーあなたの霊力を証明出来たら三課に引き入れていいと言われているわ」
驚いた暁は思わず口からタバコを落とす。
「コイツを三課に?」
テーブルの上に落ちたタバコを灰皿に移し、押し潰した。真剣な表情で菜緒子を問い詰める。
「霊力はゼロなんだろ」
「私は彼に霊力があると思っている。もしかしたら未知の性質を持った霊力かもしれない。何にせよ霊力さえ証明出来たら、殲滅委員会に入れるし、身の安全は保証されるわ」
「未知の霊力の証明なんてどうするんだ。お前が元研究班とはいえ限度がある」
「やってみないと分からないじゃない」
「たかが一週間だぞ」
「その前に、大事なことを間違えている。俺は殲滅委員会に入るつもりはない」
春彦の発言に三人は目を見開いた。
「委員会に入れなきゃ春彦くん殺されちゃうんだよ!?」
「殺したいなら好きにすればいい。俺は構わない。アンタらが本当に困るのは降格と解散だろ。勝手にやってろ」
「ちが…」
朔を遮って、菜緒子はにっこり微笑む。
「殲滅委員会にもいいところはあるのよ?ほら、みんな定時に帰れるワークライフバランス。委員会に入れば寮も朝夕のご飯まで付いてくる。福利厚生は充実。全国の支部への遠征はもはや小旅行!さああなたも委員会に?」
「入らない」
「…さすがに流れてくれないか」
「もう帰っていいか?俺は忙しい」
「死ねばテストも何も関係無いだろ」
立ち上がった春彦に、暁は試すような視線を投げかける。
「お前はそのテストを頑張らなきゃいけない理由に苦しんでいるんじゃないか?」
「……勉強は嫌いじゃない。そんな理由で死んでいいなんて言うほど子供じゃない」
「えらいねぇ。なら何で死にたいんだよ」
「アンタには関係無い。帰るからな」
すると朔が「下まで送っていくよ」と春彦と一緒に部屋を出ていった。
二人を見送った菜緒子はドアを見つめ、ため息をついた。
「さすが学生はナイーブね。ガラスのハートがトゲトゲしてるわ」
「何を言っているんだお前は。…それより、お前、本当にアイツを引き入れる気があるのか?やけに『手加減』するじゃねーか」
挑発するような物言いに、菜緒子は眉根を寄せる。
「何が言いたいの?」
暁は唇の端を吊り上げて笑った。
「本当にアイツを引き入れたいのなら、徹底的に、絶対的に逆らえないようにしろよ。朔にそうしたように」
「……」
菜緒子は黙った。彼女の様子を見て、暁にはどうして彼女が春彦に選択を委ねるのか分かりかねた。
「アイツを引き入れないと、アイツは殺されて、お前の夢も叶わねーぞ」
※※※
病院の三階から一階のエントランスまでエスカレーターで下りる。その間朔とは特に何も話すことはなかった。
エントランスには夜間診療に訪れる人が大勢いた。今日は休日、それにもう夜も遅い。この辺りではこの都立病院しか診てくれる所が無いのだ。
エスカレーターで降りてきた春彦に、一人駆け寄る人物が居た。
「春彦!」
春彦は目を見開く。
「母さん!」
「え、お母さん?」
後ろに居た朔も驚いた。
「どうしてここに。こんな時間に何やってんだよ」
「あなたの帰りは遅いからずっと待っていたのよ!草むしりしてくれてから帰ってこないし、お父さんの様子がおかしくて、問い詰めたらここに居るって聞いて。一体何があったの?その怪我はどうしたの?」
返答に困った。本当の事を全て話せば母にまで危害が及ぶのではと言葉が出なくなった。
「ちょっと熱中症で休んでいたんです」
代わりに答えてくれたのは朔だった。
「あなたは」
「私は春彦くんの友達です。近くを通って、倒れたのを見つけたので救急車に乗ってそのまま付き添っていました」
「そうだったの!春彦がお世話になりました」
「いえ。本当に偶然だったので」
朔はニコッと笑って春彦に向き直り、
「またね、春彦くん」
またエスカレーターを上がっていった。春彦はもう二度と会うことはないと思いながらも、振り返り手を振る朔に手を振った。
「あの子は帰らないの?」
「まだやる事があるんだと思う」
「そう…」
珍しく母が妙に大人しいと思った。普段はもっと元気なのに。
もしかしたら父に問い詰めた時に何か勘づいていて、朔の嘘もわざと信じてくれているのではないかと思った。
(父さんには何て連絡が行ったんだろう)
どこまで説明を受けたのか。何故母親に黙っていたのか。家に帰っても父はまだ仕事場に居て帰ってこなかったので、確かめることは出来なかった。
※※※
次の日最も期待していなかった邂逅を果たした。一学期始まって間もない今日、一年A組に転校生が来た。担任に促されて教室に入ってきた少女は、ハーフツインテールに巻き髪、ただ昨日と少し違って今日は高校指定のブレザーを着ていた。
「初めまして、宇化乃朔です。よろしくお願いします!」
「お前ー!」
春彦は思わず立ち上がった。
「何だ神崎、知り合いか?」
「彼女かー?」
「ヒュー!」
「違う!」
担任と級友達の冷やかしを振り払う。
何とか上手く説明してくれと朔を見やると、彼女は任せてと視線で返事をする。
「私は春彦くんの彼女です」
「「「マジで!?」」」
「何言ってんだお前ー!!」
「あれ、婚約者だっけ?どっちだっけ」
「明らか誰かに設定仕込まれてんじゃねーか!」
「照れんなよ神埼」
「この裏切り者めー!」
「ふざけんなー!!」
収集のつかない事態になってしまった。そして朔はさらに追い討ちをかける。
「先生すみません、婚約者なので春彦くんの隣に座っていいですか?」
「いいぞ」
「勝手すぎるだろ!!」
そして朔は既に座っていた別の男子生徒を押し退け、見事に春彦の隣の席を確保したのだ。
朝のホームルームが終わるとすぐに一限が始まったので、一限後の小休憩に朔を屋上に呼び出す。一年生の教室は四階なので屋上に近く、また一限すぐ後に屋上に訪れる生徒は居ないので話をするのに適していた。
「どーいうつもりだ!」
怒鳴った声をうるさがるように、朔は自分の耳に手を当てていた。
「仕方ないじゃん。委員会が期限までに春彦くんが逃亡したり情報漏洩することがないように、第三課で正式に監視任務を与えられたの」
監視と言われ春彦の心がざわめく。殺すまで放っておいてくれるほど甘い訳ではないらしい。
「それでわざわざ転校してきたのか。じゃあさっきの挨拶は何だ」
「あれ?あれは、監視するなら出来るだけ距離は近い方がいいって言われて」
「物理的であって関係性の距離感は要らないだろ。誰だあんな入れ知恵をした奴は」
「菜緒子さんだよ」
(あの悪魔め!)
前から本能的に気に入らない女だと思っていたが、つくづく余計なことをしてくれる。
「だいだいお前の元いた学校生活はいいのかよ」
「上司の命令なら仕方ないよ」
朔は遠い目をしていた。
「別にこういうことは今回に限ったことじゃないんだよ。慣れてる」
「社畜かよ。だとしても婚約者の設定は要らなかっただろ!教室が同じだけでも監視は出来たはずだ。多分あの女は面白がってるだけだぞ」
「でもこの設定を付けたら、菜緒子さんのポケットマネーから手当五万出すって言われて」
「やっぱりな!ポケットマネーってもうそういうことだろ!」
春彦はため息をつく。
「お前ももっとよく考えろよ。金に釣られるな」
「ごめん私お金に目がなくて」
清々しいほど自分に正直な謝罪をされる。もしや金を出されたら本当に何でもやってしまいそうだ。そして何かに巻き込まれやすそうに見える。
忠告も兼ねて、春彦は少し脅かすことにした。
「じゃあ婚約者だって名乗ったかぎりは責任取れるのか?」
「責任?」
自分より頭一つ分ほど背の低い朔に、春彦は顔を近づける。何をされるのか察した朔は頬を赤らめる。
「いやーーー!!!」
朔は叫びながら春彦の襟と腕を掴み背負い投げをした。声をあげる間もなく、春彦の背中から下半身にかけて叩きつけられた衝撃が走る。一瞬息が止まった。
「な、なな何するの!次やったらただじゃおかないから!」
「もうただじゃおいてないだろ…」
何とかツッコミを入れる声を振り絞った。
(フリだけのつもりだったのに、コイツ強すぎる…)
ちょうど同時刻、学校校舎の向かい側にあるビルのテナントから、朔と春彦のやりとりの一部始終を双眼鏡で様子を伺う男が居た。今朝いきなりここでの張り込みを命じられた暁だ。
「何が嬉しくて他人の青春をコソコソ盗み見なきゃなんねーんだよ。しかも朔は綺麗な背負い投げを決めてるし。何だあのプロ顔負けの一本は」
「元気そうで安心したわ」
「お前の目はどうなってんだ。モニターで見てるだろ。どう見ても喧嘩じゃねーか」
無線の向こうに居る菜緒子の目を疑う。
「朔ちゃんが本当に危険を感じていたら春彦くんの意識はもう無いわ。あれはじゃれあっているだけ。監視を続けて」
「だりー」
「監視!」
「はいはい、りょーかい」
と言いつつ暁は全く真面目に監視を行わず、定点カメラを設置して、当の本人はタバコを吸う為喫煙所に入り浸っていた。
※※※